ロコ・オルカーン

ロコ・オルカーン Ⅰ

Mitsoukoはさとしの大きめのボア生地のキッズ・アノラックを裏返しに着て、フードの縁に施されているコヨーテ・ファーの毛先を小さな手で何度も引っ張って、もっと深々と被りなおそうとしている。裏返しに着れば、着ているものの持ち主が必ず会いに来てくれる。そうさとしが言っていた。

 ブドウの収穫が終わったKaysersbergの廃墟周辺のすべての斜面を寂寞とした風が吹き降りてくる。その風の底を流れる清流の支流沿いに中世の元修道院の建屋を受け継いだマダム・フェラーのワイナリーDomaine Weinflussの館がある。小川の上に架けられた石梁を渡り、ブドウの木の巻き付いた煉瓦造のアーチを潜ると、広い中庭に入る。中央の簡素な薔薇畑に沿って歩いて主館の玄関にたどり着く。入り口は地面から地階の高い梁までぶ厚い何枚かのヨーロッパオークの板木をまず嵌め込んでから、ヒトの背丈の分だけ板壁を刳り貫いて作ったような中世そのままの教会堂風の重い扉で、鉄製のドアノッカーがついている。さらに地上一メートルぐらいのところにももう一つ小さな鉄製のドアノッカーが取り付けられている。マダム・フェラーが子供たちを呼ぶとき音が響くように新たに自分で打ち付けたものだった。その入り口から別館に沿って30メートルほど歩いたところに不思議な高低差のある二股のヨーロッパ黒ポプラの立樹がある。一方の低い幹はかなり円周のある黒い切り株だが、裂けた真ん中や株の輪郭全体から蘖が生え、葉をつけた新しい太い枝が伸び始めている。もう一方の幹はまだ若く頼りないが高さは4メートルほどで、小枝を纏い、秋の黄葉を寒空に戦がせている。その奇妙なポプラから二、三歩離れたところに、石造りの屋根付きの古い井戸がある。Mitsoukoはその蔭に蹲ってフードを何度も何度も被り直している。主館から出てきたマダム・フェラーが気づいて微笑みを浮かべながら腰をかがめてわざわざ下のドアノッカーで扉を中腰のままノックしてMitsoukoの関心を引こうとする。「Mitsouko、さとしはお城のFête des vendangesの準備に行ってる。」 そういえば、Mitsoukoにはドイツ語で話した方がいいことを思い出して言い直す。
「さとしはお城のTraubenfestの準備に行っていると思うよ。パパといっしょに。そうだ、Erikaママがね、そろそろKIMONOを持ってくるって言ってたからね。」
  Mitsoukoはフードから垂れ下がるファーを持ち上げてマダム・フェラーをチラ見する。そしてすぐマダム・フェラーが見上げている山の上の城の方を振り返る。そういえばさっき、さとしを呼ぶ声がしていた。さとしの父親のジュンの声だった。
「バチが届いたよ。お城に上って、太鼓叩こうか?」
「やっと届いたの⁈よかった!みんなも行くの?うん!行く!」
 すぐ戻るからね、と言ってさとしがアノラックをMitsoukoの肩口に引っかけて行ってしまった。裏返して着ても、ぜんぜん戻ってこない。フード越しにまた山の方をチラ見する。一頭の背の光るDrache()が、うねりながらお城に上っている。
 Kaysersberg城の城壁を照らしていた照明は折悪く故障していたが、村の収穫祭とワイン街道20周年祭二つの大イベントの同時開催ということで村人が越冬用の暖炉用の薪のストックを大量に拠出して、中世さながら随所に薪明かりを設置することになった。今まさに麓から城までのブドウ畑の坂道に丁度松明を振りかざし若者たちが歓声を上げながら点々と鉄製の篝籠を立て、薪をくべて登っている最中だった。
 城塔の壁面のいくつのも出窓にはすでに大きな篝火が置かれていて、城壁の不規則な石垣の凹凸でゆらゆらと篝火の火照りの影が揺れいた。薪を入れて背中で皆が担いでいる大籠には、昨日までは、刈り取られたMuscatやRiesling、Pinot Grisといった主に白ワインの品種のブドウの房がうず高く積み上げられていた。
 そういえば、さとしの父親のジュンは今年も初日は葡萄の入った大籠を担ぎ上げられず、頭を横に振りながら助けに寄って来た村のヘルパー連中に揶揄されていた。
「もうジャポンではサムライは死滅したのか?。」
「カメラもラジオも小さくしたのは、弱くなった日本人には重すぎてもう持てないからか?」
「SAKEなんか飲んでるからだぜ。いいか、ワインを飲むんだ。力がでる!」
