エンドレス・エンド(未完・新作)

エンドレスエンド 第一話

 これ以上悪事を働くわけにはいかない。俺がよかれ、成功すると確信して行うことはことごとく失敗してきた。なにをしてもあと一歩までというところまで行ったとしても最後には失敗に終わり、その結果、自分と自分に好意を持つ他人を不幸にしてきた。無能であること、運がないことに気づくのに実に65年間を費やした。もう少し早く気づいていれば、傷つける人も、無くす金も少なくて済んだはずだ。
 あきらめないのが成功の秘訣だと偉そうなことを成功した人間が口にする。それは大きな間違いだ。それは0.03%の成功者、能力と運に恵まれて生まれた人間に当てはまるのであって、あとの99.97%の凡人たちには縁のないこと。諦められないから傷を広げ、とうとうどうにもならないところまで落ちてしまう。そのどん底に今65年かかって俺はいる。
 俺の中にいつの間にか「あいつ」も住み着いてしまった。あいつ。「悪魔」。いつも横にいて、俺の邪魔をする。箸を握ろうとすれば箸を落とし、腰を下ろそうとすると回転いすを片足で蹴り上げてしりもちをつかせる。何をしてもダメな俺を常に俺に気が付かせようとする。そして手をたたいて俺の不幸を喜ぶ。

「もう出てゆけよ!」
「やだね。」
「もう十分楽しんだろうが!」
「なんのなんの。まだまだ。」
「お前の不幸が俺の栄養。お前の涙と歯ぎしりが俺の餌。」
「俺から取るものなんかもう何もない。」
「まだまだ」
「死んだらいいのか?」
「お前は死ねないさ。そんな度胸はないね。」
「死んでもいい人間だ。」
「殺さないのさ。殺しちまったら、俺の毎日の餌がなくなる。オマンマがなくなっちまう。そんなバカはしねェ。」
「死んだらどうする?」
「お前は人間だ。生まれ時から死をプログラムされてる。どうせ死ぬさ、慌てなくていい。」
「そうやって引き延ばすんだろう。」
「そりゃそうさ。もっともっと苦しんで呻いて、俺の餌を量産して貰わなくっちゃ。泣いた涙が足りないぜ。今日は塩加減が足りねェ。」
「だから俺が死んだらどうする?答えろよ。お前はどうなるんだ?」
「お前はまだ死なない。また死ねずに済むお前なりの次の希望ってやつを探してやるさ。死ぬときの痛さを知らねえからそういう風に簡単に死にたいだのって口角に死を飛ばすのさ。ばーか。痛いよーーー?苦しいよーーー?」
「もう希望なんて尽き果てたさ。」
「そいつは、どうかな?」

こうして引き延ばされて65年間、奴に餌を与え、俺の中の奴が俺の身体の中で膨れ上がってとうとうはみ出すようになって来た。もう時々、ひょんなことから奴がはみ出て、偶然目の前にいる他人に俺の言葉でない言葉で悪態や不平不満を吐き出して、嫌われる。職を失う。俺が律せないのではない。奴がはみ出てものを言うのだ。
 奴が完全に俺の嵩を凌駕して食み出たとき、俺は肉体を食い潰されて骨になるのだろうか。いや、奴は肉体を食わない。奴の餌は俺の脳の負の排泄物。俺の脳がやっとのことで心機一転、生産した夢、希望の血脈流に力が足りなかったのか、単に能力がなかったのか、いや、生まれつき運から見放されているのか、やはり失敗に終わった頃合いを見計らって、奴は、「ほーれまたダメだったろう」と一段とこけた頬の貧相な俺の顔をして俺を見つめ、俺に絶望をなすりつける。俺は奴の顔や頭を殴る。お前が俺に居るから失敗したのだ。結果的に俺は俺の頬をはたき、頭を殴り続ける。お前が悪い。お前が不幸の元凶であって、お前の棲みついていない頃の俺だったら、こんな失敗はないはず。そもそも俺はこんな顔じゃなかった。自虐を極め、歯茎に走る血の味に吐き気を感じながら、鏡に映る腫れ上がった自分の顔を、いや、奴の顔を薄ら笑いながら見つめ、地団駄を踏む力もなくなり、先祖の槍に手をかけたその時、必ずまた奴の常套句が聞こえてくる。

