コペンハーゲン行きのルフトハンザ機の丸窓から羽田の管制塔を見上げながら、ジュンは前年晩秋のアルザスのオルカーンの晩のことを思い出している。そして嵐明けの朝のさようならも言えず仕舞いだった慌ただしいErika との別れ。
「そっちは無事か?」
まだ雨脚が激しい真夜中、雷鳴はもう遥か山向こうに遠のいていたが、替わって、町の方から波長の異なるサイレンの音がいくつか聞こえていた。Ottoからの安否確認の電話を不意に取ったもののジュンにはそれだけしか分からなかったので、Ottoが捲し立てている受話器をそのままErikaに渡した。通話言語がドイツ語に変わってしまってジュンにははっきりわからなかったが、おそらくその時にErikaが亭主への連絡をOttoに頼んでいたようにも思われた。「Mein Mann」という音はジュンにも拾えた。「KaysersbergのLa Weiss河が氾濫して町中が洪水で、みんなそっちの救援にあたっているみたいです。橋の祠のマリア様も流されたそうで、避難していた町の老人たちのいる聖十字架教会も市庁舎も膝まで水が来ているって。車いすの人たちの移動で大変だそうです。あとマダム・フェラーの行方が分からないそうです。みんなで探していて、夜なべになるだろうって。もしワイナリーの横のWeinflussも溢れたら構わず、私たちは何もせず、二階に上がって朝を待つようにって。何もするなって。」
オルカーン明けの早朝、まだ皆が戻らぬ館の中庭の焼け落ちたポプラの大木と焼け煙のまだ消えない井戸小屋の脇に付けた車をジュンは二階の寝室の窓から見下ろしていた。黒塗りのSクラスの縦目ベンツでMaibach仕様のいかにも威厳のある車体。そして腹に響くような重いドアの開閉音。思わずあの朝、ジュンはその音に弾かれるように覗いていた窓から飛びのいて後ずさりした。二階の窓からErikaが「Mein Mann」の弁護士Von Branchitsch氏の腕に包まれ、抱えられるようにしてその黒塗りのW108型セダンの助手席に大切な宝物を置くように納められる様子を隠れ瞥ていた。
「ジュンさんは出ていらっしゃらないで。私一人がワイナリーにいることになっているから。」
ダークトーンのランプブラックの雲が点在する鈍色の空が明るみ始めた暁闇の中、ヘッドライトが中庭のいくつもの水たまりを銀色に照らし出していた。焼け落ちたポプラの大木が、中でも一番大きな水たまりから流れている行潦に濡れて横たわっている。飛び散った井戸小屋の焼けたドイツトウヒの杮葺きのSchindelの板が水に浮いている。そうか、あなたは帰属するところに還るわけだ。それは、そうだ。
「Ach, ich muss noch die Lichter ausmachen・・・(私、まだ明かり消してこなきゃ・・・)。」
「Lass es! (放っておけ!)」
助手席のフロントドアを開けてErikaが車を降りようとしたとき、二人の会話が中庭に響いた。Lichter(明かり)と言った時、確かにErikaは二階のジュンの立つ窓を見上げていた。ジュンのいる寝室の明かりはあらかじめ消してあったにもかかわらず、「明かり」と言ってErikaはジュンの方を見上げていた。それが、別れの朝だった。
仮に再度の渡仏の予定が決まったら是非連絡をとErikaから手紙がきたが、小鹿野春祭りや子供歌舞伎遠征の件はとうの昔に立ち消え、フランス行などもう予定が全く立たない事実をジュンは伝えたくなかった。公務など霧消していたが、そんなことはどうでもよい。ジュンはすぐ航空チケットを購入した。まずコペンハーゲンでヨーロッパ入りして乗り換え、ボン・ケルン空港に着く便を予約してOttoに伝言を頼んだところ、スイスのチューリヒに目的地を変更するようOttoから連絡が返って来た。勤務中のホテルの電話からだった。フランスでもスイスでもジュンにとっては同じでErikaのいるところへ行くまでのことではあった。
「MORIYA様。いつもご愛顧有難うございます。ところでメッセージが届いておりますので、お伝えします。お連れ様は、ご到着便を至急ボン・ケルンではなく、スイスのチューリヒにご変更頂きたいとのたってのお望みです。」
いつもの親称のTuではなく敬称のVousで話しかけてくる。
「随分他人行儀だね、Otto。勤務中なの?」
「Conciergeが病欠で今日は代理でご連絡しております。」
「で、マダム・フェラーは無事だったの?見つかったの?」
「Schlossbergの南の斜面で見つかりました。」
「ご無事でしたか?」
「はい。震えながら、一番古い先祖伝来のmuscatの原木を抱きかかえておられるところを発見されました。」
「(笑)彼女らしいね、そいつは受ける。何より良かった!」
「(間)笑いごとでは・・・。」
「Pardon、Pardon。でもErikaが何でチューリヒに来いって?いつもメッセンジャーボーイしてもらって本当に申し訳ないけど。どういうことかな?」
「お連れ様は今ご連絡のつきにくいところにおられます。当方もご連絡が入るのを待って、MORIYA様からのメッセージをお伝えすることになります。ところでお預かりしているトランクですが、ピックアップに当館にもお立ち寄り頂けますか?」
「そうだった。Ottoにも会いたい。」
「その折にはPinot gris Kaysersberg-Quest / 1973 / Alsace Grand Cru / Erika et Otto / Domaine Weinflussも進呈いたします。」
「(笑)それぐらい払うよ。できたんだ?」
「お陰様で、荷台のやつは雨風を免れて。ご心配をお掛けいたしました。」
「よかったね。一緒にまた飲めるね。」
「そうだ、et Ottoは銘柄名から外してGrand Cru / Erikaにしました。」
「で、味は?自信作?」
「豊かなアタックですが、フローラルなフレーバーで舌触りはジャポンの絹、仄かな酸味があって、失くした恋への憧れといったところでしょうか。それなりにソムリエOttoとして認知せざるをえない出来栄えです・・・」
「ん?よくわかんないけど・・・。」
