第六話
開け放った病室の窓から「黒猫のタンゴ」が聞こえてくる。ラジオだろう。芸人がバックで懐メロの曲をいじって笑いを取ろうとコメントしているがなり声も混ざる。
「この前、ユーチューブでこの曲を掛けると踊り始める黒猫が映ってましたんですわ、それが鼻鉢巻してましてな、どう見ても、タンゴちゃいますねん、ひょっとこ踊りにしか見えへんのですわ。ガニ股でぴょんぴょん跳ねとるだけですねん・・・。ああ、これやこれ。ちょい、ご覧になります?」
「(笑い)ほんまですね。これはタンゴとは・・・」
「ヨーロッパではなんや黒猫が目の前を跳ねて通り過ぎると、縁起がええっちゅうことらしいですしな。」
「へェ、そうなんですか!」
そう。だから、ドイツ語の歌詞もイタリアの原曲も「ボクは黒猫が欲しかった」という題で日本の歌詞と全く違う。場合によって出会いや良い縁を連れてくるかもしれない黒猫のかわりに白猫をくれた噓つきのキミには約束したボクの動物園のワニもインド象もキリンもあげないし、もう遊んでもあげない!という含みのある歌詞。それを俺は知っている。
小声で知らぬ間におもわずein echtes Krokodil, ein echter Alligator, ich habe dir gesagt, dass ich ihn hatte・・・und du solltest mir eine schwarze Katze geben!と口ずさんでいた。全曲をドイツ語ですらすら歌えた。同室のおっさんが怪訝な顔をしてこっちを見つめたあと、顎を俺の方にしゃくって隣の老人に目配せしてみせている。
「この辺も中国人があんじょう増えましたな。」
「むこうでも流行ったんとちゃいますか?」
そう。中国よりももっとむこうのヨーロッパで大ヒットして、日本に伝わった曲。そんなことを病室のこの連中に説明する必要もないが。その旋律に俺の心が揺さぶられている。皆川おさむという少年の歌声にではない。その旋律があのラベンダーピンクの蛇行する空路の下の時間の消えたゼロ・ポイント・イールドから、ひともつれの記憶の量子を掬い上げるようにして俺の意識に浮き上がってくる。物悲しいバイオリン・ソロ。その音色が空路の奥処(おくど)から流れてこんでくる。それが耐え難いほど俺の胸に刺さる。
同室の患者連中と目を合わせることなく、介護ベットを電動で起こし、腋窩支持クラッチを右脇にはめて窓際に向かった。支流雷の電流は松の切れ端の先からアルマーニのTシャツの前開きのジッパーを縦に貫いて、右足に抜けたらしい。包帯を取れば、脛とか足裏に黒紫の斑点が散在しているはず。二度目だから想像はつく。他の患者と違って俺はまだ浴衣型の術前検診衣を着せられていて、下腹部がごわごわとする。紙おむつを履かされている。依紗の顔が浮かぶ。病院は連絡しているのだろうか。来たら紙おむつ姿を見て吹くに決まっている。「で?」とそっちを心配して俺をのぞき込む顔が浮かぶ。ボロボロの焦げたTシャツが半開きのロッカーのハンガーにかかっている。その横を通り過ぎ、こちらを向いて糸口を探すような波長を気配で送ってくるおっさんもガン無視してそそくさと窓辺にゆき、中庭を覗く。西を向く窓からは、遠く最後の夕日が琵琶湖を覗く稜線を影絵のように黒抜きにする様子が望めた。ただ、それを見に窓に寄ったのではない。溢れ出てきた涙を隠すためだった。涙がとめどなく、落涙というより流涙はもう抑えようがなくなっていたからだった。手でぬぐおうとすれば、俺の後ろ背を見つめているに違いない患者連中に気取られてしまう。だから、なんとか堪えようとして瞼を強く閉じる。閉じるたびに瞼がワイパーのように瞳に浮いた涙をこそげ落とす。被雷の電圧が涙腺の栓を溶かしたのかもしれない。もう何年も流したことのない、別格の何か俺の心の芯の大きな硬い塊を溶かすような、透明で熱量を帯びた泪が頬を流れ落ちる。
火灯し時の病院の中庭から一本のドイツトウヒの大木が夕空の瞑色に伸びあがっている。上を向くと涙の中で空に浮く枝の影がゆらゆらと動く。太い枝の樹皮が動いて幹の方にさざ波のように流れ落ちてゆく。母由真(ゆま)のバイオリンが少年の俺と少女Danaが歌い終わった後、もう一度全パートを独奏して演目はいつも終わった。俺はそのシーンと音色を今、鮮明に思い出している。病室の現在が俺の意識ごと時空から刳り抜かれてゆく。ラジオの雑音が消え、グァルネリ・デル・ジェスの音色と細かいプリーツの真っ白なワンショルダードレスの懐かしい母由真の姿が熱い目頭に浮かぶ。もうながいながい年月、俺の記憶の年輪に閉じ込めていた音と一齣の映像が、まるで俺の硬化していた意識の幹に横殴りの斧が振り下ろされたように噴き出してきた。
