総支配人の北畠が俺の履歴書を目でなぞっている。もう3周したに違いない。こちらを時折チラ瞥する。卓上のミニ扇風機がそっぽを向いて首を振っている。壁際の半分ほど水が溜まった除湿器が一度ぼこぼこっと音を立てる。
「ガタイもいいし、お若く見えますけど・・・。」
「いえいえ、脱げば年齢相応になってきました。」
「ドイツやスペインの団体が来るのは再来週なんですよ・・・。ま、それまではサブでフロントに研修もかねて入っていただいてもいいわけですが・・・。」
「はい。よろしくお願いします。」
「ドイツ語と英語が?」
「はい。それなりには・・・。」
「スイスで四つ星の支配人をされていた?」
「はい。」
「何年ほどですか?」
「15年ほどです。ホテルが廃業になりました。」
「コロナで?」
「はい。」
「で、日本に戻られた?」
「そうです。」
「あの、特技『体幹・ロンダート・バク転・バク宙』ってありますけど、本当ですか?今でも?その、お年で?」
「あれ、そんなこと書いてあります?」
「ありますが?」
依紗がネットで応募した際、勝手に書き込んだに違いない。若いままの「そっちの俺」ならまだしも、今の俺にはバク転はともかく、バク宙は無理かもしれない。が、むしゃくしゃすると代々木公園に走って行って、時々側転や後前方ブリッジをしてみせて憂さを晴らすことがある。なぜできるのか知らないが、できる。こっちの65歳の俺にも。子供が注目して少しづつ集まってくる。その瞬間は依紗の顔が「得意気」になる。嬉しくなって、有頂天に続けていたら一度腰を思いっきり痛めたことがあるので、最近は子供が寄って来始める気配があると制止するようになった。
「それぐらいにしときなさいよ!もう年を考えて!」
特技には偶然気が付いた。依紗と知り合ったころ、ある晩、片足立ちで軽々と靴下を脱ぎ、胡坐をかいたまま立ち上がれる俺を見て、依紗が驚嘆した。
「え?お前できないの?」
「できないわよ、ホラ・・・」
「それ、変じゃない?」
「変じゃない。変なのはそっち。体操でもやっていたの?」
「わからない。覚えてないんだ・・・。」
「だから、それも、やっぱ変!」
北畠が怪訝そうな顔をしている。ここで不採用になったら困る。
「あまりフロント業務には関係ないと思いますが・・・。書いてあることは事実です。」
仕方がないので北畠と対座している木椅子の肘に両掌を乗せてそのまま両膝を持ち上げそのままゆっくりと、結構腕が震えたが、両足を前の宙に伸ばしてみせた。長くは体勢は保てなかったが、北畠は「おおっ!」と驚いて見せた。
「凄いですね!お見事です。昔、体操の選手だったんですか?」
「いえ、そういうわけではありません。なぜか、できるんです。」
「へェ、そういう方もいらっしゃるんですね!」
北畠はまた履歴書に目を移している。言いにくそうに切り出す。
「今、この辺でというか、このホテルの従業員の間で季節外れのインフルがものすごく流行っていまして・・・。今回のフロントの急募もそうなんですが、実はこの数日、着ぐるみスタッフや東京のエージェントのスーツアクターたちが倒れはじめてまして・・・。」
「マスク着用ですか?問題ありません。それに、私はコロナにも罹りませんでしたし、子供のころ弱くていつも流感にかかって学校を休んでいたらしく、おかげでほとんどのインフル・ウイルスの免疫ができているみたいなんですよ。ご心配に及びません。気を付けて手消毒すれば大丈夫ですよ。」
なぜか北畠がとにかくもじもじしている。いや、もじもじを俺に見せつけている。自分がもじもじしていることを察知してくれよ、という意図が垣間見えるシグナル。
「他に何か留意する点があればご教唆いただければ・・・。」
「岡田さん、忍者役とかキャラの着ぐるみをお願いできませんかね・・・?」
「えっ⁈忍者?キャラ?」
「ご経歴からしてもフロント業務はお手の物ではないかと。再来週からはもちろん海外からの招へい客の対応をお願いしますが、それまで、欠員のあるキャラクター課の方に配属させていただけないかお願いしたいのですが・・・。」
「・・・・。」
