ロコ・オルカーン

ロコ・オルカーン Ⅲ 

「こちらはマダム・Von Branchitschさん。」
 Ottoは仰々しく胸に右腕を押し付けて右掌を心臓の上に当てる国歌斉唱の時の動作をして、ワゴンの横のアジア系の女性を皆に紹介した。背丈のあるマダム・フェラーと並んで立っていても顔半分低いだけで、全く遜色がない。恐らく170㎝以上はある。ヒジャブのように巻いた白いスカーフの一端を吹き流しのように咥えている。
 皆を見ているようで、実は見られている側の皆に、自分ではなく自分を通り越えた後ろにいる他人を見ているような錯覚を与えるズレの視線。ジュンはその視線を知っている。もう何作も少女の肖像画を描いてきて、鑑賞者が少し脇にずれて立っても自分を見ているような視線の目入れはできても、まさに今の彼女の目線を描き込むことが決してできないから知っている。
 描き手の画家をモデルは見ているわけで、完成した絵の正面から視角5度以内に立つ者は画家の代わりにモデルから視線を浴びるのは当たり前で、世で言われる「モナリザ効果」がダヴィンチの魔術だなどとは思わない。ジュンはその当たり前の目入れではなく、今のアジア系の女性の、こちらを見ているようで、じっと見返すと実はこちらの右肩の上を通り越した先を見ているのかもしれないという不安をあたえるような目遣りの神秘的な瞬間を描けないものかとずっと腐心してきている。彼女は今、画家ジュンを一瞥して会釈をした。いや、あるいはジュンの背後に立つ皆を一瞥して会釈をしたのかもしれない。
 つぶらな大きな瞳とはっきりとした二重の()(がん)は彼女の背丈と同じように、ヨーロッパ人がまず思い描くアジアの女性の華奢で弱々しいイメージからかけ離れている。名前とは裏腹に、どう見てもハーフではない。現地男性と結婚した美女の多いという黒龍江省ハルピンあたりの出身の中国人女性だろうか。口を外すと、頬かむりのようになっていたスカーフがはらりと解け、Von Branchitsch夫人の長い光沢のある黒髪と端正な顔立ちが顕れる。その瞬間、食堂の男たちの息吹が止まり、音が消え、Von Branchitsch夫人の大きな黒い瞳の見る先が自分ではなく誰なのかを皆が探りあっている気配が食堂に溢れた。
 長い黒髪を右側の肩の前に払い流して、丈の長い白いX型のカフェエプロンの肩掛けを外す。サイケ柄の黄色の花柄のニットのワンピースが露見して、薄暗いワイナリーの従業員用の大食堂の一廓に突然場違いな華が咲く。ボディーラインにフィットしたタイトなシルエットを男たちが舐めるように目で値踏みしている。
「だめだめ、みんな!言ったよね、『マダム』Von Branchitschだって。Fräuleinでもmademoiselleでもないから!それから『Von』Branchitschさんだからね、何でもポーランドのシレジア州の貴族で、時代が時代ならなかなかお話しも叶わないご家系なんだからね!」
「Otto、ちょっと待って。そんなんじゃないから、私は。こんばんは、みなさん。あのドイツ語でいいかしら。わたしフランス語下手で。」
「何語でも構いません!話しておられる姿にどうせ皆魅入っているだけですから!」
ヘルパーの一角から声がかかる。軽い笑いが食堂に渦まく。
「Erikaと呼んでください。Ottoがすき焼きを作りに来てくれというので来たら、さっきまでKaysers-bergの西の斜面で葡萄を刈らされてました!」
「Erikaごめんなさい。手が足りなくって・・・。てっきりヘルパーの方だと思って。だって軽々といっぱいの大かごを担げちゃうし。それにOttoが毎年いろんな人を連れてくるもんだから。」
マダム・フェラーがそう言ってジュンの方にまず目をやり、次に目線でVon Branchitsch夫人とジュンの間を交互に繋いでからOttoを見据え、だって、仕方ないでしょうと肩口の高さで両手を広げて見せて更に笑いを誘う。
「いや、僕の手塩にかけた Pinot girsの奴らがどうしても東洋の美しい夫人の手にかかって摘まれたいってきかないもんで・・・。今年のボトリングで Pinot grisの銘柄名は『Erika』にしたいとマダム・フェラーにご提言しようかと・・・。ねェ、マダム・・・。」
「Ottoの育てた葡萄だから、Ottoがお好きなように。」
「じゃあ、Pinot gris Kaysersberg-Quest /1973 / Alsace Grand Cru/ Erika et Otto / Domaine Weinfluss。どうだ、みんな、最高の響きでしょう?」
「Erika et Otto?」
「もうバカ売れ、在庫切れ間違いない。」 
「そうね、et Ottoを取ればね。Erikaさんの名前だけでお願い。」
 OttoはErikaが手にしていた30㎝ほどの菜箸を取り上げ、一本づつ両手に握って両方を宙に振りかざし、指揮者が二本のタクト棒を構える真似をする。
「諸君!これは指揮をするためのタクトではない。こんな具合に両手で持ってはいけない。こうやって、片手で二本とも握って、どうやらジュンの来た国あたりでは、皆このStäbchenで食事をするらしい。そして、どうやらこの手品のような技術を、中国人も日本人も全員マスターしており、さらに、どうやら、生存競争もかなり激しいらしい。テーブルの向こう側の奴の肉の方が大きければ、これだけ長ければ、腕を伸ばしてこの棒で突き刺して奪うことだってできるわけなのです!」
「Otto、それは料理するときに使うの、ほら、お鍋だと火で熱いから長い方が安全でしょう?」
「そうだったね、食べるときのStäbchenはずっと短かかったね。」
 ErikaはOttoから菜箸を奪い返して、すき焼きの大鍋の中の具を手際よく整え始めた。その様子を見て、ひょっとすると、とは思い始めていたが、Erikaが日本人に違いないとジュンは確信した。ジュンが風呂を浴びに二階に上がるとき、ふと嗅ぎ取った醤油の焦げるような匂いはこのすき焼きだったわけで、奥の厨房でErikaが準備をしていたに違いない。Erikaという女性名はヨーロッパ各国にあり、日本人名とは限らないが、、目の前のErikaが日本人であればジュンは妙に嬉しいだろう。祖先とする原人の種が異なるとは言え、ゴヤの裸婦画のマハのプロポーションを持つ日本人女性もいることを現地の男どもに実物で見せることができるのなら、得意になれる。どうかね、大和撫子も。捨てたもんではないだろう。