「お客様、それでは失礼ながらこれで。お連れ様からご連絡があると思いますので、チューリヒ到着便にご変更されたら日時と便名を私に至急ご連絡ください。お待ちしております。」
チューリヒのクロ―テン空港でErikaはメルセデス・ベンツのあのW108型セダンで待っていた。申し合わせ通りArrivalではなくDeparture階の方の車寄せに駐車してた。主人の車で迎えにゆく。そうErikaが出発直前の電話で言っていた。立て続けにコインを入れる音がしていた。また公衆電話からだった。Erikaの家の電話番号も知らされていない。
「もう2マルクしかないの。じゃあね。切れるの嫌いなの。ホントにいらっしゃるのね?」
「飛んで行きますって。」
「(笑)ジュンさん、龍だからね。龍は泳げないの?(コインを入れる音)明々後日のコペンハーゲンからのルフトハンザね?主人の黒いベンツで二階のDepartureの車寄せに付けて待ってます。下は混むし・・・(通話が切れる)」
車に乗り込んで、あのオルカーンの夜があって良かったとジュンはまず口にしようと決めていたが、やめた。深いエンジン音がして、ウインカーのチャイムが車内に響く。乖離のある周波数に挟まれて、直情をまず押し殺して何から話すべきか、メロドラマにない語彙を強いて探しながら、ジュンは音に囲まれた妙な静寂の中で戸惑っている。「会いたかった。」言いたいことはそれだけだったが、そうは言えない、何かそれを言ってしまったら、ジュンの大切にしていた物語がそこで終わってしまう気がした。車は照明のない暗いアウトバーンに乗って、空港周辺の雑然とした建物の集合を抜け出し、遠く根雪の冠のあるアルプスの濃い藍色の山々が前方に出現した。Erika が気を使って口火役を請け負う。
「コルマールにお祭りを連れていらっしゃることになったのですか?」
「いや、結局今回はご招待には預かりませんでした。」
「そうだったんですね。残念ですね。日本の小さな女の子たちの曳き踊りでしたっけ、見たかったです。」「ああ、手古舞のことですね?ボンの大使館の外交官やマスコミ関係の駐在の方の子弟が集まるギムナジウムやデュッセルドルフの日本人学校の子弟に呼び掛けてくれるって実はパリの大使館の書記官も言ってくれていたんです。アルザスにパリより近いですから。きっとフランス人は喜んでくれたと思いますよ。着物を着た日本の女の子たちが金棒の鈴を鳴らして石畳を練り歩いたら。ねェ?。無念です。」「さとし君はお連れになるおつもりはなかったんですか?」
「奴には本番は太鼓を打たせるつもりでしたけどね。」
「会ってみたいな。ほんと、残念・・・。」
「コルマール側は実は乗り気だったんですよ。でも文化庁の国際文化課が文部省の内部の学術国際局に移されたりしていて、フランス側も予算交渉の相手がはっきりしないので嫌になっちゃったみたいで。」「ジュンさん、無駄足でしたね。」
「いや、あれから、私の先生の形見をパリ近くのアトリエに頂きにあがったり、ランスのde la-Paix教会に先生の遺作となったフラスコ画を見に回れたりできましたし。それより、何より、Erikaさんに会えた。」
乗せやすい文脈だった。ジュンが一番言いたかったことを。サングラスを外してドアポケットに落としてから、ハンドルを握ったまま、Erikaはかなり長い時間横のジュンの方を向き、進行方向の前を頑なに見遣っているジュンの視野に入り込もうとしている。その侵入を許して向き直って目を合わせれば、Erikaの鵝眼の真ん中の、そのくっきりとした大きめの瞳がジュンを一瞬で射抜くことをジュンは知っている。目が合った瞬間に、あの嵐の夜があったことなのか、なかったことなのか、Erikaが下している是非を知ることになるだろう。ジュンはアウトバーンの進む先を見つめて固まっている。
「あの、空いているとはいえ、前を見て運転しませんか?」
「(笑)ジュンさん、怖がり?」
「でも150キロ出てますよ・・・」
「(笑)さすがメルセデスでしょ?」
「あのOttoですら奴のVWポルシェでここまで飛ばさないし・・・」
「(笑)はい、わかりました。少し落としますね?」
「やっと、また会えたんだし。」
「(笑)途端に死にたくはない?」
「ここで二人で死んだら、ご主人がどう思いますかね?」
Erikaの顔から笑みが消える。アクセルを少し浮かせて速度を落とし、車線変更する。ウインカーのチャイム音はさっきErika がオンにしたエアコンの音にかき消されて聞き取れない。空調ダイアルを回すと送風音が収まり、車内が静かになる。
「すごいですね、クーラーがついてる。」
「後付けのオプションらしいです。でもうるさいわ。」
「さすがドイツ車ですよ。」
「事故ったら、あの人はまず車を嘆くかも。」
「まさか。」
「役員に試乗用として譲与されている車ですから・・・」
「え?ダイムラー・ベンツの役員さんなんですか?」
「いえ。持ち株会社の方の顧問弁護士です。」
Kaysersbergのマダム・フェラーのワイナリーDomaine Wein-flussの館の従業員食堂に登場したときから、Erikaが普段身に纏う気配が土臭いその場の空気と異質であることは明らかだった。溶け込もうとしても溶け込むことのない、水槽の水の中を浮遊する虹色の水泡。そうか、それはErikaが本来いるところ、Erikaが帰り、Mein Mannと呼吸している空気から醸し出される気配なのか。
「大丈夫ですよ。私も死ねませんから。」
「死ねない?」
「そう。Mitsoukoのためにも。」
「みつこ?」
「生まれたんです。先月のはじめ。」
「え?」
「やっと授かって。先月中旬に、とりあえず無事に女の子を産みました。」
「うわァ、それは、おめでとうございます!でも、産後まもないのにからだ大丈夫なんですか?」
「私は、平気です。」
「そうか、だからか・・・。」
「だから?」
「(軽く笑う)いや、Erikaさんちょっとお腹や胸のあたりが、その・・・。」
「やはりわかります?どこを見てらっしゃるかと思えば・・・。」
「いや、でも普通のお産の後のお母さんの腹直筋離開じゃないですか、さとしの時もそうだったんで知ってますよ。」