「特別手当を支給します。当然のことです。ジャパン・アクション・ギルドというスーツアクター専用の労災保険にもホテル側負担で加入していただいて、万が一のお怪我にも対応させていただきます。」
「あの、スタントマンですか?」
「いえ、そんな演出は一切ないですからご安心ください。子供たち向けの安全なアトラクションですから。忍者役で転ぶような万が一に備えているだけです。スタントマンは保険に入れないので、東京のスーツアクターのエージェントからの紹介でホテルとしてギルドに加入しているだけです。事故は今までには一例もありません。」
「・・・・。」
「困ってるんです、ほんとのところ。二週間もすれば、キャラクター課も落ち着くと思います。それまでの臨時ということで・・・お願いしますよ・・・?」
「(頷く)まあ、仕方ないですね。簡単な役でなら、お受けします。」
「ありがとうございます!恩にきます!」
深々と支配人デスクに頭を押し付けたあと、北畠は何かを思い出したように「あっ、そういえば・・・」と俺を再度まじまじと見返している。
「ところでですが。」
「はい?」
「馬には乗れますか?」
間髪を入れず応答しておく。
「乗れません!」
到着翌日に一度だけ限られた人数でリハーサルがあり、俺は忍者でなく、「たびなぜ君」という顔面中央にクエスチョンマークを鼻替わりにつけたマスコットキャラの着ぐるみを担当することになった。子供とじゃんけんをして負けたらその子の旅でのなぜ?に答えるキャラで、回答は当日アシスタントの女子がマイクで答える。だからセリフもなく、アシスタントの回答に合わせて身振り・手振りをするだけで済む。ただ、ジャンプ力があるという設定なので、子供がじゃんけんで勝っても負けても重い着ぐるみを被ったまま高く跳躍しなければならない。口の裏側に目があるだけで、視界は正面だけで視角はゼロ。何度も転んで、何度もアシスタントの助けを借りて再起。みじめなものだったが、子供たちが転ぶたびに爆笑して喜ぶ。その日の演目で一番受けた、と言っても過言ではなかった。
「おんせんは、だれがわかしているのですか?」
「たびなぜ君、わかるかなーーー?」
(はい。ボクです!)と手を挙げる。バックヤードにあったバーベキュー用の薪束をステージに持って行き、団扇で煽ぐそぶりをしてみる。
(火がつかない!)かがみこんで、大きな口の口角に両掌を添えて、フーフーの動作。
(かがみすぎて、低く太丸のクッションの腰が床につっかえて仰向けに転がる。
子供たちの爆笑。
「たびなぜ君、嘘はだめだよーーー。君が沸かしてるんじゃないよね?」
(床に座って、頭を掻く。激しく平身低頭ポジで謝る。頭が床にあたってぼわーんと跳ね、全身横倒れする)
子供たちの爆笑。
ぬいぐるみの中で本人は冷や汗と吐息にまみれてグショグショ、脇も内股もじゅるにゅるの状態で必死だったが、人前に立つことに全く抵抗がない自分に気づいて実は俺は俺に驚いていた。素人なりに数をこなして場慣れしているアシスタントのアドリブが事前に速攻で読める。子供たちの笑いたいという期待の空気が会場場内いっぱいに風船のように膨らんでいる。その風船をぎりぎりまで膨張させてから痛いところで突く。案の定、風船が割れて、爆風のように笑声が沸き上がる快感。素顔・実像の露出がなく、決められた台詞・筋書きもない配役だからだろう。だが、今日アシスタントに登壇した市役所の若い女性学芸員がたまに気の利かない、気の入らない突っ込みや説明をすると、何度もたびなぜ君の巨大なヘッドを持ち上げて投げ捨て、顔出ししてしらけかけた場を盛り上げたくなったぐらいで、まるで俺の中のそっちの俺が奴にそそのかされて生き生きとしているようだ。こっちの俺には、ない要素。俺が知る限りは。だが、奴はいないはず。幸い奴の気配はまったくないままだ。それに奴の負の波長ではない。シンパシーのプラスの波長。きっと舞台役者や映画俳優が役に乗り移って発する「なりきり」の熱くぶれない波長が全身にみなぎるようなのだ。「そうじゃない、こうだろう?」と時々アシスタントを引っ張っている俺がいる。動きにくい着ぐるみのまま、その短く太い手足を巧く使えば、かえって滑稽や道化を演じられる。子供に見えている、見たがっているたびなぜ君の姿が俺によく見えるのだ。つまらない解説を動作一つで揶揄したり、無視したり、聞きなさいと子供にさとしてみたり。