「いかがですか?お具合は?少しはご記憶が戻られましたかな?」
この病院の俺の主治医の低い声が聞こえて、温かい手が肩にのせられた。記憶?意識ではないのか、戻ったと医者が普通第一に気にするのは?我に返って手が掛けられている右肩の方を振り向くと、俺自身の左掌が載っていた。無意識に自分で肩を触っている。奴が戻ってきたか?頭蓋を左右に振って、また初夏の夕間暮れの息差が寄せてくる開いた窓に向き直り、ドイツトウヒの枝間の向こうに沈む夕日の方を看遣る。稜線が赤く燃えている。
「どうですかな?私が見えていませんか?明日は目も精密検査しますが、今、あなたに見えているものがあったら、話してみていただけますか?」
中庭は暗くなって、ドイツトウヒの樹皮の陰影がほぼ闇に同化しようとしている。それでも樹皮を読もうと木枝をたどって下に目を凝らしてみる。今発語してこの声に応対すると、病室の連中に気が触れたと思われるに違いない。間違いなく今窓辺にいるのは俺一人だろう。声の主はおそらく主治医でもなく、主治医に化けて戻ってきた奴か、湖畔でガキの頃の俺に化けていたタマケシに違いない。不用意に声を出してこいつに答えてはいけない。ぶつぶつと奴一人で何かつぶやいているぞ?ナースステーションに連絡した方がいいかもよ?となるに決まっている。
口を緘して闇に沈もうとしている大樹を見つめれば見つめるほど、樹皮が縦に割けて何本かの筋が蛇の腹鱗のように太い幹を土に向かって螺旋を描いて流れ落ちてゆく。あの雪の日の松のトピアリーの樹皮のように、触れればきっと生暖かいのだろう。
「あなたには今、いつも見えないものが見えているはずです。いや、何も無理に声に出される必要はありません。私には聞こえますから。」
「だれだ、お前・・・?」
「主治医の古澤ですが?」
「化けてんじゃねェよ!もうだいたい察しはついてる。」
「ま、よろしいでしょう、私のことなど。あなたを心配しているだけですから。」
「心配⁈雷まで落としやがって、ふざけんな!」
「大変な災難でした。ですが、稲妻が現実のあなたを突き抜けて、そっちのあなたから一兆分の一のピコ秒の超高速演算能力であなたを支配している未達のタマシイの情報が無限の量子の沼から照らし出されて届いたのかもしれませんよ?スーパーラディアンスという超放射があの沼から現実のあなたが知らずにきたあなたの細胞骨格の情報を認識できるようにしてくれたのかもしれないですから!」
「・・・?」
「不幸中の幸い、と申し上げているだけです。」
「お前、俺をなめてんのか⁈」
思わず俺は実声をあげてわめいてしまった。
「ま、よろしいでしょう。何かあったらすぐにナースコールのブザーを押してください。あなたを心配しているだけですからね?一つだけ申し上げておきます。あなたは一人ではありません。そっちのあなたはあなたのすべてや今のあなたになるまでのすべての細胞の情報を記録しています。現実のこっちのあなたは、その記録の一部を記憶しているだけです。数百億個に過ぎないあなたの頭の中のニューロン(神経細胞)は必要がないと思った記録を記憶から消してしまいますからね。消してしまった記録の中に、置き忘れた大切なものがあり、あなたの居場所がそこだとすると、私たちにはあなたを救うことはできません。生体量子学的には。だから、置き忘れたあなたのタマシイをもう一度照らすあの雷は必要だったのです。」
「俺を救う?雷が必要⁈ふざけんじゃねェ!失せろ、バカ野郎!」
「救うという言い方は確かに違うのかもしれませんね。」
抑えが利かなくなってきた。俺の横に立つその主治医は、あの時、母と少女Danaを数名の南方系のヨーロッパ人を率いて連行していった若いころの親父が眼鏡をかけ白衣を着用しているように見えてきた。
「てめえ、だから悪趣味だって言ってんだろ‼」
「量子化というのが正しいんでしょうな・・・。」
「一体、あの二人をどこに連れて行ったんだ、あん時よ‼思い出してきたぞ!」
「だんだん、なにか見えてこられたようですね。その調子です。」
「気取った口、きいてんじゃねェぞ、この野郎!」