「奥様も?」
「(頷く)だいじょうぶですよ。でもしきりに腹筋してましたね。」
「(頷く)やってます、わたしも。」
「で、赤ちゃんは?」
「実は37週目の早産で1712gだったので、今も主人の知り合いの名医のいるチューリヒのヒルスランデン病院のBaby Intensiv-Stationで回復治療中なんです。」
「あれれ。それ新生児の回復病棟にいるってことですよね。大変だ。」
「でも、もう安定していてあと一週間だそうです。」
「それは本当におめでとうございます。大変でしたね。」
急にErikaが押し黙る。ふとジュンはErikaから7月中旬に届いた消印のかすれた赤と青の高さ3㎜程の小さいデータ型平行四辺形で交互に縁取られた水色の国際便の封筒に「EXPRESS」の大きなラベルが貼付されていたこととAbsの裏書がErika Von Branchitschの名前だけで住所が記されていなかったことを思い出した。Bonnの自宅の住所を知らせたくないのだろうと勝手に忖度していたが、丁度出産前後に病院から送ってきたことになる。普通便なら二週間以上かかるが国際速達便なら6日ほどで日本に届く。正期産の時期以前の低出生体重児の出産を危惧して不安を感じていたのだろうか?いや、「Mein Mann」がそばにいるだろうに。文面には全くそんな逼迫感もなく、出産のことなどおくびにも出されてはいなかった。
「ありがとうございます。私、本当に嬉しいです。」
そう言ってまたErikaは押し黙った。十カ月ぶりの再会に、ジュンは何となくErikaが黄色を選んで着てくるだろうと踏んでいた。ブラジルのイペーのレモンイエローではなく、黄水仙の緑がかったカナリーイエローのこと、夜祭の武甲の月の色、屋台の和提灯の明かりの色のこと。そして、Erikaのサイケ柄のニットのタイトなワンピースは食堂の蝋燭の光の中では金密陀という赤みがかった神秘的な黄色に見えたこと。嵐の夜、子供のようにErikaは頷いていた。思惑に反して車の横に立ってジュンを待っていたのは黒いブラックのAラインのシルエットで、チュニックの丈長の黒いシルクのプリーツワンピースを身に纏ったErikaだった。Erikaはあの夜の自分の体をあの夜のままざっくりと包み込んでいるように見せようとしたのかもしれないが、ノースリーブのUネックの胸元からのふくらみが明らかに増したことを画家ジュンの目が見落とすはずもなかった。挨拶代わりに丸縁の大き目のファッション・サングラスを一瞬外した時の印象にも違和感があった。物憂い翳か、憔悴か。アンニュイな一瞥。出産のことを知らされるまでは、単にすこし太ったことを隠そうとしていると勘繰っていたが、母乳を湛えた母Erikaと知らされ、わざわざ何をしにジュンはそわそわとチューリヒまで飛んできたのか、一体何を期待していたのか、実はハンマーで自分を殴りたい心境だった。馬鹿か、俺は。だが、説明がつかないが、Erikaが何か故あって、手紙を寄越して、ジュンの関心を量ってきたように思えてならない。
「ジュンさん、会いたい?」
「え?誰に?」
「Mitsouko。」
「・・・。」
「もう保育器のそばに立って覗くことも許可されてるの。」
「・・・。」
向かっているRigiという山の場所を地図で探すため点けた車内のルームランプに照らされて、フロントガラスにくっきりとジュンの顔が映っている。外灯のまったくないアウトバーンは夕暮れて、デフォルムされたジュンの顔面がジュンを道の向こう側からのぞき込んでいる。この顔をジュンは知っている。先生に貰った箱宮の神鏡を覗き込んだ時、見返していたもう一人のジュンの顔。神棚の中央の神鏡に映る自分の目。不意に忘れていた悲しみに晒され、助けを求める目をしている。封印したままフランスに置き去りにしてある先生の箱宮の、その神鏡の中のジュンが今、フロントガラスに浮いてジュンを見つめ返している。お前はなぜ今俺を見つめ返してくるのか?俺はいったい何しにここに来たのか?見知らぬ土地にジュンは今ジェット機で降りたったのかもしれない。ジュンの軸足だけがまだあの嵐の夜のアルザスに取り残されている。
「今日はスイスでは建国記念日で、ゲマインデ(市町村)それぞれが大きな篝火を焚いて、花火を一斉に夜8時に打ち上げるの。リギという山の上からジュンさんに見せてあげたいと思って。リギの向かい側にPilatusというギザギザの山があって、ジュンさんの住んでる両神山と同じようにあそこにもDrachenが棲んでいるっていわれてるの。ニッポンの龍神様におみせしようかなって・・・。よろしいかしら?」
嵐の翌日、Erikaが帰るべきところへ帰り、ジュンはOttoの車でリヨンに送られ、パリに向かった。残って災害のあとを手伝おうと申し出たが、二、三日で片付く話ではないし、怪我でもされても却って迷惑とOttoに半強制的に厄介払いのように列車に押し込まれた。亡くなられた先生の奥さんからヨーロッパにくることがあれば立ち寄るようにとかねてから言われていたこともあり、アルザスを後にすることにした。
パリ郊外のアトリエで奥さんから渡された遺品は、先生が晩年自分で作成した組み立て式の箱宮だった。国籍を替えキリスト教に改宗した先生としては意外なものだった。一社型の神棚だが、中央の一枚扉の奥に神宮大麻、氏神大麻、お参りする神社のお神札三枚を納めて立てかける横並びのスペースが確保されていて、その小さな高さ40㎝のお宮全体を木箱で囲って、正面には扇状に左右に開くガラスの扉が取り付けられていた。天照大神、若いころ先生が滞在したという木祖村の藪原神社のお札、そして「オレガミ(俺神)」と墨で色紙を切って作った短冊に記されているお札代わりを裏返すとワイングラスを持った先生自身の一筆書き風の似顔絵が添えられていた。
その箱宮の両脇には青紫色とピーチブロッサム色のアジサイが染められた布地の切れ端が糊で貼り付けられていた。「Maison de Rie Beau」と箱宮の底の縁にマジックで極端に小さな文字で書かれていた。奥さんが言うには、利恵が死んだ経緯を読んで、先生がかなり気にしていたという。結婚する前、丁度三越で先生の展覧会が開催された折、一度挨拶も兼ねて利恵を連れて食事をしたことがあっただけだったが、「利恵坊」とジュンが利恵を呼んでいるのを「Rie Beauか、なるほど。」と酷く気に入っていた。