「4百万年前の地球の地下水のお話はもうつまんないかなーーー?」
(俺は空の右左を見上げながら大きくあくびの振りをする)
「つまんなーーい!」
「じゃあ、次の質問いこーか⁈」
(俺は大きくうなずく)
「いこー!!」
「それじゃ、質問のある子、手を挙げてくださーい!」
(アシスタントが指した男の子に近づく。手を取って壇上に連れ出す。)
「はーい、たびなぜ君とじゃんけんポン・・・!」
ショーの後、花火の上がる夜の部の打ち合わせをしているとき、アシスタント嬢が俺にどこの事務所に所属しているのかと尋ねてきた。
「あのう・・・。ものすごく助かりました。ありがとうございました。」
「所属事務所っておっしゃいましたか?とんでもですよ。あの、私はホテルのフロントのコンシェルジュに応募してきただけで・・・その、欠員があるのでしばらくこちらをお手伝いしろと言われて・・・。」
「えェー?フロントスタッフさん?びっくり。岡田さん、てっきりプロの方だと思いました。さすが東京のシニアのプロの方はすごいなって。ディズニーのミッキーとやってるみたいって、思いました。」
「あんな感じでよかったですか?」
「もちろんです!夜もお願いします!すごく心強いです!」
夜の部では照明を浴びる側からは観客がまるで見えない。目の前に立つアシスタントとステージに呼ばれた子供の向こう側の客席はぼんやりとした時折ざわめく暗闇で勝手は明らかに違った。しかも半分以上の観客が大人に入れ替わり、つまり半分以上の笑いはパパ・ママがわが子の反応を観てからの「そう?面白い?おもしろいね!」というワンテンポ遅れた反応の追従笑いで、風船と風船を膨らませる鞴(ふいご)に二分された観客を前にアシスタントの彼女は子供向けと大人向けのスピーチのどこに線引きをしたらいいか戸惑っていた。困るじゃないか。そんなんじゃ、リアクションできんぞ?棒立ちのまんまでいるわけいかんしね・・・。幸い花火が上がり始め、笛音が混ざり合って夜空に抜け、親玉が破裂して開発音が籐や橙、白火やレモンイエローの光の大輪の直後に響くたびに俺はできる限り高く跳ね回ってみた。失敗しても構わないと思いながら、たびなぜ君の巨大なヘッドの脳天を軸に側転をしたあとアシスタント嬢の頭を「いい子、いい子・・・。」と撫ぜてから手を取って、込み入った信長や明智光秀の歴史解説はそこらへんで止めにして、まずは一緒にステージの後方の上空に打ち上がる花火を見上げるように促してみせたら、大人の観客たちの拍手と注目をダイレクトにやっと引き寄せることができた。琵琶湖畔の夜空にさみだれる花火は押し寄せて返る海の波濤のように観客の気配を呑み込み、掻き消していった。アシスタントの左手を持って観客に背を二人で向けて花火の乱打を見上げている。そのステージのアシスタント嬢と仲良く手をつないでいるたびなぜ君の後ろ姿のシルエットの裏には観客には見て取れない実情があった。俺の肩や腕が破裂音の度にピクリ、ビクリっと反応する。腕の先で指が震え始めている。実は花火の閃光も音も俺は苦手。嫌いという次元を超えて恐怖を感じてしまう。アシスタントの彼女がたびなぜ君の太い指越しに俺の掌をぎゅっと握り返してきた。俺が怯えているのを彼女は察知したようだった。
俺はふと4歳ぐらいの時の入園式の事を思い出す。おしっこを我慢しきれず、席に座ったまま漏らしてしまった時の事。壇上では誰かがマイクで話していて、同伴の母はうしろの方。救いはなかった。右に座っていた女の子が足元に流出してくる液体に気づいてしまった。大騒ぎになるだろう。ところが女の子は何も言わず皆に配られていた紙袋を俺の側の床に置いて、「水溜まり」を見えないように隠してくれた。そして
「だいじょうぶ。ナイショ。」