「いや、諸君、安心したまえ。幸か不幸か、このワイナリーの食堂にはナイフとフォークとスプーンしかない。Stäbchenを扱えず、肉を摘まめず、餓死することにはならないのでね。諸君の口に合うか合わないかは分からないが、ベースのSojasauceは赤ワインとはまず全く飲み合わせが悪いが、ソムリエOttoとして申し上げると、ご覧のように調理に使われる砂糖と日本酒と去年の吾がPinot grisの白ワインの相性はなかなかのもので、是非お試しいただきたい。」
 サラダ用の小鉢にErikaがすき焼きを取り分けるのをマダム・フェラーが助けようとしているが、見かねてジュンが代わりに手助けに入る。ヘルパーたちがすき焼きの大鍋に挙って寄ってきて、もう誰もOttoの芝居じみた演説を真剣に聞くものはなく、醤油の軽く焦げた香ばしい匂いと大鍋から沸き上がる湯気と人いきれが溢れ、時間から時刻という区切りがなくなっていった。
 本来主賓であるべきジュンは、流れですき焼きをよそうErikaの脇で小鉢を差し出す配給担当になってしまっていた。長テーブルの反対側ではマダム・フェラーとOttoが皆にワインを振舞っている。すき焼き鍋から煮えた薄切り肉を更に一片加えて小鉢を渡すと皆お礼のお愛想で肩を触れてはゆく。次第にフランス語とドイツ語が食堂に溢れ、気儘に渦巻いて流れてゆく。ジュンとErikaはその流れから切り離されていた。
「日本の方ですよね?」
 ようやく鍋の周りに張り付いていた欠食児童のようなヘルパーたちの囲いが解けて、話し掛ける間ができた。一瞬戸惑う様子だったが、軽く頷きながら、Erikaがすき焼きの具を小鉢に盛ってジュンに渡す。
「有難うございます。ようやくこっちもご相伴にあずかれる。」
「お肉、硬いですよね。」
確かに噛み切れず、一片ごと頬張るしかない。アルザスですき焼きを食べられること自体想像していなかったジュンが霜降り肉を期待するはずもない。醤油と酒と砂糖、豆腐にしらたき。それだけで出張中のジュンには有難く、贅沢を言うつもりなどない。
「いえ、ありがたさを、噛みしめて。おいしいです。」
「(軽く微笑む)Angus牛のChuck Rollなんですけど、Wie Papier薄く切ってって、ボンの行きつけの肉屋さんではお願いできるんですけど、ここの肉屋さんはわかってくれなくて・・・。」
「なるほど、紙のように薄く、ですか。」
「牛肉を煮る料理はこちらではあまりないので。Rouladenという巻き肉料理はあるんですけど、それもまず表面を焼いてから煮るので。」
「すき焼きといっても誰も知らない。」
「食べ物としては・・・」
「食べ物でないすき焼きがあるのですか?」
「はい・・・」
「?」
「歌です。」
「歌?」
「こちらでも大ヒットしたんですよ、『上を向いて歩こう』。」
「ああ、坂本九の?」
「そうです。こちらではあの曲『SUKIYAKI』っていうタイトルで流行ったんです。」
「なるほど・・・。」
「今Hot ButterのシンセサイザーのPopcornって曲が流行ってますけど、ラジオではPopcornが流れると次はSUKIYAKIが聞こえてくることがこのごろ多いんですよ。」
「ホット・バターのポップコーンとすき焼きですか・・・。」
 こんな話ではない。今、ジュンが話したいことは。日本から一万キロ離れたこのアルザスの葡萄の低木が列をなして斜面という斜面を競りあがり、はるかな尾根の向こうへ、うねり上がってゆく生涯見たこともないこの広大無辺な風景の中のフランスの僻村のしかもその一点である鄙びたワイナリーの中世のままのような建物の伽藍の食堂の一廓で、なぜ初対面の我々日本人二人が菜箸を握って、フランス人たちにすき焼きを取り分けているのか。あなたは誰か。日本人なのに、どこから、降って湧いて、ここに今おられるのか。秩父夜祭の夜、女神の妙見様が年に一度、神体山である「武甲山」の男神の龍神様と秩父神社境内でデートをする。山車を引き回し、皆でその逢瀬を一緒に祝う。いや。こんな話でもない。話したいことは。菜箸を握ったままの手を持ち上げて、Erikaは口元を覆うような仕草をしながら笑っている。
「じゃあ、ジュンさんは龍神様?」
 初めてErikaがジュンの目を、直視している。日本人離れした丸アーモンドの瞳がジュンを見ているというより、ジュンを覗いている。見られているようで、実は見られてはいないのかもしれないという例の視線ではない。明らかに、至近距離からジュンを覗いている。いつものジュンの画家の目であれば、押し返せるのかもしれないが、今ジュンは見る方ではなく、見られる側という普段と違うポジションにいる。いつ目が合うのか、一体目を合わせられることがあるのかもわからないErikaの持ち合わせる例の視線に不意に直視され、ジュンは全く無防備のままだった。ジュンを覗いているErikaのその視線は、ジュンを射抜いて、ジュンの両目を通り抜けて、さらにジュンの後ろを見透かしてゆく。まてよ。これも例の視線と変わらないじゃないか。同じじゃないか。俺は、ここだよ。そっちじゃない。ここ。
「生卵も一応持ってきてあります。割りましょうか?」
「そうですね。お願いします。」
「こっちの人たちは、卵を生で食べないんです。ご存じですか?」
「半生のスクランブル・エッグや半熟卵はホテルの朝食で出ますよ?」
「でも生卵は嫌うんです。こうやって卵を溶いて啜ったりすると、ゲゲって感じでみんな引くんですよね。野蛮人観るように。」
「火をまだ知らない頃、こいつらの祖先のネアンデルタール人だって生でシカやイノシシや何でも喰っていたのでしょうにね。恐竜の卵を割って手で掬って啜ってたかもしれない。」
「チフスが流行った時、生卵のサルモネラ菌が原因だってみんな思ったらしいです。生食が禁止されたこともあるって聞きます。鶏のお尻から出てきたものだからばい菌だらけだって。」
「お尻からねェ。まあ言われてみればそうでしょうがねェ・・・。」
「スーパーに行かれたことあります?」
「いえ、というか、今回はまだ。」
「真っ赤な卵とか、真っ青な卵とかパックで売ってます。ほら、向こうの棚の下の籠に朝食の残りのブルーの卵がいくつか盛ってあるのが見えますか?」
「色が殻に塗ってあるのですか?」
「そうです。」
「鶏卵の種類で色分けとか、例えばブロイラーなら赤とか?」
「生じゃないって標です。茹で卵は殻が着色されているんです。」
「じゃあ、あのブルーの卵を割っても、すき焼きのつけ玉にはならないで茹で卵っていうことですね?」「はい。」