「まだ売れない画家の伴侶が盲目になったら、画家は生きていけないよ。」
そう先生が嘆いていたことがあったという。先生が若いころ、自棄になって暖を取るため焼こうとしたカンバスやデッサンを先生から奪い取って先生の絵を必死で売り歩いてくれたフランス人の彼女がいたことは良く聞かされて知っていた。そういえば食事の際、利恵はアジサイが好きだと確か話していた。フランスのアジサイは春先に咲いて、ピンクだと先生が言うと、利恵が反論した。
「アジサイは紫陽花と書いて、紫でなければなりません。フランスでピンクのその花はなんと呼んでますか?」
「Hortensiaかな。」
「じゃあ、それはオルタンシアです。紫陽花ではありません。ピンクの紫陽花寺には私は行きたくありません。」
「いや、それもありだと私は思うけどね(笑)・・・。でも好きな色がはっきりとしている女性がそばに居てくれるのはジュン、有難いことだよ。」
晩年、色々工芸品の制作もしていて、箱宮もその範疇だったのかもしれない。先生の遺品となった箱宮を運搬用に解体してトランクに詰めている時、ジュンは涙が止まらなかった。お神酒を入れる瓶子も三宝も何一つまともな神具はなかったが、丸い神鏡だけは手作りの木彫りの台座にはめ込んであった。その神鏡に映る自分の泣きはらした目をジュンは忘れられない。箱宮を日本に持ち帰ってまたアトリエで組み立てなおすためトランクを開けた途端、ようやく封じ込めた悲嘆の年月を浦島太郎のようにジュンが一気に遡行してしまいそうな一種の怖れを感じた。それは耐えきれないほどつらいことになるだろう。さとしが寝付いた真夜中のアトリエで、ジュンは利恵坊と先生のあの晩餐の光景を一人で咀嚼しなおすことになるだろう。アトリエの四隅から悲しい過去の影が寄り迫ってきて、そのままその昏さに取り込まれて、翌朝からの画作から光が消えてしまうだろう。祭りの絵も、依頼のあった京都の祇園祭を歩く置屋の下地っこたちの絵も、描けなくなる。ジュンはトランクごとOtto宛にOttoの働くホテルに送って、預かっておいてもらうよう手紙を添えた。
「ジュンさん、どうされました?ご自分のお顔と睨めっこですか?怖い顔なさって。」
「こっちの高速道路は暗いんですね。なんかあの先のスイスの山にこのまま吸い込まれそうですね。」「龍になって飛んでいかないでくださいよ?お祭りだからって、浮かれて。」
「飛んで来たんです。妙見様のところへ、今。もう飛ばなくていい。」
「(鼻先笑い)またァ・・・。なんでしたっけ、そのミョウケンって?」
「滅多に会えない菩薩さま。」
「それ私のこと?」
「でしょう、やっぱり。」
「でも菩薩様って仏教でしょ?夜祭って秩父の神社さんのお祭りですよね?」
「お祭りの夜は八百万も仏さまもみんな一緒になって神仏合祀でいいんです。誰が誰と出会っても。」「都合良すぎません?」
「そうです。あくまで龍の勝手な都合ですが・・・。」
「(間)いえ。ミョウケンがお招きしたんです。きっと。」
「・・・」
ウインカーを出してErikaの車はアウトバーンを降り、Vitznau-Rigi-Bahn(リギ登山鉄道)の標識を追う。Vitznau駅には煙をたて時折汽笛を鳴らしている小型の蒸気機関車が発車待機していて、深紅の車両周辺に人だかりがしていた。日本のようにSLファンがカメラを抱えて群がる様子はなかったが、レトロ感への乗客たちの高揚は同じだった。
一人の日本人と思しき青年が黒眼鏡をかけ、カメラを胸にさげ、蒸気機関車を前方から撮影しようとプラットフォーム最前方から乗り出して、機関士から何か注意されている。頭を掻きながら、もう一枚だけと指を立てて謝っている。ついでに本気で文句を言いに降りてきた機関士本人を横に立たせて、強引に写真を撮っている。ジュンはカメラを滅多に携帯しない。視力は抜群で眼鏡もかけていない。まさに今、目の当たりにしている日本の青年がOttoの言う「典型的な日本人」のイメージそのものだが、ジュンには当てはまらない。特段イメージに填まることを避けているつもりはないが、この高価で短い旅行の間にヨーロッパから吸収したり習得しなければならないという責務は一切感じてはいない。ジュンはErikaに会いにきた。それだけだった。
思った通り、大阪の重機の会社から出張で来ているその青年から、Rigi山の名前の由来が、ラテン語のRegina Montiumらしいこと、Vitznau-Rigi-Bahnのリッゲンバッハ天才技師方式は車体の真ん中とレールの真ん中に歯軌条(ピニオン)を従来の車輪とレールだけの摩擦のみで駆動する粘着式鉄道に加えたことで急こう配の登坂可能条件である1000μWD≧W(r+i+a)を3倍近く向上し、なんと最急勾配250‰もある斜面を登りきる画期的な技術で、小国スイスのイノベーション・スピリットは1870年頃、すなわち日本ではまだ明治開花ほやほやの鎖国の長い惰眠から冷めやらぬ頃、すでに完全無欠の覚醒を成し遂げていたこと、車両の向きを変えるレールの敷設された大型の円盤状の転車台は日本でも車庫入れに必ず利用できること、スイスをチョコとチーズだけなどと侮ってはならず、マッカーサー曰く「日本はアジアのスイスたれ」とはまさに名言であること、頂上のクルムホテルは山小屋から発展して、その昔はゲーテ、ケーニヒ湖で暗殺されたバイエルンのフリードリヒ二世王や日本では赤光の斎藤茂吉先生にいたるまで世界のセレブが投宿した隠れ名ホテルであること、自分は予算が足りないので泊まれないこと等々をわずか30分ほどの乗車時間の間中拝聴し続けることになった。
「いやァ、一週間ぶりにやっと日本語を話せてつい嬉しくなっちゃって。あの一応、この左側の席からの車窓の眺望は息をのむほどの絶景なんだそうで、ルッツェルン四つの森の湖を見下ろせたはずなんですが、すみません、すっかり見過ごしてしまわれましたね、申し訳ない。で、ご旅行ですか?良かったらワンショットお撮りしてお送りしましょう。」