と俺の手の甲に掌を乗せて、耳元に囁いた。式が終わると全員で折り畳み椅子を脇にかたすように園長先生が言った時、俺は顔から火が出た。やばい、ばれる。椅子がなくなり、皆の紙袋も持ち去られ、案の定、俺の作品の「水溜まり」だけは体育館の中央、俺が座っていた場所にポツンと残って、別の男の子たちが「なんだ、こりゃ?」「なんかこぼれてる!」と跨いでいた。
「何で手を挙げなかったのよ⁉もう・・・。」
と叱られながら、俺は帰る人の群れの中に横にいた女の子を探していた。女の子と目が合った。生まれて初めて俺は女の子に小さく手を振った。
夢に出てくる例のラベンダーピンク色の太い、蛇行する路。奥処に溶け込んでゆくその路の終わりに近いところの岐路の先に淡く滲む泉。そこにその女の子はいつもいる。水面に触れると俺のDNAになく、きっと俺のDNAが求めている別の量子がそこに溢れている。その泉に踏み入ると、心地よく胸が高鳴り、何故か懐かしい香りの霧に包まれる。女の子の返してきた笑顔が泉の波に軽く揺れている。
40歳は離れているアシスタント嬢に手を強く握られたまま、流れ上その手を離すわけにもゆかず、確かにあの泉の中のような細胞同士の情報の交歓を感じる節もあり、されるがまま、但し腕や肩のびくつきと条件反射を止めようもなく、俺は上がる花火を睨みつけるように凝視している。
「私のおじいちゃんと一緒。」
「おじいちゃん・・・?。」
「ビルマの戦場に行ってたらしくって。戦争の時、おじいちゃん。」
「おじいちゃん?」
「(頷く)わたしのじーじとおんなじだから・・・。」
「いや、そこまでの年では・・・。」
「(頷く)もう亡くなりました。でもおんなじ・・・。」
また花火が上がり、俺の首から肩の僧帽筋が意図せずにピクリと跳ねる。
「戦争の音とそっくりだって。」
「・・・・・。」
「子供の頃、こうしてじーじの手を握っててあげたの。」
「じーじ、ですか・・・。」
夏の気配のする夜の琵琶湖畔の砂浜にむかう小道には10人乗りのメガSUPやバナナボートやカヌーなどのトーイングアイテム、砂を被ったゴザ走り用のゴザの束が重ねて置いてある。ホテルの用度課が倉庫から出してまず日干しをしているのだろう。砂地手前の草地で男の子が大ぶりなカモを追っかけている。いや、カモよりはるかに大きいか。群れを離れて草芝をこの時間についばんでいるのはよほど腹が空いているのだろうか。それとも子育て中で餌をせびられたか。白々とした嘴が暗がりの中、ヒコヒコ地面近くで上下するので妙に目立つ。中華料理のピータンが超肥大化したような真っ黒な胴体。羽毛はカラスより漆黒で濡れて黒光りしている。白嘴の真上の鼻柱の真ん中に真っ白な大きな琴の長爪のような文様がある。留鳥化したクイナ科のオオバンらしい。男の子に邪魔をされてびゃ・びゃ・びゃと警告の地鳴きが止まない。どうやら男の子は樹の枝を振り回している。男の子の親は何をしているのだろうか、海でなく湖だから安心しているのだろうか?
とりあえず初日を無難に切り抜けた。なんでぬいぐるみを着て、跳んだり、おどけたり、ひいては受け狙いで着ぐるみのまま側転を披露する気になったのか。ただ、不思議な充足感があった。ふと「やりなさいよ!」と言った依紗の声を思い出す。俺は鼻笑いしながら、会場から着たまま出てきていたたびなぜ君の重いヘッドを肩口から引っ張り上げて頭から抜き、腰かけていたベンチの自分の隣に置く。夜の湖風が着ぐるみの中に抜けて、びしょびしょに濡れた下着のTシャツやブリーフを冷やすのが心地よい。前開きのジッパーが付いたTシャツで、ジッパーが腹のあたりで冷えている。六月の夏日で花火にマッチしたが、俺は暑くて参った。さすがに夜になって空気が冷えて、ほっとする。熱すぎたのか、遠くで雷の音がしている。いいじゃないか。シャワー雨を浴びたい気分だ。
ふと、この心地よい疲労感が初めてではない、何か以前にも頻繁に経験したことがあるような気がした。記憶している夢、あの回帰する夢の中のラベンダーピンクの路の中途に思い出せないでいる齣(こま)送りがあって、そこで俺は人前に立ち、観客の視線を浴びていたかもしれない。