「私の住んでいる秩父では、そもそも牡丹鍋といって猪を煮て食べるんですが、卵なんてもう高級品で、鍋の最後に親父が一人で一個だけ割って鍋に直接掛けてとじ玉として煮て食べてましたね。なんか美味そうで。生卵を各自につけ玉として出すなんて最近のことで、卵一個でかけそば三杯分の値段がしてましたからね。そんな贅沢は出来ませんでしたよ。」 
 こんなしみったれた話じゃない。今、ジュンが話したいことは。語彙を集め、収斂させ、ジュンは今話さなければならないことが別にある。何を聞こう。何を聞き出そうか。まず自己紹介だろうが、俺はなんで卵を一人で食っている親父のことを話さなければならんのか?すき焼きを啜りながら宙に目を泳がせているうち、不幸にも長テーブルの向こう側のOttoと目が合ってしまう。いや、お前はそっちにいてくれ。俺はお前を見ていない。呼び寄せるために目を遣ったわけじゃない。Ottoはジュンの目を執拗に追って、目線を合わせてから、下顎をErikaの方に向けて二、三度ウリウリと動かして、意味ありげな上目使いをしてくる。
「(どうだい。いい女だろ?。)」
 そのままそっちにおれ、という合図のつもりで目線を外したが、OttoはすかさずPinot grisのワインボトルを持ってふたりの間に分け入ってきてしまった。
「Pardon、Pardon!ご両人、お邪魔かな?」
「Otto、ワインくれるの?」
「もちろんです、マダム Von Branchitsch!」
「その呼び方はもうやめてね。」
「失礼。では、今晩からここではErikaでよいですね?」
「Erikaにしてください。」
「(笑う)わかりました、気楽なErikaにしてあげます!」
 Ottoはソムリエがシャンペンを注ぐときのように底の方に親指を差し込んで持っていたボトルを持ち換えて、ボトルのボディーを鷲掴みにしてErikaとジュンと自分のグラスに薄金色のPinot grisを流し込んで自分のグラスを目の高さに上げて言う。
「これがね、友達同士のワインの注ぎ方。Erika、Otto、そして日本からの私の客人のJuin。A votre santé!Prost!」
「ところでジュンさんはOttoの何のお客様?」
「あれ、自己紹介もまだなの?ムッシューJuin Moriya?」
 左肘でOttoはジュンの脇腹のあたりをぐりぐりと小突いてくる。中腰になってズボンの後ろのポケットから徐に丸めていた新聞を取り出し、ページを指を舐めながら捲って、すき焼き鍋の横で広げて見せる。タブロイド判の地元紙の新聞で、文化欄らしきページの紙面にジュンの顔写真と秩父夜祭の屋台の前で嘶く白馬を描いた「絵馬」の白黒写真が代表作として掲載され、Colmarの観光見本市のコンペティション会議で日本のOGANOの春祭りが著名カーニバル画家Juin Moriyaによって紹介されたことが高評されていた。小鹿野春祭りの招聘に好意的な内容だった。
「こちらのJuinはね、日本の絵描きさんで、著名なカーニバル画家。」
「著名でも、カーニバル画家でもないけど・・・。」
「絵描きさんだったんですか。ワインの仕入れの業者さんかと思ってました。」
「私もこの記事で今朝知りました。ホテルのお客さんだっただけで、まさか著名な日本の絵描きさんとは全く・・・。ただ、ワインのテイスティングのとき、まず揮発香を消すために、手首でワイングラスを零さずにリズミカルに回して香りを嗅いだ初めての日本人だったんで、この人はワインを知っているとすぐに判った。だからKaysersbergにお誘いしたんです。」
「お陰で腰が痛い。」
「私も。」
「テイスティングはどこで習った?」
「若いころ、Villiers-le Bacleのレストランで。」
「どこの村かな?聞いたことないな。」
 Ottoが首をかしげている。物知りのOttoでも知るはずはない。ジュンや一部の日本の画家にとっては聖地でも、飲食のフランスの洒落た文化圏からはかけ離れている。
「パリの郊外のさびれた村。」
「いつごろのこと?」
「私が二十二、三で留学していたころ頃です。そこに住んでいた先生にいつもパリの詩人や画家たちのワインの飲み方はこうだって教わった。コクトーはこう、ピカソはこんな感じって。」
「我が国の誇る偉人たちとも親交がおありでしたか!」
「いや私じゃない、私の絵の先生の話。」
「そちらにはどれぐらいいらしたんですか?」
「三年ほど出入りしてました。というか、ワインを頂きによく伺いました。」
 Ottoが注いでくれたワイングラスの柄の下の方を指で摘まんで、ジュンは薄金色のPinot gris Kaysersberg-Questをグラスの中の遠心力の渦に巧みに巻き込んでかなり激しく回して見せる。
「これは私の先生の飲み方。教わり始めの頃、よく先生にワインを引っ掛けちゃったもんです。今お前、7フラン分零したぞって。ほら、床にもうひと財産ぶちまけてるって。零すたんびにフランス語の聖書を朗読しろって。」
「(笑う)それでフランス語がお上手なんですね?」
「いや、まあ先生はクリスチャンで、晩年で何か宗教画に取り掛かっておられたからでしょうけどね・・・。」 ジュンは人差し指をグラスの中のワインに浸して、その指でワイングラスの縁に沿ってゆっくりと円を描きながらなぞり始める。ワイングラスが擦れて共鳴音が立ち始める。パリの大道芸人は、音階分のグラスを固定して並べて、国歌「La Marseillaise」を両手で弾くのだと言って先生がグラスの鳴らし方を教えてくれた。中の液体の量でドレミファに調律できる。Erika が本当に初めて笑った。ジュンも初めてErikaの瞳を自分から捉えにゆくことができた。食堂のヘルパーたちも気づいて一斉に皆長テーブルに自分のグラスを置いてグラスをなぞり始める。色々な音階の共鳴音が食堂に一頻り溢れる。中には縁を指でなぞりながら、立てた音に陶然として鼻を上にあげ顎をあげ、音に合わせてゆらゆらと演奏家気取りで小首を振る者もいた。OttoがErikaから菜箸を一本取り上げ、またタクトのように指揮をする振りをする。
「いやいや、ムッシューJuinが上手なのはフランス語だけでなく、フランスの誇り、ワインの文化をも十分判っておられる。今日刈り取っていた頂いたKaysersbergの葡萄たちに代わって、ErikaとJuinに心からご加勢に感謝します!」