Erikaが丁重に、但し毅然と撮影を固辞すると、青年は薄ら笑いを浮かべて察したように「なるほど、なるほど」と嘯きながらレンズカバーを嵌めなおすと、すくっと立ち上がって「では。」と言って別の車両に移っていった。ジュンとErikaは目を見合わせてから、お互いくぐもるような笑いは抑えきれなかった。
「彼がさ、本田宗一郎だって名乗っても驚かなかったと思うよ。」
「ほんとですね。」
「すごいバイタリティーだった。」
「あのね、よくパリやボンの五つ星ホテルのロビーの高級ソファーに座ってね、靴を脱いで靴下脱いで足の裏をボリボリ掻いている日本人がいるの。みんなネクタイをしてスーツ着てるのよ?きっと日本ではしかるべき立場の方々なんだと思うけど、あれ、やめてほしい。」
「(笑)まァ、気持ちはよくわかる。踵の皮を毟ったり?」
「そうなの。カンベンしてほしい・・・。」
「ゆるしてあげてくださいよ。ずっと靴を履いている生活に慣れてないんですよ。」
「いいえ!ならぬものはならぬ、です。部屋でやって下さい、です。」
「マナーはいずれ身に付きますよ。日本人ほど人目を気にする民族はいません。時間の問題で、今はその時間がみんなにまだないだけ。特にさっきの青年のように貪欲に調べて一瞬の間も惜しんで何でも吸収してやろうと渡ってきている連中はあれでいいと思うんです。格好は悪いけど、格好より大事なミッションが明らかにある。戦後壊れた国と国の自信を取り戻すには、まずあの勢いでいいと思うんです。国を成すことがまず先決なんですよ。追いつけ追い越せの二回目の維新、経済維新ですから。」
「だったらジュンさんは国なんて成さなくていいです。その代わり、足を人前で毟ったりなさらないで。」
クルムホテルの入り口の外で待つように言われて、ジュンは中に入っていったErikaの戻りを所在なく待っていた。不思議とまた先生のことが思い出される。そういえば、留学していたあの頃、会いに行った初老の先生はよくサンダルを脱いで五つ星ホテルのロビーではないが、パリのレストランでも村のワインバーでも余り場所に頓着せず、裸足をボリボリと掻いていた。別段周囲も品のないアジア人を見下している風でもなく、ほぼ常連ということ以前に、そういう所作の奥にもっと価値のあるものを持っていると周囲に感じさせる力量があったからかもしれない。
「糖尿の気があるのかもな。時々無性に痒くって困る。朝になると掻きむしり過ぎてかさぶたさ。シャワー浴びるとシミてね。ダニかなって思ってたけど、どうやら違うね。ワインじゃなくて、一時期日本で日本酒を浴びるように飲んでた。あの糖分が体から抜けないでいるらしい。」
「戦中のことですか?」
「そうだな。」
「以前から一度お伺いしたかったのですが、言い出しにくくって。」
「なんだい?」
「先生が従軍画をなぜお受けになったのか・・・です。まるで理解ができないんです。ぼくには。」
先生は足を毟っている手を止め、ジュンを上目遣いでじっと見据えたまま何も言わない。気に入らないときの癖の貧乏ゆすりもない。その妙に静かな気配には、この若造にどの程度本気で応答すべきか、この若造にどの程度の理解力があるのかという推量が何層か折り重なった重みがあった。ジュンは畏れた。場合によってジュンは先生が近しい者に触れてほしくない汚点をポイントアウトしてしまったかもしれない。または作品群の本当の意味と価値を看破できない未熟者として破門になるかもしれない。ただ、ジュンには従軍画のどこが先生なのか本心から皆目見当も付かなかった。先生の仕事ではない。なぜだ?
「ジュンがね、俺のように呑むのが好きで止められないとしよう。」
とりあえずどやし上げられたり、グラスが飛んで来なかっただけでも感謝すべきとまずはジュンはほっとした。絵解きの種明かしがあるとは思えないが。大事には至らないで済むかもしれない。
「はい。」
先生はジュンの目に視準をまっすぐに合わせたまま、瞬きもせず、グラスのワインを一気呵成に口に押し込んで、頬を膨らませて、口の中でワインの液を左右に揺らしてから喉音を立てて嚥下した。
「世界からこのワインが消えるかもしれない。いや、ワインはもうない。で、酒はある。いや、今は酒しかない。だとしたらお前は何を呑む?」
「(間)酒ですか?止められないなら。」
「酒がいいわけじゃない。でも、呑むことはやめない。」
「止めたら宜しいじゃないですか、中毒じゃあるまいし。」
「あのさ、絵描きは絵の、プリマ・ドンナはオペラの、詩人はポエムの、レーサーはレーシングのリスクに中毒でなかったら、ある意味、強烈な中毒患者でなかったら続かないぜ?」
「そうかもしれませんが・・・」
「お前、絵が売れたことがあるか?」
「いえ、まだ、その・・・」
「売れたら嬉しいか?」
「まァ、気に入ってもらえて、おカネになったら・・・とは思いますけど。」
「苦しいか、生活?」
「はい・・・。」
「一億という一生にもう全く困らない金をお前の絵に払うというバイヤーがお前の描いた絵を全部買うと言ったらどうする?」
「即刻、売ります!」
「ただしだ、それでもう絵を止めることがバイヤーの条件だとしたら?お前の絵は次作の出ない天才画家のレアものとして転売してゆくので、と言われたらどうする?絵を止めるか?」
「(笑)そういうことですか。いやァ、やっぱりこっそり描き続けると思いますけど・・・」
「じゃァ、別のバイヤーがカネを支払ったら、その場でお前の絵全部を焼くのが条件だと言ったら、お前はどうする?」
「え?絵を焼く?なんで?」
「あり得ない話じゃないさ。お前を中毒症状から更生させようと本気で思い詰めている人物が親戚にいるかもしれない。お前が例えば大財閥の御曹司なら、そっちの世界に引き戻そうとするかもしれん。」「ないです、ないです、そんなこと。私の実家は秩父の山の百姓ですし。」
「あるとして、どうする?」
「売りませんね。」
「なんでだ?」
「何か、自分の皮膚を焼かれるような気がします。」
「お前らしくない答えだね。ほんとかね?つまんねェ。」
「すみません。正直に答えます。焼いてもらって、お金貰って、そのまま逃げますね。」
「で、絵はやめる?」
「いえ。また描きますね。きっと。」
「なんでだ?」