「私は画家で、だから普段はパレットと絵筆しか持たないので・・・」
「でもさ、ジュン、あんたこの前もあんなバカでかいキャンバスを城まで持って上がってたよな?」「あ、俺も見てた!あんたの体の倍以上の大きなやつだろ?ちょっと心配したんだ。」
「まァ、ちょっと大変だったけど、おかげさまで絵は無傷でした。」
「いや、俺が心配してたのは、ジュンのキャンバスが俺の育てたSchlossbergの極上の Pinot grisを傷つけやしないかってことだぜ?」
 一頻りの笑いの渦。ジュンのKaysersbergのブドウのvendangeのヘルパー参加は7季目になる。ヘルパーの輪の中心でジュンを冷やかしている当のOttoに誘われて来たのが6年前になる。

 山合の農村で独自の民俗芸能が保存されているというフランスのアルザスとの共通点で、三百年以上の伝統を持つ秩父に伝わる地芝居の「小鹿野歌舞伎」をColmarのParc des Expositions de Colmarで開かれる観光見本市に招聘する企画が浮上して、秩父夜祭の巨大な山車とその前で嘶く白馬のオーバーラップした構図のシャガール風の200号の大作「絵馬」でN展の新人賞を取っていたジュンに白羽の矢が立った。
 寝耳に水の問い合わせだったが、お祭りの絵描きさんのせがれということで一人息子のさとしは村祭りの少年団に駆り出され、村歌舞伎の子役をやらされ、ジュンは屋台の書割を描かされたりしていたので、流れとしては当然とも言えた。村長が訪ねてきた。
「万が一じゃけど、行くことになったらさァ、村おこしになんべェ?」
「村長さんが行くん?」
「ばかこけ。おらァ、フランス語なんざァしゃべれっか。やっぱし、おめェしかおらんが。」
 村長が立ち去った縁側に座り直して、ジュンは書架から持ち出した黄ばんだ封筒を外濡れ縁の床板の陽だまりのなかに置いて軽く礼をする。以前フランスにいたころ、たった一度だけ先生から届いた大切な封筒だった。中から一枚の写真を取り出して見つめている。何年振りか。ジュンの秩父夜祭の屋台の試作画の白黒写真が半透明なシートに収められていて、シートの上には朱色マジックで先生の大きな花丸が付されていた。「絵馬」の構想の原点だった。先生が6年前亡くなられたことは報道で知った。まだ早いと知りながら、昨日追肥した前庭の方をジュンは見遣る。水仙の芽はまだ出ていない。夕陽の当たる土面を見遣りながら、憑かれたようなあの絵の成り立ちを思い返している。描いていたのはジュン一人ではなかったような気がする。
 日本三大曳山の一つ秩父夜祭の山車には二種類ある。本宮の日、実際に、秩父神社境内で両翼に張り出し舞台を更に延長して、秩父歌舞伎正和会や小鹿野歌舞伎保存会などの役者歌舞伎が披露される文字通り移動式の大掛かりな回転舞台の役割も担っている「屋台」と、大太鼓と締太鼓を載せて秩父屋台囃子を演奏しながら曳かれる「笠鉾」。ジュンは群衆のうねりや歓声をそのまま具象しても観光協会のポスターになってしまうだろうと思い、人は外して、人の熱狂と狂騒を湧き起こす曳山の絢爛たる夜の美の迫力の源泉である大太鼓の轟いてくる万灯の提灯で飾られた笠鉾の方の外容のみをまず描くことに決めた。丁度ぎり回しで方向転換する躍動の瞬間をほぼ正面から斜めに構図した。光の塊の笠鉾が今にも見るものに迫り、場合によって見るものを圧し潰すかのように。祭りの群衆が隣にいるものとの身分や貧富の差を気にすることも、値踏みすることも忘れ去り、同じ祭りのただの人として、「ホーリャイ、ホーリャイ!」と一年分の鬱積した鬱憤や悲嘆や喪失をここぞと吐き出して、自分を解き放ってゆくその物凄い人の気の塊は、全て武甲山から降臨する龍神として描く予定だった。
 ふと日本画の先輩画家が「龍は描くな。龍を描くと死ぬ。」と言っていたことを思い出した。何より、ジュンは龍を見たことがない。見たことがないものをデフォルメしても、また巨匠の描いた水墨龍を真似ても油絵では、墨の濃淡とおそらくは必ずしも画家本人の意図ではない神秘的な刷毛の余韻を期待できない。デッサンしても目を入れると漫画になってしまう。逡巡しているとき、両神山中腹の実家の山の縁に立つ一頭の白馬を見た。近くに厩舎で馬を飼う農家はなかったが、それを訝しむ間もなく、ジュンはアトリエに駆け込んだ。白馬を切迫してくる万燈の笠鉾と見る者との間に立たせよう。見る者とは今はジュン本人一人だが、絵が完成すれば、この絵を見るのは他人となる。