 Ottoが席で改めて佇立して、右腕を胸に当て、左腕を後方に大きく振り上げ、二人にお辞儀をしながら片膝を低くして深々と礼を表する仕草をする。王に恭順を示す中世の最敬礼。道化であれ、Ottoの中に源とするヨーロッパの文化の根があって、その深いところの根から発せられる茎であり葉である手足の動きや台詞は堂に入っていて軽々しさを感じさせるところがあまりない。真似事の仕草なら癇に障るはずだが、異文化の異なる大仰な仕草にも嫌味を感じないのは不思議に思う。何かわかる気がしてしまう。白熱電球や新しく導入され始めたGermerやGEの蛍光灯で部屋が明るくなっても、今、長テーブルの中央で灯っている灯油ランプの橙色の明かりにはなにか不変の懐かしさがある。言葉も仕草も実際のところは言いたいことの内容が伝わればいい。照明も明るければそれでいい。だが、きっと言葉にも仕草にも、また明るさにも時代を越える味がある。時代を超える色がある。その味や色でこそ文化が成り立つ。進化して変化変転する文明はそれでよい。が、変わらない文化が残されていてもいい。 
ジュンはふと薪能に幼いさとしを連れて行った晩のことを思い出した。あの晩、確かさとしは何も分らなかったにもかかわらず、騒ぎもせず、寝入ることもなく、ただじっと、目を爛々とさせながら固唾を呑むようにしてその緩慢な静かな舞いと謡いに魅入っていた。
「何言ってるかわからないだろ?」
「あれ女の人のお面?」
「そうだよ。」
「悲しそうだね、とっても・・・。なんかかわいそう・・・。」
 さとしはあらかじめ教えておいた筋書きしか知らない。ただ、時代を越えて、深いところの根から発せられた能役者の舞いの仕草と謡いの響きに、それらの味や色に触れ、なにかをわかっていたのかもしれない。飽きてウルトラマンのシュワッチをし始めるのではないかとやきもきしていたが、思いもかけず、さとしはスペシウム光線の未来の文明ではなく、六百年前の所作を伴う日本の歌舞劇という文化を楽しんでくれていた。Ottoはある意味、レストランでも、この鄙びた中世のままのようなワイナリーでもどちらの場でも舞台の役者のようでもあり、そのおかげで、今ヨーロッパにいることをジュンは実感できるし、その味も色も楽しめている。時刻の突起がやすりで削がれた心地よい時間、居たことがあるわけはないが、何か懐かしい中世のヨーロッパに迷い込んだような時間の中で、ジュンは居心地に陶然としていた。ブリューゲルの「農民の結婚式」の絵の中に自分がいて一緒に酒を呑んでいるような錯覚。来て良かった。
 急に風が吹き荒れてきて、館の窓や扉が音を立て始めた。稲光がして、雷鳴が遠くから聞こえてくる。まだ食堂の談笑は続いていたが、ヘルパーたちの目線が皆窓の方に向きはじめた。雷鳴が近づいてきた。急転して、日中の気温が嘘のように、冷気と風が館内に吹き込んでくる。籠っていたすき焼きの醤油の残り香がその風に吹き上げられて、すっかりもう消えていた。稲妻で浮きあがる稜線のひと尾根向こう側では間違いなくすでに滝のように冷たい雨が降っていて、その一帯の冷えきった大気を巻き上げてそれが畝伝いに吹き下りてくる。観念したように、Ottoがワイングラスを珍しく乱暴にテーブルに音を立てて置く。ヘルパーたちに向かって腕と掌を腰のあたりから自分の鼻先に大きな弧を描いて振り上げて、「行くぞ」と促すと、事情を分かっているヘルパーたちも一斉に立ち上がり、入り口の教会堂風のオーク材の重い扉を開け放って、もうすでに逆巻くようになった小夜嵐の中に飛び出していった。扉の鉄製のドアノッカーの輪の揺れる軋音と、時折、中庭を掻きまわすような旋風に煽られて、コツコツと厚い木扉に当たる音が食堂に響く。
「Orkanだわね。」
「そうですね。私もお手伝いに出ましょうか?」
マダム・フェラーにErikaが応答する。
「あなたたちは着替えているし、残って、そうね、ドリンクだけ残して、Dinnerの片付けだけお願いできるかしら?私は葡萄の方を手伝いにゆきます。」
打って変わったマダム・フェラーの顔色にジュンも事情を察した。
「よくないのですか?」
「最悪よ。」
「強風で葡萄が落ちるからですか?」
「(深く頷く)それに、雨はもっと・・・。収穫前に水気を吸うのはよくないの・・・。成っているのにも、収穫したのにも。」
「全部確か野ざらしのままでしたね。」
「雨が来る前に、せめて収穫した方にシートを被せないと!」
 Ottoが外から窓をたたくので、そばにいたErikaが開けようとして旧式のT字型レバーハンドルを回した途端、スライド・ラッチもこじ開けて突風が食堂に吹き込んできた。
「マダム・フェラー、暗くって何も見えない。二階から、ほら、おととし買っておいた投光器で中庭を照らしてください!4台、二階の奥のチェストに入れてあるから!」
「雨は?」
「まだ。でも来る。」
「Otto、あなたよ、今週は降らないって言ってたのは⁈」
 Ottoは下腹のあたりで手の平を表に返して両腕を広げて見せる。どうしろというのかという仕草。「天はあなたに試練を与える・・・。」
 なるほどそうね、と言わんばかりに、マダム・フェラーが人差し指をOttoに向けて、目を見つめながら頷く。
「Juin、申し訳ないが、君の今夜の寝室の奥のチェストだから、マダムが投光器を出すのを手伝ってあげてくれないか?」
 延長コードを這わせて、二階の四か所の窓からマダム・フェラーとジュンが作業用の投光器を中庭に向けてセットを終える。光の大きな四つの暈の下で、ヘルパーたちが次々と昼間収穫したブドウを積み上げてあった大きな箱型の車輪付きの荷台を中庭の中央に寄せ、カバーや筵を手際よく被せて、風に捲れないようにロープで括り始めている。
「マダム、皆さんの手際の良さはオリンピック並みですね。」
「(中庭に目を遣りながら)そうね、初めてじゃないから。」
「なるほど。」
「おととしはこの明かりがなくて、雨もひどくて・・・。」
「でも収穫した葡萄をなぜすぐに貯蔵庫にしまわないのですか?」
「うちは代々、最低一日は籠干ししてから地下のタンクに落とすの。」
「おまじないですか?」
「精一杯甘くなるように甘やかしてきたから、あの子たち。親から離されて泣いているから、まずその涙が乾くのを待つの。」
「葡萄の子が泣くんですね?」
「そうよ、みんな一人っ子なの、あの子たち。」
「?」
「一枝に一房だけ成るように、他の芽は取って育てているから。」
「なるほど。」
「子供は親離れしてから熟すの。でもね、熟す前に濡れると良くない。甘酸っぱくなってしまうのよ。」「なるほど。」
「じゃあ、申し訳ないけど、後片付けをお二人にお願いして、私は手伝いにいきます。」