「焼かれたものよりいいものを描けるかもしれないし・・・。絵しか描けないんで。」
「な?」
先生がジュンのグラスを自分の方に引き寄せて、余っていたワインを一気飲みして、グラスを静かにジュンの方に押し戻す。グラスの底が微かな木目の凹凸のある木のテーブルの表面と擦れ合う音がする。
「俺が初めてパリに来た時、第一次大戦が勃発してね。丁度お前の年齢かな?ドイツ軍が押し寄せてきた。絵なんか売れるわけもなく、まァ、しんどかったね、カネがなくて。寒くってな、俺は自分で自分の絵を暖炉で焼いた。(笑)」
「あれ?当時のカノジョさんが絵を売って歩いてくれたんじゃ?」
「(笑い続ける)最初はね、絵としてじゃなく、デッサンの紙や乾かして薄めた樹脂やリンネルを貼り付けたポプラの板は燃えつきが良くてね。家庭の暖炉の着火剤として売ったんじゃないかな、あいつ。」「ポプラ?」
「板絵やカンバスの組木に使ってた。」
「支持体にポプラですか?」
「一番安かったからね。」
「火付け用に売っちゃうんですか・・・。」
「売って、飲み代になった(声を上げて笑う)。」
「飲まなきゃいいじゃないですか。」
「ジュン。俺たちはやめられないんだろ?」
「酒の話です。」
「酒も絵もさ・・・。」
先生が小指と人差し指を立て、右手をキツネの影絵の形に丸め、ピンゼルを持って宙に絵を描く仕草をしてみせる。ジュンの顔の正面でそのエアブラシを波状に上下させながら、何かもぐもぐと舞台台詞のようなフレーズを口ずさむ。
「あかあかといっぽんのみちとほりたりたまきはるわがいのちなりけりあかあかといっぽんのみち・・・。」
手で作ったキツネ口をまっすぐジュンの鼻先に向けて制止して、人差し指と小指のキツネの耳の間の奥から先生がジュンをじっと見つめている。
「焼くとね、真っ赤に燃えるんだ、俺の絵。」
「なんか、悲惨です。」
「まァね。だが、また描いてやるぜって気になったね、焔を見ていて。」
「それは何となく、判る気がします。」
「描いては焼いて、また描く。」
「(口調を真似て)絵は描く。描き続ける。」
「そう。カンバスも紙もなくなったら、アパルトマンの床板でも外して描く。」
「(吹き出す)なるほど。じゃァ、次は壁ですね?」
「そう!壁もなくなったら、まだ天井もある。」
「天井画ですね!」
「ご名答。俺は実際天井画だって描いた。」
「日本の神社でしたっけ?」
「そう。」
「頼まれたんですか?」
「頼まれても、頼まれなくってもさ。描くんだよ。絵描きってさ。」
見えないものは絵描きは描けない。ただ、絵描きの目に見えるものは絵描きによって万別だから、絵描きに見えるものを描くとヒトの裸眼に映る次元を超える。それが何より面白い。もともとカンバスは二次元のフィールドで、そこにヒトの裸眼に映る三次元を写実して見せたのが絵描きという魔術師。二次元に三次元を写実する絵描きの魔法。その技術はもう歴史の中で十分練られて確立している。
現実が異常に美しかったり、醜かったり、とにかく「異常」であれば、絵描きの仕事はそのままを写実すればそれでそれなりの作品になる。ある意味、そういう異常時の方が楽かも知れぬ。絵描きは絵を描けばいい。モデルが絶世の美女だったり、個性的だったり、時代が醜悪であったりしたら、そのままを絵描きは絵に描けばいい。現実を精緻に写実した記録に自動的に十分力がある。
醜悪な現実の真っただ中で、絵描きの中には、その現実を直視できずにデフォルムして描く者もいる。見えないものを描いたわけではない。見えたものを抽象化して昇華して整理したものかもしれない。現実があまりに痛々しくて、その異常を写実することができなかった。現実が正常化すると世の中はその作品には醜悪な時代に対する批判が込められているといって評価する。そうかもしれない。だが、戦争で累々と死体が折り重なる情景を、正しい、美しいと思う絵描きが一体一人でもいるだろうか?あの時代、見えないもの、目に見えないが見たいものが、平和な村の暮らしだとして、村の盆踊りの娘たちを描くことこそ反戦の意思表示になるとでも?猫とフルーツの絵でも描けと?写真を撮るか?写真は芸術だが美術ではない。絵は美術だ。絵描きは美しいと思うものを描く術を持つ。が、見えないものは描けない。本来美味いと思うワインを飲みたい。が、ないものは飲めない。美が消失した現実の中で、美は見えない。見える現実を描くしかない。
当時、コダクロームのカラースライドはあったが、まだ白黒の時代で、Ilfordの印画紙でFigureの200号なんて大きさのものなんかない。特別に軍から軍需品の麻布は貰えたし、絵でしか厳然たる事実を、起こっている恐るべき現実を少しでも実証性のまま記録して伝えられる迫力のある媒体は当時なかった。
「お前の実家は農家か?」
「はい。」
「戦争には?」
「父と叔父が戦死しました。」
「そうか・・・。」
「先生のご実家は?」
「陸軍の軍医。大戦前に退役していたけどな。」
「では戦犯には?」
「(首を横に振る)戦犯は俺かもな。酒を貰った。」
「酒ぐらいで戦犯にはなりません。」
「酒も美味いかなと思った。酒しかなくなるかもってね。」
「止められなかったんですね・・・呑むの。」
「止めるわけがない。」
「・・・。」
「お父上も叔父殿もお気の毒だった・・・。」
「はい。母は半狂乱でした。お国などどうでもいい、父を返せと。」
「(静かに頷く)あの当時戦争画に取り組んでいる時、時々さっきの短歌が頭に浮かぶんだ。ふわっと、浮かんできたんだ。」
「さっきのあかあかと、ですか。」
「そう。アパルトマンで絵を暖炉にくべながら、見つめていた焔のこともね。絵描きは絵を描く。歌詠みは歌を詠む。道義上の良し悪しなんか決められるのかね、誰かに。」
先生の貧乏ゆすりが始まった。長居は禁物だった。後にも先にも先生とこんなに長い時間一緒にワインを囲んで話ができたのはこの時だけだった。画作を持ち込んでも、一瞬斜視するだけで、講評など貰えたこともなかった。
「わかんねェー。」
「あの、一応、番の白鷺なんですけど・・・。」
「そうか。コウノトリかと思った。」
「シラサギです。」
「見たの?パリでシラサギを?」
「いえ、実家の山です。」