「痛いよーーー?苦しいよーーー?それにその槍、研がなきゃ、錆びとるよ?なんのこれしき。これで終われるお前じゃない。そう自分でも本当のところは思うだろ?」
 
 俺を生かすことで奴も俺の中に居れるわけだ。俺が死ねないのと同じように、奴は俺を実は無にはできない。食いっぱぐれるからだ。頭のいいウイルスと同じだ。この奴との茶番劇を繰り返して結局俺は何のためであるかわからぬが生きている。ある意味、奴のために生きているようなものだ。それを耐えてゆくか、今、奴を殺すか。だが、どうするかだ。
 そういえば。「ぴゅるぴゅる、べろん!」と奴が俺から抜け出す時がある。すると何か心がすっかり軽くなり、頭が巡り、新しい未来が見えてきて、沸々と胸が高鳴る、やれる、と自問に回答を出した瞬間に、奴の最後の尾っぽの部分だろうか、俺から「べろん!」とはじき出されて、俺は別人のように身軽になる。どこに奴が消えたのかはわからないが、奴の声も気配も息吹もしばらく完全に消失する。俺が俺を意識していた奴のいる脳が解放され、俺が意識していなかった無意識の脳の大半の領域で利己的遺伝子が絡み合い、結び付いてゆくのが判る。思い付きや気付きが走馬灯のように脳を駆け巡り、新しい俺の可能性が躍動して、俺自身が知らなかった別の俺のイメージが胸の辺りに投影されて、これから新たに着手すべきことが次々とどこからか指令が飛んでくる。何か体中に俺を「活かす」ための魔法のDNAが光りながら張り巡らされてゆくのがわかる。そういう時は、奴がどこに失せたのかなどもはや気にする必要などないが、いつだったか、妙なことを去り際に奴がつぶやいていたことがある。

「どーもこのところ餌が足りねェ。餓死しそうだ。ちょっとしばらく空(す)いている樹でも探してくっか・・・」
「き?」
「樹だよ、寺や神社の杜の樹のことさ。」
「樹にものりうつれるのか?」
「そうさ。」
「へェー。樹にお前の餌なんかないだろう?」
「なんのなんの。」
「樹が泣いたり嘆いたりするのか?」
「樹に泣いたり嘆いたりする奴らがあとをたたないのさ。」
「?」
「俺の居る樹に触れてなにやらブツブツ言って餌を置いて行く」
「お前まさか御神木に乗り移る?」
「お前らの神様だか何だか知ったこっちゃねェ。あーしてくれ、こーしてくれって、結構なこったが、聞いてんのは俺様だけどね。」
「聞いてるのがお前だったら、意味ないじゃないか・・・ひどい話だ。」
「そんなこたァない。俺が餌にありつける。樹の連中はな、お前ら人間よりずっと昔に海から川を伝って陸(おか)にあがって全ての時代を生き抜いて来た。年輪の中に餌を閉じ込めちまう前に、頂くってわけさ。俺がお前ら人間のちっぽけな恨みつらみを食ってやるから、連中は青々と伸びて行けるってわけさ。たまに行ってやらねェと、立ち枯れちまう。」

 この数年、奴のおかげで俺の毎日は起伏のない平坦な時間の凪になってしまっている。何かやっても結局失敗に終わる。だったら何もせず、雇い主が阿呆でも知ったことはない、雇い主の雇われの上席の阿呆に言われた通りの作業を間違っても雇い主の目に留まるような素晴らしい仕事などではない、決められたクリシェーの歯車となって一分の狂いもなく、前任者のやっていた通り、David Rolfe Graeberの言うまさにブルシット・ジョップを、昨日と全く同じように、今日も、そして明日も淡々とこなし、最低賃金以上のものは求めず生きている俺の毎日の中で、俺が地団駄踏んで悔し涙を流すことなどないわけで、奴は食料に困っているのだろう。
 「べろんっ!」の後、俺はこれで奴から未来永劫解き放たれた、これで俺の人生はまた開ける、と何度ほっとしたことだろう。着手した仕事が何か嘘のように思い通りに進み、その俺の新しい息吹、俺の心機一転の新鮮なエネルギー、目標という清々しい行き先が明々と見えている生き生きとした活気を人が全く煙たがらなくなる。人々が寄ってくる。女も寄ってくる。俺を肯定する。ところが、人生捨てたものではないじゃないか、奴のことなどすっかり忘れて俺がやっと目標にたどり着けそうな、あと一歩、二歩というところで、だがやはり奴は必ずまた思い出したように戻ってくる。
 例えば。ようやく口説き落とせて、ホテルの一室でネクタイを外してバスルームに行き、ジャクジーのスイッチを入れたとたんに東日本大地震の大揺れが来て、社長令嬢が逃げ出してしまった昼下がりとか、売り建てた起死回生の日経225、含み益2億円強!だったのが、翌日から相場はなぜか暴騰し続け、嘘、そんなはずはない、今の日本に、これからの日本にそんな力は絶対ない、と思って追証を続けて、とうとう清算日にゼロに帰し、元手もすべてなくした時とか、もっと前なら、少年少女合唱団入団テストに合格後のテレビ出演の初回練習のとき、誰よりも声を一層張り上げてみたら、「ここは合唱団だからね?」と言われて外されたときとか。俺の右目に妙に大きな飛蚊がよぎり、俺の視界にいつかアメリカのUFOマニアのYoutubeで視たひょろ長い宇宙人の影がヒコヒコ左右に踊るように現れ、左耳に突然途切れのないキーンという金属音の耳鳴りがし始める。奴だ。奴が戻ってきたという挨拶だ。耳鳴りがいずれ奴の聞きなれた声に変換する。