 稲妻が走り、Ottoが両開きにして出て行ったまま開け放しの厚いオーク扉を右手で掴み、左手で合羽のフードを被りながら中庭に出てゆくマダムの長い影がエントランスの床に浮きあがる。稲光のライムライトの逆光が、中庭に面した別館の脇に聳え立つポプラの巨木を背後から照らし、その影が、天声とほぼ同じ間合いで幾度も中庭から競りあがり、ジュンたちのいる母家にまで生き物のように伸びてくる。閃光が空を二分して黒鼠色の雲塊を刺した瞬間、割れた夜空から滝落としの雨が始まった。忘れていったトーチランプとゴム手袋を持ってErikaが慌ててマダムを追ってゆく。呼びかけてももはや聞こえるはずもない。ポプラの巨木の足元には、鉄製の井筒の被せてある腰の高さに円筒状にレンガを組み上げた屋根付きの井戸がある。そこで追いついたErikaとマダムのまるで揉み合うようなシルエットをひときわ激しい稲光が二度照射する。
 逆巻く風がKaysersbergの丘の葡萄樹の畝の隊列をなぎ倒すように吹き降りてくる。扉は風圧でもはや一人の人力では閉められなくなっている。このまま、丘の葡萄の尾根が丸ごと館内に流れ込んでくるとして、この古い館がそれをせき止めることができるだろうか。丘の斜面一帯が狂ったフラッシュバックのように不規則に照らし出され、とうとう、その閃光と雷鳴が頭上で同時に炸裂し始める。重い太い雨が館の屋根を打ち、樋から溢れ、扉を閉めようとしているジュンとErika をずぶ濡れにし、二階の投光器の明かりは中庭ではなく、銀の雨のカーテンを照らしているだけとなっていた。途切れ途切れに聞こえていた中庭のヘルパーたちの掛け声はもう一切聞こえなくなっていた。すでに中庭のカバー掛けの作業は終わり、葡萄の網掛けに皆丘に上がっていったのかもしれない。Orkanが全てを支配し、何もかもを閉じ込めてしまった。
「これ台風ですよね?」
「Orkanって呼ばれてます。どっちかというと秋から冬にくる嵐ですね。ちょっと今年は早い気がします。」「まあ、台風も野分といって秋の季語ですから、似ています。どこの国にも嵐はあるんですね。」
 風向きによって風圧が緩む瞬間を読みあって、大声で掛け声をかけあって重い扉をようやく閉め、両扉の閂錠の丁番を通して固定しおうせた時、この残された二人も吹き込む雨を全身に受けて濡れ鼠だった。
「我々にだって、やはり、合羽を貸してくれるべきですよね?」
「ほんとうですね。」
「あなたたちは着替えているからって、私は構わないけど、そのマダムが忘れ物はするわ、Erikaさんのせっかくのワンピースずぶ濡れですよ。まったく・・・。」
「私、全然構いません。みなさん、もっとずっと大変です。」
 Erikaはワンピースの肩口や脇腹のあたりを掌で水滴を払う仕草をし始めて、実はそれどころではなく、着衣すべてがぐしょぐしょであることに初めて気が付いたようだった。濡れ具合を調べるつもりでワンピースを鳩尾のあたりから下に引っ張ると、薄手のニット地がさらに肌に張り付いて、却って胸元のブラジャーのラインと、うっすらと乳首の隆起が透けて見えていた。下向きになったまま、Erikaはそれを隠すように腕組をした。頬に張り付いた髪を片肘を解いて、かき上げたとき、仄かに黄水仙の香りがした。
 ブローで少しアップにしていた黒髪が濡れてボリュームがなくなり、目の前のErikaの立ち姿そのものが急にシュンと小さくなっている。外から聞こえてくる霹靂の轟と館を貫く鋭い放電発光が繰り返す光と音の炸裂の真っただ中で、閉じ終わった扉に内側から手を掛けたまま、ジュンは今、自分たちがどこにいるのか、どこに置き去りにされ、今がいつなのか、さっきまでの賑やかな晩餐が遠い昔の、まるで館ごと中世のヨーロッパにタイムスリップして見ていた夢から二人でこの今に舞い戻って来た気がした。Erikaも同じように、見知らぬ時空でジュンと「今」に取り残されていることに気づいているのかもしれない。
 毛先を指でいじった後、髪全体を絞るようにして水気を軽くひねって肩から胸元に下ろす仕草を繰り返している。辛うじてまだ残っていた緩いブローパーマも取れてゆき、そこには余所行きの外装を脱衣した素のままのErikaがはるか以前の少女のように所在なさそうに立っている。まるで母親や父親の前のように。晩餐に颯爽と登場したVon Branchitsch夫人以前のErikaが時空を遡って、今、ジュンの前に立っている。
 疾風迅雷に抗いながら一人で扉を支えていた時、雷光で闇に照らし出されるポプラの大木が気にかかってジュンは何度も振り返った。あれは樹じゃなくって、あの古い井戸から這い出してきた巨人じゃないのかな。だれだっけ、そんな絵があった気がする。クールベだったっけ。奴は見たことのない天使を描けないって言ってたから、違うな。セガンティーニあたりだっけ。いや、あのポプラはルーベンスの我が子を食らうサトゥルヌスに近いな。ジュンは両手を何度もシャツで拭った。雨に濡れて手が滑るからだけではなかった。掌に汗を握っていたからだった。葡萄の畝丘に一人向かったマダム・フェラーの後ろ姿が二度照らし出されてから、見えなくなった。中庭の先に別の小道があってそっちに折れたのか、次の稲光の瞬間から既にその白い後ろ姿が映し出されなくなったことが気になった。いや、二度目に雨の中に照らし出されていたのは、こちらに向かって走って戻ってきていたErikaの姿だったかもしれない。マダムではない。戻ってくれてよかった。そしてポプラの下の井戸から戻って来て、けなげに一緒に無心に扉を押してくれたのは、滝の雨で身に纏っているものをすっかり洗い流して、装いの全くなくなった素のErikaだった。Von Branchitsch夫人としての経年以前にタイムリープして、ジュンの今にErikaが蘇って現れた気がした。
 玄関エントランスの天井から吊るされている古城風の蝋燭型電球が環状に二段並ぶシャンデリアがどこからか吹き込んでくる風に反応して、橙白色の明かりが絶え間なく揺れている。Erikaもジュンもその明かりの中で、口は利かず、雨が屋根を打つ音に包囲されたまま、次の雷の音を待っている。手を差し伸ばして、張り付いたほつれ毛を頬から取り除く。ジュンの指の背で触れた頬は冷たい。今、手背を返して、ジュンはErikaの頬に掌を添え、温めることができる。今、両手で冷え切った両頬を包み込むこともできる。