オーラがある、とスターの事をよく言う。サングラスをして帽子をかぶってマスクをして大相撲を後ろの方で観戦していても発するオーラですぐにパパラッチにばれて騒がれる。これを真似してサングラスやマスクをして来るフツーの人々は多いが、ひとの関心は残念ながらかわいそうなぐらいに見事に素通りする。オーラなどない。見られることで、他の人々の視線を浴びた回数や人々の視線が量子もつれのようにもつれて一斉に注がれ、「素晴らしい!」という共感と承認情報が熱量の塊となってステージの本人に届く。風に乗って熱気と匂いとなった細胞情報の巨大信号が届き、ステージで外部とはまったく別の空気の球体が膨れ上がり、その中でその情報を内包した空気を呼吸して本人はオーラを纏い、回数を経るたびにそのオーラは本人の肌となり気配となる。そして、スターは誕生する。
いやいやいや。記憶不明の駒送りの箇所で俺がスターであったはずもない。奴を殴るつもりで俺を殴って覗いていた鏡の中の貧相な初老の自分を思い出すがいい。ただ、オーラという気流に触れたことはある気がする。夢の中や時々ふっと白日戻って来る記憶の中のそっちの俺は、それなりのガタイで、奴に翻弄されて疲れ切ったこっちの現実の俺とは違う。今日見られることにまったく抵抗がなかった。そして、かなりハードなステージであったにもかかわらず、やり足りない。もっと何かできる気がするのは不思議ではあった。
男の子が棒を持って近づいてきた。オオバンはもう逃げ切ったのだろう。地鳴きは収まっていた。じっと見つめてくる男の子を改めて見返して、俺はギョッとする。何か声をかけようとしたが、背筋に戦慄が走り、首筋から寒気がして一瞬鳥肌が立った。ありえないことだ。もう一度男の子を見返す。どう見ても子供の頃の、お袋が残したアルバムの白黒写真に写っていた「俺」にそっくり、瓜二つだったからだ。かける言葉を失ったまま、怖いものをみるようにして琵琶湖を背にベンチの俺を凝視している男の子を二度見する。そんなはずはない。そう言い聞かせている俺を男の子は見透かしているようだった。上腕ほどの長さの棒切れを俺の顔に向けている。何か言おうとテーマを探す。男の子は顔に無表情を刻印している。「つまらないことを言うなよ?」という子供特有の、どこまでわかっているのか大人を疑心暗鬼に陥れる例の能面を被っている。こういう時は何を話しかけても、「そんなことはもう百も承知だよ。」という無言の回答となる。まあ、いいか。
「あれ?その棒で鳥をやっつけてたんだ⁈」
反応なし。瞬きのない凝視。
「かわいそうじゃん。」
反応なし。俺の鼻先に向けた棒切れを下ろそうとはしない。
「え?おじさんも?おじさんだって、かわいそうじゃん。」
細面に奥二重の細アーモンド目。福耳の耳垂の先がとがった野心家の耳。後ろに張った軍艦頭。俺の小4のころのあだ名は一時期「グンカン」だった。黒い琵琶湖の前に、ベンチの上のほのかなカンテラ風の外灯の傘の中に立つ男の子は気味が悪いほど「俺」だった。この4歳ぐらいの男の子の頃、無論俺が俺自身をまじまじと見たことなどない。まして今のように客体として相対したことがあるはずもないのではっきりしたところはわからない。が、話しながら、声が震え、全身に鳥肌が立つ。真正面から目を合わせられない。愛想笑いが口元でいびつに崩れる。
奴が戻ってきたなら、耳鳴りがして、頭蓋の血流が巡り、視界に飛蚊が飛ぶ。それがない。それがないからこそ、かえって薄気味の悪さにぞっとする。奴の仕業なら慣れっこで、対処の仕様がある。男の子が無言のまま棒切れの先を俺に持てと促すように差しのべてくるので、たびなぜ君の上半身を脱ぎ抜いた手で受け取って握ってみると、その棒切れの先は焦げて炭化してまだかなり熱い。焦げた松脂の匂いが手にべとついた。男の子が棒切れを猛然と引っ張って、俺を立ち上がらせようとする。湖の方にいっしょについてこい、という必死の素振りなので、仕方なく、松脂で着ぐるみを汚さないように全部脱ぎ抜いて、ファスナー付きのTシャツとブリーフ一枚になって、ついてゆくことにした。改めて触れた棒は、さっきよりも熱い。燃えていた熱さではなく、松の樹そのものが内側から発する熱のようにも感じられる。松の木肌が俺の手や腕先にせりあがってくるような気配を感じた。