「へっへ。お待たせ。(卑屈な不気味な含み笑い)」

  65年間、俺はこの再会を繰り返してきたわけだ。

「だいたい、お前ら人間で諦められる奴はまずいないねェ・・・」
「ここにいるだろ!」

 奴がケタケタ笑う。奴の笑い声は威嚇してくる一昔前の夏の新宿のチンピラ祭り衆の乾いた安下駄の音に似ている。癇に障る。察したかのように奴は急に印半纏をまとってくるりと周って、手に持った烏賊の串焼きの先で、俺の鼻先をつつこうとする。
 
「なんだよ!」
「だからさア、例えばだ、昨日お前がええかっこして、交差点で助け起こした杖の婆さんのこと思い出してみなよ。」
「ええかっこしたわけじゃない。」
「まアいいさ。臭かったろ?もう小便も垂れ流し状態で、得も言われぬ悪臭!お前、次の辻でさっそくアルコールスプレーを手や顔に吹きかけてたろ?コロナかもしれないってな?」
「・・・・。」
「コロナに集りたくないんだろ?苦しいのも嫌だし、万が一、集って死ぬ気も毛頭ないんじゃねェ?」「別に、不潔なのが嫌だっただけだ・・・。」
「(またケタケタと笑う)お前はなーんもあきらめてない。ついでに、あの婆さんも、なーんもあきらめてない。お前ら人間はまず諦められない。」
「だいたい、あの婆さんのこと知りもしないだろ。」
「なめてもらっても困るね。あの婆さんには同僚の『タマケシ』が住み込んでいてな、昨日も嘆いてたんだよ、しぶといってさ!』
「タマケシ?」
「そう、魂消し。魂のタマを消す」
「殺さないんじゃなかったのかよ?」
「どの個体だってどうせ死ぬってプログラムされている。だから俺らが殺す必要なんかない。ただお前ら人間の場合、その時が来たらタマケシの奴が入り込む。お前にも。その時、おれは追い出されるがね。お前ら日本人の場合200兆の細胞がおおかた火葬場に送られて格納された細胞情報が火あぶりになる前にな。やっこさんは、俺を追い出してからお前ら人間の意識の中だけに寄生しちまった魂を、あの婆さんの魂を食うのさ!」
「魂を食う?」
「タマケシ様がいなかったら、この世の中、食われない魂がそこら中にフヨフヨして、お前らは卒倒するだろうね。化け物だらけ。お前ら人間が諦めないのはどうやらその魂のせい。魂がある限り、もう個体があの婆さんのようにぼろぼろでも、歩けなくても、耳が聞こえなくても、膀胱がユルユルでもだ。死なない。」
「要するにそのタマケシがひとの命を腑抜けにしてるわけか・・・。」
「命の浄化さ。全部一度平準化しとかなきゃいかんのさ。命なんて倍々ゲームでこの地球上に無限増殖してそこら中に転がってるがね、悩みもしないですぐに死んじまう命の食いっぱぐれみたいな連中が氾濫しちまった。うじゃうじゃ、もろもろ小さな個体の中で分裂して溢れかえってうねっている細胞連中には俺は関心はねェのさ。早晩分裂の限界点に達しちまうさ。それで終わり。何も考えず、産卵して、次の世代に餌の食い方とガキの作り方の情報だけ渡して、はい、さようならってな。それよりもな、やっぱり、死にたくないと、もがき苦しむ、最期まで諦めないおいしい餌を俺たちに提供してくれる三ツ星は人間の命さ。ところがその人間の命の突然変異でな、タマシイってモンは。あまり増えてもらっても困る。でタマケシ様が喰ってるって寸法さ。もっともタマケシ様の数が足りねェ。」
「増えたら困る?魂が?人の数だけ魂はあるだろう?」

  奴は手のつけられないバカを見る目で俺を見、イカの串を俺に投げ付けて背を向けて消えようとする。振り向きざまに見せた顔は、いつもの頬のこけた俺の顔から俺の親父の若い頃の顔になっている。奴は俺が親父を心から憎んでいることを知っている。

「まァ、いずれまたな。」

 奴はそう言って忽然と消えた。おそらく俺の中に潜った。俺は現実に放り出され、現実に取り込まれる。第20回新宿エイサーまつりを知らせるポスターの前に俺は佇立している。太鼓をぴちぴちの腿に載せバチを振る念仏踊りの女祭り衆の写真を見つめている。