 だから、あなたはどこから来たのか?あなたは誰か?尋ねることが今はできる。画家である私は、あなたを描かせていただけるなら、二部作にしたい。一部は広袖の小袿を着せて、平安時代の祭りの夜の神社の絵馬掛処の前景に着衣のまま立っていただく。Von Branchitsch夫人の気品と自信に溢れる美しいあなたを描く。ただこっちのドレスじゃない。私は日本の祭りの画家だから。一部は、裸婦として描かせていただきたい。日照り雨を浴びながら、奥秩父の赤平川に膝まで浸からせて、河原に居る私をじっと見返していただく。嵐の中から戻った今のままの無垢なあなたが、川辺の私の邪念を見通して、あなたのその独特な眼差しで、そう、あの阿修羅像の困惑したような、窘めるような、それでもすべてを許すような直視で見返していただきたい。
 Erikaはうつむいたまま微動だにしない。ジュンはそう思うことを言えたのか。何か呟いていたかもしれない。口が乾いていた。何も発語していなかったのかもしれない。話すためには、意図して頬筋を解して張り付いてしまった唇を剥がす動作が必要なはず。ジュンの両唇はいま閉じている。ジュンの両手は、ジュンのズボンのポケットにそれぞれ収まっている。
 明かりと共にゆらゆらと右往左往する床の二人の薄い影を目で追い、時々稲妻が突如浮き彫りにする二人の濃い影で、お互いの立ち位置が変わっていないことを神の明言であるかのようにジュンは確かめている。馬鹿なことはきっと口走ってはいまい。
「私一人では無理だった。すみませんでした。マダムと行ってしまうのかと思いました。助かりました、戻っていただいて。」
「結構、私、力持ちなんです。」
「のようですね。はっきりいって、びっくりするぐらい。」
「会津の女は強いですよ。」
「会津ご出身ですか。なるほど・・・。」
「なるほど、とは?」
「確か『ならぬものはならぬ』という・・・。」
「(間)そうです。」
 雷の間隔がわずかに広がって、雷鳴が夜空で二手に分かれて響いてくるようになった。一方はかなりな速度で館からどんどん離れてゆき、遠雷になってゆくさまが耳で追える。もう一方は館の近くの北の丘陵を越えたあたりにまだ滞留していた。滝のような雨はまだ途切れることなく、颶風に巻き上げられ、今は館の北側の窓という窓に叩きつけられている。
「ジュンさんはお着換えお持ちですか?このままでは風邪を引かれてしまいます。」
「昼間の作業着がわりのジーンスだけで、あれも汚れてるし、どうしようかな?Erikaさんこそ着替えあるんですか?」
「いえ、私も。あそこの暖炉に薪をくべて、乾かしましょう。皆さんもきっと帰ってきたら喜びますよ。」
「さっき上でお風呂をいただいたんですが、タオルがたくさん置いてあったので、何枚か持ってきましょう。」
「それは助かります。お願いします。」
 二階からジュンはタオルと浴室に掛かっていた男性用のタオル地のバスローブ二着を持って降りると、大食堂の中央の歴史と共に薄黄色に変色した大理石のアーチ枠が組み込まれているレンガ造りの幅2m、奥行1m、間口の高さも1m近くはある大きな暖炉に潜り込んでErikaが細い薪を井形に組み上げている最中だった。初めてとは思えない、まるで職人のような手さばきだった。中世にはこの暖炉が竈の代わりに調理に使われていたに違いない。
「これなら本当にサンタクロースが煙突から降りてこられますね。」
「そうですね。収穫祭が終わるとすぐにクリスマスです。StrasbourgやKaysersbergのクリスマス・マーケット、ご存知ですか?有名なんですよ?売り物のクリスマス・ツリーの飾り玉や金色のオーナメントや星形、ラッパの天使のフィギュアとか、とにかくたくさんの小物が石畳の道の上に吊るされていて、それを潜って歩くんです。気に入ったものを買ったり、グリューワインという温めた香料入りの甘いワインをみんなで飲み歩いて・・・。私が一番好きなヨーロッパ。」
「日本の酉の市みたいですよね。OttoのStrasbourgのホテルにそのマーケットの写真があちこちに掛かってました。パリのシャンゼリゼ―にも大きな市が立ってました。でも神社の大きな熊手、装飾熊手みたいなものがなかった。」
「降臨節のアドベント・リースがありますよ。四本の大きなキャンドルをはめ込んだ、もみの葉を編んで作った大きな輪のデコレーション。」
「毎週日曜日にローソクに火をつけるやつでしょ?知ってます。子供たちのため周りに香料入りのクッキーをお母さんが焼いてよく置いてあげてるやつ。」
「(笑う)そうです、そうです。」
「Erikaさん、お子さんは?」
 薪木を組む手が一瞬止まり、振り向きざまに見せていた笑顔が中途半端なままErikaの横顔に張り付いたままになった。間を置いて、Erikaがゆっくりと首を横に振った。
「ジュンさんは?」
「ぼうずが一人です。」
「奥様はフランス人?」
「まさか。Erikaさんじゃあるまいし。」
「ボクも奥さんも日本でお寂しいでしょうね、きっと。」
「さとしはせーせーしてますよ。口うるさい父親がいないから。」
「ジュンさんが?普通、口うるさいのは、お母さんの方の役目でしょ?」
 後ろ向きで薪の束を抱えながら、櫓を暖炉の中に潜り込んで組み上げているErikaが手を休める気配がないので、背後から肩に、持ってきた一方のバスローブを広げて掛ける。確かヨーロッパでは、真冬にレストランを出る時、男性が必ず女性にコートを掛けてやることが大切な紳士としての自然な礼儀、たしなみだと先生に教わったことを思い出した。
「あ、有難うございます。」
 Erikaはなるほどヨーロッパに長いことがわかる。日本でなら、ジュンとしてはかなり踏み込んだ愛情表現なのだが、Erikaには当たり前のこととして軽く去なされた。待てよ、俺はさっき妙なことを口走っていないよな。仮に俺の譫言が漏れたとして、音声にはなっていないだろうな。雷を無数に浴びて変になったのは俺の方かもしれない。

 バスローブを掛けた時、その軽い裾風に押されて今また香って来たErikaの仄かな香水のせいもあるに違いない。グリーンノートが甘さにかぶさるようなその香りをジュンはよく知っている。ジュンにとってそれは真冬が終わる季節に小鹿野の実家の庭で毎年嗅ぐ、房総のをくずれから持ち帰って植えた日本水仙の蘭麝(フレグランス)。ブラジルに明治初期移民した者のいる秩父地方には、イペーというブラジルのキバナノウゼンの木を植えている農家がある。その単純なレモンイエローに違和感を子供のころから覚えていたので、そのあからさまなイペーの黄色ではなく、その緑がかったカナリーイエローに魅せられて植えこんだものが、庭の一角に群生するようになってから知った花香だった。秋口のしかもフランスのアルザスの僻村の夜嵐の中で嗅ぎ取れるはずのない黄水仙の香。