「そうか。じゃ何でパリに来た?」
「はァ・・・。」
「わかんねェー。」
「あの、こっちの人には珍しいかと。」
「そうじゃない。いつもわかんねェのは、お前が何で絵を描いてんのかだよ。」
「・・・。」
あの日は確か背景に照明された凱旋門の夜景の前に、グレー系でアップの自画像を描いた作品を持参した。唇にだけホワイトのカラージェッソをそのまま剥き出しで盛り上げるように塗り付けてみた。確かにそれまでの中で一番長い先生の一瞥があった。
「没収されてる作品を観られる機会があったら、よーく見て探してみてくれ。」
「何を、ですか?」
「日本で一番高貴な色は何だ?」
「コーキな色ですか・・・。」
「最高位の法衣が紫衣だろ?」
「紫色ですか?」
「兵士の死体のどこかに、目立たないように必ず紫の花を描き込んである。」
先生は貧乏ゆすりを止め、足を組みなおして右の足裏を左足の膝に持ち上げて踵を擦りはじめた。もうこの夜、先生と目が合うことはないことをジュンは悟った。背丈の無い先生だったが、溢れるような異様な存在感があって、実際の背丈をジュンが目測することすらなかった。居るだけで量が感じられて、先生の実際の身長がどれぐらいかを気にすることなどなかった。それどころか、いつ吹き飛ばされるかを心配していた。が、あの夜、足の裏を毟り始めた先生は、急に老い込んで、存在が萎んで小さく見えた。
「ごちそうになります。失礼します。」
先生は顔を上げないまま、じゃあ、という具合に足を毟っていない左手を挙手した。
「先生?」
「・・・。」
「日本にはお帰りにならないのですか?」
「・・・。」
「待っている人も多いと思います。」
「・・・。」
「お体とか、一度、日本で診てもらうのも・・・。」
「(顔を上げてジュンを見返す)しばらく来んでいい。自分一人でしばらくは酒を呑めや。」
それは破門なのか、その夜見せた自画像が認められたのか、謎だった。絵を止めちまえということなら酒を呑め、とは言わない流れではなかったか。行きづらくなって先生をフランスで訪ねることはその後なかった。近況は画作を当初は白黒、撮れるようになってからはカラー写真にして送り続けたが、まず返信はなかった。一度だけ、送った秩父夜祭の屋台の試作画の白黒写真一枚だけが丁寧に透明なポリビニールのシートに収められて封書で送り返されて来た。シートに朱のマジックで幼稚園児向けの花丸が付せられていた。きちんと見てくれていたことが、ジュンは幼稚園児のように嬉しかった。
Erikaが一本のボトルとグラスを二個、銀の取っ手付きの丸プレートに載せてホテルのエントランスから他の入館してゆく宿泊客と逆行して出てきた。ドアボーイが手伝おうと寄って来たが、Erikaはそれを断って笑いながらジュンの方にぎこちなく歩いてきた。一緒についてくるように言われて、ホテルの主館の周りを廻り、湖側の前庭を過ぎり、階段を下りて散歩道のような小道に逸れてErika が前を歩いてゆく。途中何度もプレートを与かろとするが、頑なに渡そうとはしない。コの字型に小さな崖を刳り貫いた休憩スペースがあり、そこに設置された石組みのベンチにErika が座る。横に腰を下ろすように促される。
「よかった、ここ人が居なくて。まだ時間が早いから。ここ、特等席なの。」
遠い水平線に一列に並ぶ漁火のように、小高い稜線に沿って村々が焚き上げている大篝火が点々と夜空に耀い揺れるさまをジュンは見ている。大理石のベンチで横に座るErikaの長い髪が風に戦いでジュンの頬に時折触れる。黄水仙の香りが仄かに流れる。Erikaにその「すずろ」という香水を日本から持ち帰ったのがVon Branchitsch氏であることをジュンは知っている。Erikaのその香りも、その香りのする髪のErikaも、他人の持ちものであることを知っている。
オルカーンの夜、ジュンが掻き抱いた冷たい体は、まるで水死体に命が戻ってゆくように次第に体温を帯び、暖かくなるにつれて黄水仙の甘い蘭麝を纏い、ガタガタと風圧に煽られている窓の隙間から入り込む雨に濡れた山の森の匂いのグリーンノートに包まれていった。「すずろ」などジュンは知らない。知る由もない。知りたくもない。あの夜、ジュンは両神山からのおろしが運んでくる、をくずれから持ち帰って育てていた前庭一面の保田水仙を嗅ぎ取っていた。枯れて死んでしまったと思っていた黄水仙の忘れかけていた香気。ほら、暖かくなってきた。水は冷たかったろう?見えなくても、水仙の匂いでわかるさ?暗くて見えなくなっても、ほら、俺だよ。ここにいるよ。もどってこいよ。ほら。しっかり握れよ。雷鳴が渡る夜、その香りのするところにジュンはいた。繰り返す稲光の中、秩父夜まつりの武甲山の龍が空を渡るようにジュンの今が過去に飛び移っていた。出会いを悔いるつもりもない。出会いが遅すぎたともジュンは思わない。
80億人がこの広大な五大陸に分散してそれぞれの営みをして生きている。種は異なっても、同じヒト科として概ね承知していて、異種同士の交流にも交際にも基本的に制約がない分、出会いという偶然にも無限の組み合わせがある。ニホンザルとゴリラやヒアリとクロオオアリ、ピラニアとヴァンパイアフィッシュという異種が出会えば、交流や交際などもってのほか、命を賭けた殺し合いになる。獣や昆虫や魚に共通の言語は恐らくない。ヒト科にもない点では本来変わらないが、アフリカ大陸のトゥーマイから数えて700万年かけて次第に、過去が楔形文字と亀甲文字であれ、お互いの言語の共通項を何とか探り出し、空腹と痛みの愁訴だけの次元を超え、いずれ喜怒哀楽も超え、今やはるかに高度な意思の疎通ができるようにヒト科は伝達能力を驚異的に高めてきた。それが良いことなのかどうかはわからない。銃を突きつけられて、「話せばわかる」と言ったところで、分かり合えるとは事実限らない。生物同士の殺し合いは共通の言語があったとしても、知る限り、確か尽きることはない。
「随分むつかしいことをおっしゃるのね、突然。」
「いや、申し上げたいのは、そんなことではないのですが・・・」
「じゃあ、何?」
