ゼロポイント・フィールド 未達の恋(小説)

ゼロポイント・フィールド 未達の恋 第九話

第九話

俺はアイスクライミング用のアックス二本と12爪ロックフィルアイゼンを履いて塩湖に面した城壁を慎重にいちいち両足をそろえてから登頂している。踏み外せば一巻の終わり。この湖畔の軟禁先からDanaを救い出す。3歳ぐらいのときからブカレストのBUDO-KANの館長で古流柔術の師範の悪魔のような親父に稽古と偽った虐待で鍛えられた。どうやらDNA鑑定のまだ確立していなかった時代、ひ弱な俺が実子とはまったく認めていなかったらしく、その話を母由真から聞かされて虐待のわけに合点はしたが、俺は親父を許してはいない。実父であれ、誤父であれだ。岡田団次が実の父親でないことを手放しで俺は歓迎する、とガキの頃から骨の髄から思っていた。ブロンドの女の弟子たちに訴えられ、親父は道場をブカレストの地裁に命じられて閉じ、オリンピック柔道強化チームの監督職をクビになって日本に戻っているはず。日本でろくな仕事についていないことは察しが付く。いずれしめしはつける。俺はその後邪魔者としてスイスの体操選手育成のボーディングスクールにほぼ捨て子され、そのおかげで身についた筋力と親父に幼いころから叩きこまれた日本武術の腕前を買われ、卒業後ドイツ高地山岳猟兵小隊(Hochgebirgs-jägerzug)に推薦入隊してじきに10年がたつ。その経験が自信の根底にある。

塔城に吹き付ける湖風は汗を乾かしてくれる程度で問題はない。ただ、風化した城壁のサンドストーンは脆く、アックスを差し込んでもきちんとはめ込めず、氷壁と違って力を籠めるとズルリと砂穴を広げて砕け、ずり落ちてくる。四肢のうち三肢を確実に固めてからでないと次の一手に取り掛かれない。きついのは肩に巻いて担いだザイルの重さだ。猊下に浮かぶ小型モーター付きフィッシングボートは消波用に積みあがっていた岩に繋船し、舳先にザイルを括り付けてある。そのザイルを担ぎながらの登攀が一番しんどいが、筋負担は登るごとに減る。要は、早く登ればよいのだが。それができない。

 右足のアイゼンの蹴り込みが強すぎたのか、却って砂地が崩れてずり落ちる。砂の粉塵がふわりと舞って通過した足元の窓の一つに降りかかってゆく。幸い窓は閉じていた。開いていたら舞い込む砂に気づいて誰かが窓を閉めに来て、俺を見て大騒ぎになるだろう。この中世の搭城は大改築されて今はGallang社の研究機関の宿泊療養施設で、20名近い各国の超富裕層の後期高齢者が中期滞在して同社の麻酔薬のプロカインをベースに硫黄やNaを配合して開発したジェロピタールH3の注入等の老化防止の高額治療を受けている。有名人や政治家がお忍びで逗留している。警護は国家人民警備隊が主翼を担っていて、政府機関並みで、湖側から小型ボートのエンジン・モーターは消して手漕ぎで密かに接壁して登攀するしか方法はない。

 まあ、プログラム通りにのんびりと患者連中は昼食後の決められた睡眠をとっているはずだ。きっと不老不死のための睡眠導入剤でも投下されて。左手のアシックスを壁面に打ち込む。白茶の砂埃が吹いて口に入る。塩の味がする。前歯をこすりあわせるとガリガリと噛み合わせの軋む音が頬骨を伝って聞こえる。生臭いしょっぱさ。唾を音を立てずに吐く。切れが悪く、風に押し返されたその唾が頬に張り付く。この湖の塩はGallang社が石鹼にして全世界に販売している。その石鹸のコマーシャルに同社研究員としてDanaが出ていた。それでようやくDanaの居場所がずっと隠密裏に捜し続けていたDanaの母親のエレーニアの知るところとなったらしい。

エレーニアがドイツ高地山岳猟兵小隊の寮に単身俺を訪ねてきた。Hertz社のレンタカーで乗り付けたエレーニアはスラブ系の中肉の中年の女性で、身長は俺とほぼ同じ175cm前後だった。流行のフード付きの濃紺のロング・モッズコートを一度も脱ごうとはせず、自らの中身を包み隠しているような気配があった。一瞥でただの50代の一般女性ではないことは感じられた。気位と気の強さのシグナルが不思議なターコイズ・ブルーの大きさの少し違う雌雄眼から発せられている。その波長に俺は従うことにした。

「Danaっていう女の子のこと覚えているかしら?」

流暢なドイツ語だった。

「はい。黒猫のタンゴを二人でコンサートで子供の時一緒に歌いました。母がバイオリンで演奏して。ほんの半年ぐらいでしたけど、楽しい時でした。ちょっとしたスターだったんですよ、私たち。Dan & Danaっていう。」

「楽しかった?」

「はい。とっても。猫のひげを私の顔に母が描いて、忍者の格好でDanaの後ろでバク転したら大うけでした!」

「そうだったわね。DanaもDan、Danはどこって、言っていました。」

「Danaが?」

「(微笑む)私がだれかお分かり?」

「(首を振る)いえ。ドイツの方ではないことぐらいしか・・・。」

「そう・・・。それより、もっと大事なこと。Danaの母親です、私。」

「え⁈」

「今の主人と知り合う前の子で、ウルムの友人に預けてありました。その頃のことです、Dan & Danaの黒猫のタンゴの話は。Danaには現政権が追放して没落したロムニイ(Români)公国の血が流れています。私の娘ですが、ずっと若いころ産みました。」