 匂いは時空を越える。必ず、ヒトの記憶の襞に痕跡を残す。そして、後日、同じ匂いを知覚した途端、その記憶の襞が開き、その匂いのした場所と時間にヒトを連れ戻す力がある。その記憶が良いことでも、悪いことでも、思い出したいことでも、決して思い出したくないことでも、ヒトに取捨選択の余地を一切与えず、有無を言わさず、その場所、その時間に強引に連れ戻してしまう。
 ジュンは今、小鹿野の実家でアトリエにしている合掌造りに増改築した倉の土間から稲光に浮き上がる両神山を見上げていたほぼ四年前に着地している。乾いた畑が急激に雨に濡れて、独特な土の蒸した匂いを風が巻き上げてジュンを包み込む。その中のかすかな甘い香りをジュンは嗅ぎ取っている。
「ご自分で植えておいて、ご存知じゃないの?」
「え?」
「日本水仙の匂いよ、これが。」
「そうか・・・。いい匂いだね。」
「今頃?」
「俺は色が好きで貰って来たんでね。匂いはしてたのかなァ・・・。」
「をくずれでも十分してました。あなたは色には敏感なのに、お鼻はまったくだめなんですね?」
「仏壇の線香と蚊取り線香の違いは判る。」
「夜はもう色は見えないわ。」
「いや、あのカナリーイエローは今目をつぶっても俺には見える。あの色なんだ。祭りの夜の武甲の月は・・・。それに、パリの孤独な屋根裏部屋の明かりかな・・・。」
「私は目が見えなくなっても、この匂いがしたら黄水仙が見えるわ。」
「いい匂いだね、確かに。」
「香水の香料にもなるの。」
「香水?俺は苦手だなァ。」
「やっぱり。」
「パリにいたとき、とにかく臭いんだよ。むこうの女とすれ違うたび、すごい強烈なんだ、香水の匂いが・・・」
「へえ、そうですか。『すれ違った』だけで。」
「そうだよ。それに一度、ダンスホールに先生と行って、ダンスまがいをしたことがあるんだけど、もう着ていた服に付いた香水の匂いが洗っても取れなくて参った。」
「へえ、一度ですか、ダンス。」
「・・・」
「あなたのお鼻でもかげた?」
「・・・」
「随分増えたからやっとあなたにもわかるようになったのね、うちの少年団。」
「うちの少年団?」
「水仙って俯いて池に映る自分に見惚れている美少年のナルシスでしょ?」
「うん。むこうの神話ではね。」
「ちょっと増えすぎて美少年の乱れ咲きかしら。お母様が少年団はまあいいけど、池はもう埋めるって。」
「え⁈冗談じゃない。池と水仙は凹と凸なんだ。」
べんじょこおろぎ(カマドウマムシ)めめんたろう(ミミズ)バァ池で増えてかなーねェ、っておっしゃってます。」
 小さいさとしが起きて土間口に歩いて来る気配でジュンは抱いていた利恵の肩を離した。秩父弁をけなげに真似る利恵の目がまだ十分見える頃だった。今から思えば視覚が衰え始めていた利恵は嗅覚の比重を上げて感覚の天秤のバランスを均衡する準備を知らず知らずしていたのかもしれない。右目の視力が衰えていることをヒトはまず自覚しない。左目が自動的に右目を補完している。
 視覚障害者は、町を車の音やてんぷら屋から漏れてくるダクトの匂いを頼りに自分の位置情報を知覚して歩いている。左右の視力のことや、色と匂い、目と鼻の役割をことさらに取り上げることは、あの夜から始まったのかもしれない。それは妻利恵の不安から発せられたものだったのだろう。黄水仙の香りは、利恵がいたあの夜から、利恵がいなくなってからも、ほぼ毎年、ジュンに冬の終わりを利恵が伝えてくれる蘭麝となっていた。悲嘆にくれているジュンを気にして母親が池を埋めるついでに一面の黄水仙も掘り返してしまって、その年で利恵と眺めた群生は一度枯れた。しかし、今、また蘇生してアトリエの前庭の一郭に黄水仙が生え始めている。その香りをジュンが嗅ぎ違えることはない。
「家内は他界しました。」
 Erikaは何も言わず、薪皮にマッチで点火して組み上がった薪にその火種をかざしている。暖炉の通気口をレバーを引いて開くと、一気に風が吹きあがってきて、その火種がかき消されてしまう。マッチを何度も擦っている。マッチを擦る音と雷鳴と、時折暖炉に吹き込んでくる通気のぼあぼあとした変動音の不規則な連環の中にジュンとErikaは埋没している。
「ジュンさん。お疲れでしょう?」
「ぜんぜん。何か?」
「Ottoが持ってきた新聞を持ってきていただけますかとさっきお願いしたのですが?」
「え?。」
「お返事いただいてから、雷を十回数えてました、私。」
「そうでしたか・・・。」
 ジュンの記事が載っている紙面だけ丁寧に抜き出して背後の床に置き、Erikaはそれ以外のページを一枚づつ筒状に丸めてひねり、その端にマッチで火をつけ、組み上げた薪の井形の中に上から落とし込んでから、薪皮をその上に重ねていった。火が移り、ようやく薪の焦げる匂いがして、覗き込んでいるErika の顔が火照りを受け始める。暖炉の前が明るくなり、薪のはじける音と通気口に吹き込んでくる風の音とが重なり、そのたびごとに暖炉の薪の井形が纏う焔の勢いが増してゆく。Erika が暖炉から半身を起こして、そのまま正面の床にぺたんと座り込む。しばらく焔を見遣りながら、内側の濡れたワンピースに暖が当たるようにバスローブを両肩の端にずらして広げ、胸元や脇腹のあたりで肌に張り付いたニットの布地を指で摘まんで浮かせている。指を離すたび軽くピシッと音がして、水気が跳ねる。見かねてジュンがタオルを渡す。声なくErika はこくりと子供のように頷いてタオルを受け取り、床に座ったまま、ジュンの新聞記事を引き寄せて改めて読んでいる。
「JunじゃなくてJuin?」
「ですよね?スペルが、違っている。構いませんが。」
「これじゃ『6月』さんですね?」
「かえっていいかも、と。」
「『6月』で?」
「ええ。こっちで絵を描くことがあったら、Juinって雅号にしようかな。」
 小鹿野のアトリエに小さな囲炉裏が一基ある。名主だった向かいの実家の母家の土間脇にあった火焚きを解体してジュンが持ち込んだ。冬場は鉤棒の先に南部の鉄瓶を掛けて湯を沸かしている。もう暖をとる必要のない時でも、気が向くと、利恵が薪で火を起こし、炭に火が移ると三徳を置いて、アルマイトの大鍋でシチューを作ってくれた。嬶座に座って、膝に寝ている小さいさとしの頭をのせたまま、すす竹の板ベラで鍋が焦げつかないように具材を回し返していた。その様子を客座からジュンは見守りながら、鉄瓶の湯を石鹸水に少し注いで先生に貰った大切なRaphaelのコリンスキー毛の10号絵筆を白磁のボウル皿の中で洗っている。時折、薪が軽くはじけて鳴る。その音以外、必要のない、充足した沈黙。当たり前のようにあったジュンの()()