 一頭の白い馬。その突然の出現に、見る者である荒くれだつ祭り衆も、浮かれて騒ぐ群衆も神の使いと畏れ、固唾をのんで見惚れるに違いない。漆黒の夜空には家宝の形見分けで譲り受けた黒谷の和銅石の小片を削って混ぜたピグメントブラックを使った。前面の白馬は上下遠近法で当然背景の笠鉾より大きくなる。白馬は白を塗り込むのではなく、笠鉾の万燈の光が白馬の背や鬣から透けて見えるようにキュービズム風にオーバーラップさせることでその神々しさを表現できるはずだ。白馬の白は、この作品の命と言える。ジュンは輪郭線を面相筆で引きやすくするため、まずキャンバスの表面に下地としてシッカロールを溶剤に溶かし込んで塗り付けた。日本画の先輩画家に教わり、3カ月ほどかけて巻鉛版に浮いてできた鉛白を削って漉した自家製の半透明の白馬ホワイトを苦労して完成した。確かに作品になった。
 コルマール観光見本市のコンペティション会議で紹介するのは取り敢えず組織の規模が大きい秩父夜祭ではなく小鹿野の春祭りと子供歌舞伎に決まり、フランス語もできるらしい両神在住の祭りの絵描きジュンは、さすがに固辞できなくなった。仮に本決まりになったら、予算は限られているため、小鹿野歌舞伎を超短編に仕上げ、小鹿野歌舞伎の子役の練習をつんで、太鼓も叩ける息子のさとしを連れてゆくしかない。他の子を募っても、町会は簡単に人選をできないだろう。特に娘を海外に送るなど何かあったら誰の責任か、両親が同伴するとして旅費や日当はいったい誰が持つのか、一体全体、東村から選ぶのか、西村からか。ただ、小鹿神社の例大祭の華やかな着物を着た少女たちが金棒を打ち鳴らして歩く曳き踊りの手古舞はフランス人に見せつけてやりたい気持ちもある。必ず受けるだろう。着物や飾り物を現地に輸送して、フランス在住の日本人の子女に代役を依頼するしか手はないが。
 まずは春祭りと屋台の曳き回し、歌舞伎と曳き踊りなどのエッセンスを編集した20分の8ミリフィルムを見せるだけならと、アルザス行きの一人での出張を受けた。そうと決まれば、6年前フランスで亡くなった先生の墓参りに回って受賞の報告もできる。花丸付きの写真のシートと「絵馬」の掲載されたN展の作品集一冊も入れ、使い古した和仏辞書もトランクに詰めた。
 まるで物見遊山気分でマイクロバスで同行して来ていた小鹿野歌舞伎の地元衆に羽田空港で酒気を帯びた万歳三唱で送り出された時、まさかジュンがKaysersbergというアルザスの山合の僻村に毎年来るようになるとはついぞ思ってはいなかった。フランスを再訪したこの翌年から、さとしを連れて夏から秋口にかけて毎年Kaysers―bergに逗留するのが恒例となった。Domaine Weinflussの女主人マダム・フェラーの好意で、収穫を手伝うことが唯一の条件と言ってアパルトマンの二階の一室をアトリエ代わりに使わせてもらっている。収穫期まで残り、十月末には帰国していたが、さとしが小学校にあがってからは、一度一緒に帰国してからまたすぐにアルザスに戻っていた。
 今年は刈り取りがずれこむ都合で、ワイン街道の20周年祭と合わせて同時に行う大きな祭りになるということを聞いてさとしがどうしても手伝う、こっちの収穫のお祭りを見たいと言ってきかない。まァ、まだ小学生だからよかろうと二か月の休校届を出してみた。願いの叶ったさとしは今浮き浮きとしながら村の青年に交じって松明を振って歩いている。フランス語で青年たちと何やら話せている。学校の成績は良くはないが、それはそれでいいじゃないか、ともジュンは思っている。他の子にはない経験になっているだろう。何よりずっと日本では塞いでいるようなさとしがフランスに来ると笑う。良く笑う。それに祭り好きなのは父子の遺伝子なのかもしれない。青年たちとの会話が風に乗って聞こえてくる。
「Satoshi、コヨーテのアノラックどうしたんだい?」
「そうだよ、寒いだろ?」
「Non、ぼくは全然寒くない。」
「Satoshiはサムライだもんな。」
「さっき見たよ。小さいフィアンセに貸してあげたんだろ?」
「寒いって言ってたから。」
「Monsieur Satoshiは紳士だ。」
「ふぃあんせって、どういう意味?」
 青年たちの笑い声が聞こえてくる。一段高さの低いさとしの松明が今、青年達の松明を追い抜いて先頭になって城の斜面を登ってゆく。