「・・・。」

「この私の瞳をよく見て?色も大きさが違うこともDanaと一緒でしょ?」

 二致もなく確かにDanaの不思議な色をした虹彩で右目の方が大きい。ハンドバックを開けて、中から一枚の写真をエレーニア夫人が取り出してテーブルに置く。

「今のDanaの写真よ?」

 両サイドの編み込みが背中に流されたゴールデンブロンドのロングヘアを柔和に囲っている。東バルト系のふっくらとした頬。末広二重のアーモンド目の輪郭にターコイズ・ブルーの虹彩が奥目がちにカメラを見つめている。不思議な目の色の大きさの少し違う雌雄眼と横幅の短い少し厚めの下唇、母由真と公演旅行中、芝生の上でじゃれ合って不意に交わした初キスの唇はそのまま大きくなっていた。同一人物と特定できたが、7歳だったDanaが着ている白いルーマニア・ブラウスは、縦の赤糸の刺繡ラインがバストの膨らみに押し出されて大きくY字に広がっている。身に纏っているものから性が湧き上がってくる成長した美しい女性になっていた。ただその写真は粒子が粗く、おそらくAgfaビデオの1カットの静止画を切り抜いて引き延ばしたものだった。違和感はあった。持ち歩く実の娘の写真がこれか?

そういえばあのころ公演をマネージしていたバーシェル(Barschel)という背の高いドイツ人の楽器商をDanaはVati(ファーティ・ドイツ語のパパ)と呼んでいたが、Mutti(ムッティ・ドイツ語のママ)はよく知らない、Danのお母さんの由真がMuttiになったらいいのに!と口を尖らせていつも言っていた。きっとそうなる!と。だってDanのお父さんはDV-Teufel(悪魔)できちがいじゃん!それがいいよ!と。

「Dana、ものすごい美人さんになったんですね!こんな素敵な女性に。でも、他に写真ないんですか?会いたいなァ。きっともうご結婚されてるんでしょう?俺が今26だから24歳か・・・.」

「(首を振る)いいえ、まだです。まだ、だと思います。」

「ご存じないのですか?」

「会ってないんです、ずっと・・・。」

「?」

「生まれて1年半とあとは7歳の時、4日間ブタペスト郊外の農園に一緒に居れただけ。Danさんと由真さんのことばかり呼んでいて、大変だった。DanとVatiのとこに帰るって。由真はどこって。そればかり。私が本当のMutti だとか、話せる状態じゃなくてね。もっと落ち着いてからと思っていたら、早々と連れ去られました。その時以来・・・。」

「連れ去られた?」

「(頷く)知らぬ間に・・・。」

「で、母は?」

「由真さんには農園でDanaを引き渡されただけで、そのまま。SPに引きづられて農園を出て行ったきり。申し訳ないけど。その後のことは何も知らないの・・・。」

「・・・。」

「Danさん、あの子に会いたい?」

「是非。私だって、やっぱり同じで、親父がSPみたいな連中と来て、ウルムの公演が中止になって、Danaと母を連れ去っていったとき以来ですよ・・・。公衆の面前でBarschelさんを親父が内股掛けで投げ飛ばして・・・。ひどかった。Danaも泣き叫んでた。俺が助けにホテルから駆け下りたときにはもうリムジンが行ってしまって。倒れているBarschelさんの介抱で精いっぱいだった・・・。追えなかった・・・。Danaを救いたかった・・・。」

「そんなにひどいことを・・・。ごめんなさい。あの時、OKADAを雇ったのは私よ・・・。完全なミスキャスト・・・。裏で現政権とつながっているとは思わなかった。農園から連れ去ってからOKADA達があの子をどこに隠したか、全くわからなくなってしまったの・・・。」

「Danaをどうするつもりだったんです?」

「せめて身近に置きたくなって。テレビであなたたちを観て、あの子を観て、どうしようもなくなったの・・・。」

「ご自分で迎えにくればいいじゃないですか。なんで俺のきちがい親父を使ったんです、よりによって。」

「そうよね。その通り・・・。でも無理だったの。」

「何故?」

「私が現書記長の妻、ロムニイ家を根絶やしにしようとしている張本人の妻だから。」

「え⁈」

「そしてDanaはロムニイ家のカルス2世と若いころの私の間の子です。」

 突然突き付けられた社会俯瞰図には戸惑うしかなかった。ヨーロッパはベルリンの壁を境に二極化している。ゴルバチョフが現れて、その壁が東西で大きく揺れている。両極の融合が可能かどうかを、その社会形態が何か、各国の現政権が既得権や威厳を維持できるのか、何か揺れている。壁を現政権ではなく、東西の民衆が両側からぐらぐらとゆすっている。「こっち来いよ」というサイドが壁に穴をあけ、「あっち行く」というサイドの壁の前に銃口が並ぶ。その銃のトリガーが滅多に引かれなくなった。その世情の中でさらに以前の支配者である各国の王家の立ち位置は、あのウルムの聖堂前広場での拐引事件後、母由真の戻りを信じて疑わなかったBarschel氏に引き取られてドイツ国籍となった日本人の俺に判るはずもなかった。Barschel氏が父母の消えた俺の学費も払ってくれて卒業ができた。その後もずっと一緒に住むことはなかったが、ことあるごとに俺のドイツの父として相談に乗ってもらってきている。

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