 利恵は三年前の6月の夏越の祓の晩、長瀞の宝登山神社で茅の輪潜りのつもりで二の鳥居をくぐって、さとしに遺伝しないように人形に「ミトコンドリア」とあ書いて焼いてもらうと言って出てから帰らぬ人となった。利恵は深い青のヒメアジサイを何より気に入っていて、確かあの晩、炉端の後ろに庭から手毬咲きになっていた大ぶりな二輪と小ぶりな一輪を切り花して花瓶代わりの甕に差してあった。失明は時間の問題で、レーベル病は母親から子に遺伝する母系遺伝性のあることを酷く気に病んでいた。眠っているさとしのおでこをさすりながら、利恵は必ずさとしの閉じている両目に口づけをしていた。孤発例の多いことをかかりつけの長瀞の倉木医院の若先生がいくら後付けで注釈してくれても、全く慰めにはならず、利恵の日常に笑顔がようやくうっすらとでも戻るのは通院してから数日してからだった。その繰り返しが続いていた。
 石畳を踏み外したように見えたと目撃者たちが口をそろえて証言してくれたが、彼らも警察も、利恵の抱えた苦悩を知る由はない。知る必要もない。深い青色のヒメアジサイ三輪は、利恵の不文の遺言だったのかもしれない。人形に「ミトコンドリア」と書いて壊れた遺伝子を焼き、その遺伝子を持つ自分も絶つ。その代わり、さとしの目を救ってください。人の心の結論は第三者の理性にはありえない短絡的な理不尽に見えるが、当事者にとっては、数多い絶縁抵抗を経た末、溜まりたまった電流が最後の絶縁体を突き破って流出した結果で、そこに是非はない。
 利恵の水死体はすぐに発見されたことで、奇麗なままだった。囲炉裏脇でジュンが体温で温めれば生き返るような。さとしを母家に預けて、ジュンは利恵の遺体をずっと抱き締め続けた。どうした。寒いか。ほら。どうだ。あったかいか。ばかなやつだ。痛かったろう?ほら。もどってこいよ。何してんだ。ジュンは泣き続けた。震え、喚きあげ、ジュン自身の身を顔を掻きむしり、床を蹴り、顎を殴り、また唸るように息をかみ殺して、利恵の遺体を抱き起した。利恵の手にヒメアジサイ一輪を持たせた。どうした。ほら。しっかり握れよ。いいか、俺は、お前がめくらになっても、さとしがめくらになっても、まったく構わないんだ。俺が面倒をみるんだ。それが、いいんだ。おまえがいいんだ。お前たちが大好きなんだ。いなくなったら、おれに居場所がなくなっちゃうんだよ。是非もない利恵の死を、耐えがたく、その晩から、ジュン一人だけの夜伽は確か三日三晩続いた。6月末日だった。ジュンの本当の居場所は、ずっとそのままそこで止まっている。
「絵にJuinってサインなさるんですか?」
「そうしようかな。Juin一文字。」
「それだと製作年月日と間違われませんか?」
「なるほど。」
「全作品が6月の作品だって思われちゃいます。」
「まあ、普通、日付はキャンパスの裏に書き込みます。」
「そうなんですね。だったら、誤解されないですね。」
「Juinは絵の中に。画家の手形代わりですから。」
「六月様が描いたぞって感じですか?」
「それがいいです。そうします。余計に目立つように。」
「色は何色になさるんですか?」
「青ですね。紺青色じゃなくて、ちょっと紫がかった青藍色。少し物悲しい青。そうします。」
 雨脚がまた急に激しくなり、降り荒ぶ沛雨に取り囲まれ、館全体が滝壺と化してくる。雷鳴の咆哮も急接近してきた。今度は南側の窓がダウンバーストの突風を受けてがたがた激しい音を立て始めるとその直後、頭上でバチッと炸裂音がして、館の一階の電気が落ちた。暗闇の暖炉の焔火の照り返しの中で二人は目を見張る。積乱雲の中に館ごと突如呑み込まれたような命の危険を察知する。頬の産毛や腕の毛穴が総毛立ち、館内の空気全体が電気を帯びているのがわかる。ジュンは腕をまくって皮膚を嗅いでみる。送電塔の鉄塔の真下で知覚したことがある臭い。磁場の臭いか、電気に臭いがあるのか。本能的に「やばい」と感じた瞬間、バキバキッと轟音がして、ドンドーンと二回、地響きとともに至近の二か所に雷が落ちた。中庭が明るくなった。
 茫然とジュンとErikaは床にへたり込んだまま、中庭に面した明るくなった方の窓の並列を見上げている。滝の雨の向こうで、空の一郭が赤々としている。焔の筋が立っている。ポプラの巨木が燃えていた。低いところからさらに大きな火炎と白煙が同時に立ち上ってきている。Schindelというドイツトウヒの板を組み合わせた杮葺きの井戸の屋根が風に煽られ炎上している。水しぶきが巻き上がると中庭から一瞬白く濃い煙が沸き上がり、それを突風がすぐに巻き去ってゆく。暗闇を火炎と稲光の電閃が照らして、風雨が渦巻く様子を二人はなすすべもなく口を緘して目で窓ごとに追っている。奥の窓の外を稲光が走り、手前の窓の中で、井戸の屋根のSchindelの杮板数枚が燃えながら光虫のように風に飛んで行く。村で一番高所にある北の斜面のKaysersbergの古城の丘の上の方に閃光が横殴りに何本も空を過ぎってゆく。間髪を入れず、雷が轟く。設置されている避雷針で天地の狂気をどの程度受け止められるのだろうか。高木の無い開墾された葡萄の畝の斜面を稲妻が這うこともあるのか。皆は畝間に平伏して風雨に耐えているのだろうか。丘のどこからかポプラの炎上を見ているにちがいない。
「私、雷の、ああいう音は苦手で・・・。」
 ジュンは中腰のままErikaの左腕を横から抱えるようにしていた。館に落雷があった時、Erikaの身を守る態勢を咄嗟に自然に取っていた。止もうとしない光芒一閃の繰り返しの中で、固唾を呑み込みながら自然の脅威が去るのを待つしかない。何かあれば、せめてErikaを守るまでのこと。ジュンのいざという時の態勢をErikaも解こうとせず、燃え裂けて倒れてゆくポプラの大木を見やっている。あたかも時空を越えて太古の巨人の焚刑を黙視するように。幹の上半分が中庭に焼け落ちた音がしたとき、Erikaはジュンの肩に右手を伸ばし、腰を下ろすように促した。不思議とこの状況下、必死に息を殺しているのはジュンの方で、Erikaの息吹にはまったく乱れが感じられない。ただErikaの手も腕も肩も氷のように冷えていた。
「寒かったんですね・・・。」
 小さく頷くErikaにジュンは自分のバスローブを脱いで重ね掛けして、暖炉にもっと寄るように背を押しながら、後背から抱きしめ、肩越しに腕を伸ばしてErikaの冷たい両掌を握る。冷え切った項にジュンの頬を押し付ける。黄水仙の微香がする。
「少しはあったかいですか?」
Erikaがまた小さく頷く。
「私の手をしっかり握ってみてください。ほら。」
冷え切ったErikaの指先をジュンは両掌で堅く包み込む。

 その夜、館には誰も戻らなかった。