Erikaは腰をずらして二人の間に銀の丸プレートを置き直してから、妙に大仰にその上で見覚えのある薄緑色のボディに黄色のラベルのワインボトルのコルクにオープナーを差し込んで回し始める。コルクが乾いていて、キュルキュルと微かな音がする。セラーで寝かされていない新しいワインだとコルクにまだワインの水分はほとんど浸透していないためかコルクとオープナーの擦れる音がする。確かOttoがワインの「赤ちゃんの産声」と言っていた乾いた音。
Erika はワイングラスを持って立ち上がり、腕を水平にして前に開けた夜景に向けて突き出し、点々と見える篝火の一つ一つをグラスで縫うように繋いでゆくような素振りをしている。ジュンの言葉をことさらに期待している様子はない。確かにニホンザルや700万年前のトゥーマイのことなんかではない。言いたいことは。再会を期して来た。それは叶った。だが、これが最後になるのだろうという胸が圧し潰されるような予感。このリギ山頂の祭りの夜はErika の精一杯の演出なのだろう。出会えてよかった。でも、遅かったと。また一度、せめて会えてよかった。Erika が振り返る。今度は手のグラスをジュンに向けている。しかし、立ち寄ってグラスを合わせて寿ぐことがジュンにはできない。偽りを演じる役者になれと?先生の神鏡が目の前にあれば、その中には、居場所を失くした敗北者の眼をした自分が映るはずだ。座ったまま一応掲げ返したグラスを下ろして、ベンチに置く。ワインに指を突っ込み、あの晩のヘルパーたちとの嵐の前のミニコンサートの時のように、グラスの縁に指を這わせて音を立て始める。ベンチに戻って来たErika が銀のプレートに載っていた小ぶりな直径6㎝程の蝋燭に火をつける。琥珀色の蜂蜜入りの蝋燭で、Domaine Weinflussの紋章が入った確か120周年記念でマダム・フェラーが作らせたものだった。Erika はワインボトルのラベルを焔に照らしてジュンに見せる。
「このワイン、Ottoの新しいPinot grisですね?」
「そう。ホテルに届けてもらっておいたの。」
「Pinot gris Kaysersberg-Quest /1973 / Alsace Grand Cru/ Erika。」
「そうなの。ホントに私の名前にしちゃったのよ、Ottoが。まいったわ。」
仄かな酸味があって、失くした恋への憧れといったところ、と確かOttoがこのワインを電話口で品評していたことを思い出す。詩人でもあるまいし、何を言っているのかと馬鹿にしていたが、よく考えるとジュンはOtto個人のことをよく知らない。さりげなく、そつなく、なんとなくいつもそばにいてくれて、普段はウイットに富んだ道化役のわりに、いざとなると骨太な力強いゲルマン人の芯を見せる。確か若いうちに初婚の相手に逃げられて、今は13歳の息子と二人きりと聞いている。どこでErikaと出会ったのか、どういう成り行きで二人が知り合ったのか、知らされてはいない。コルマールの女房の実家の家業のパン屋を継がず、ソムリエになった。別れた女房は今でも好きだが、それ以上に恋しているワインボトルと結婚しているから生身の女はもう結構だ。知っているか、ワインボトルはドイツ語で女性名詞だからね。そんなことをちらっと話していた。本当はErikaを気にしているんじゃないのかと一度ジュンが鎌をかけた時のことだった。
ジュンを迎えにオルカーンの翌朝戻って来たOttoはさすがに憔悴しきっていた。二階のアパルトマンの寝室にノックもせず入ってきて、ジュンが一人で横になっていたダブルベットの乱れを暫く無言で見つめていた。珍しくにこりともせず、入って来たドアの方をさあ、出るぞ、という合図を首で示して、出発の準備を促された。失くした恋。本当はOttoの思いのたけを詰め込んだPinot grisワインだったのかもしれない。だからこそErikaを収穫に呼んでいたのかもしれない。ErikaのMein Mannへ謙譲の美徳を示しつつもOttoなりの思いを詰めたワインボトル。その美徳を踏みにじったジュンが、今度は別盃にそのワインをErikaと酌み交わすのだろうか。それでもジュンは、あのオルカーンの夜があって良かったとまだ言えるだろうか。ワインに指を浸してまたグラスの縁をなぞり始める。立つ音がこころもち高くる。
「ジュンさん、お飲みにならないの?」
Erikaもまだ口を添えないままのグラスを膝に下ろし、両手で揺らしながら弄んでいる。蝋燭の明かりが仄かにグラスに届いてメリーゴールド色の球体が薄闇に浮いて手品のように揺らめいている。一度麓の方から花火の炸裂音が響く。それを合図に遠近の森の四方八方から一斉に突然花火の爆ぜる音が弾け始めた。湖の対岸に点々としているそれぞれの大篝火の近くから花火が打ち上げられてゆく。くぐもるような遠くから聞こえてくる花火の音。山の真下の方から聞こえる砲声のような間近な音。混在する音。音がするたびに、音のする方をジュンとErikaは目で追ってゆく。隣の尾根向こうの山蔭から半分顔を出して夜空で輝く花火の花輪。Pilatusという山の龍の背のような鋸歯の左端では音もなくオレンジと赤の火の輪が立て続けに打ち上がっている。突然頭上で破裂音と共にHotel Kulmの打ち上げも始まった。割りもの花火の牡丹のような大輪が広がり、二人の姿が照らし出される。雷鳴のような打ち上げ音がする度、ジュンとErikaは真上の夜空に映写される一夜祭を声もなく見上げている。Erikaがジュンの肩に頬をのせる。
「いずれわかることなの・・・。」
「?」
「あの子、きっと龍の子よ。」
「え?」
「ねェ、ジュンさん?」
「?」
「日本って、あっちかな?」
「東の方角だから・・・。」
「あっちから飛んできたのよ。龍が。お祭りの夜。突然。」
「・・・。」
「Mitsoukoはだから私の一生の宝物。あとさきなく、仕合せです、私。」
遠いPilatus山の打ち上げの最後を知らせる無音のスターマイン連続花火の方をジュンは茫然と見守っている。Erikaがグラスを取ってワインを口に含んだまま、ジュンの顔に覆いかぶさり、ジュンの唇を捉えて、ワインを口移しする。
「ならぬものはならぬ。それでいいです。あとさきなく、私が必ずあの子を守ります。」