主治医の鎌首の襟を掴んで押し倒そうとしたが、主治医の体は重圧のある樹の幹のようでまるで動かなかった。
「岡田さん。あなたがいたのか、いなかったのかは、あなたの意識を消せば普通、あなたの命も1と0に分解して簡単に量子化して時間のないゼロ・ポイント・フィールドにろ過できる。あなたがいた、というニュートラルな情報として砂のように量子の沼に落とし込めるのですがね。あなたはどうもまだ、1.4で、その余分な0.4をどうするのか、どうされたいのかご自分で決めていただけないと・・・。」
「何ごちゃごちゃ言ってんだ、この野郎!命⁈そうか!タマケシ!俺を殺しに来たんだ?上等上等!いつでも構わないぜ!やれよ、今!お前のダチの奴にも言った通り、どうせ俺には思い残すこともやり残したこともとっくにねェ!」
「私はあなたに症状のご説明をしているだけなんですが・・・。それに、思い残すことがおありでない?それはどうでしょうか?未来に関しては彼の仕事ですが、過去は私の仕事。とにかく過去の0.4の端数を何とかしていただかないと・・・。」
「さっきっから、何だその、カコの0.4⁈」
「ヒトが勝手に心拍と太陽をベースに考案したヒトの命の時間軸のなかであなたが負った未達のタマシイですよ。このままではヒトの科学が想定している10の120乗の宇宙をめぐっている1と0に中和還元できる量子の螺旋の円環の外側であなたの端数の0.4が宇宙の異物として永遠に浮遊することになる・・・。」
「つべこべ御託並べてねェで、もういいから、一思いにやれよ!早いとこ、消してくれ!」
「いや、それができないから困っているんですよ。タマシイは意識するから生まれて、命を加熱する異物。普通、熱が冷めれば意識もしなくなって、記憶、もっと冷めれば記録にすぎなくなる。目標のないタマシイは、熱しやすく冷めやすい。意識していたタマシイも冷えてしまえば消しやすい。ですから、1と0のゼロポイント・フィールドにたやすく落とし込める。あなたには何やら消しにくいタマシイが残っている。割り切れない、遂げられない異物がグツグツしていて、このままでは、あなたをまた彼に戻すしかないかもしれませんな・・・。」
「うるせーよ!お前がやらねェなら、俺がお前をぶっ殺してやるまでよ!」
看護師が3人で暴れる俺を必死に取り押さえている。
「古澤先生、ここは僕たちで大丈夫ですから!いらっしゃってください!」
「岡田さん、どうしたっていうの?落ち着いて!」
「先生、すぐに精神科病棟5階に岡田さんの個室の手配をお願します・・・!」
主治医古澤はどうやら俺が振り回していた腋窩支持クラッチを床から拾い上げ、羽交い絞めにされている俺に差し出してきた。
「せっかく光量子を被雷して過去が見えるようになったんですから、あなたが意識しているタマシイをどうするのか、あなたが整理してください。一人部屋で、落ち着いて、ゆっくり窓から庭や湖をご覧いただきながら、昔のことを思い出してみてください。」
何がこの数分で起きたのか。時間など、この病室の時間の波動など、俺が意識しなければ、ない。なかったこと。ただこいつらの看護日誌レポートに記録されるだけ。こいつらの時間の記録。俺の記憶には刻まれないだろう。奴が俺の中からはみ出て暴れたのなら俺なりに俺ではないと言い切れるのだが。どうも奴ではない。奴は戻って来てはいない。奴なしで俺が暴れた?何をここでこいつらに話したところで、わかってもらえはしない。説明すること自体が徒労。無駄。こいつが俺の親父の姿に化けた「タマケシ」だと言ったとして。
主治医古澤が同室の患者たちの方を振り返って後ろに手を組みながら静かに独り言のように話しかけている。
「雷というのは、打たれた人のリビドーを照らして明らかにするのかもしれませんな・・・。分野が違うので私にはわかりませんが。まあ、わかりました。この方は、別病棟にお移り戴くことにしますので、皆さん、ご安心ください。」
同室の患者たちが古澤にベットの上からお辞儀をしている。3名の看護師に引きづられて俺は別棟の5階の精神科の個室に連行される。そうなるか。そう来るか、やはり。ウルムの時と同じだ。俺の記憶から時間の実体が抜け落ちると、医者の疑念は当たり前のように外傷から内傷に向かう。わかってくれる人間などいるはずもない。ただ、急に無性に依紗が恋しくなった。何かあると、いつも
「バッカじゃないの?」
そう言って依紗はあとは笑っている。何も聞いてこない。
「何も聞かないのか?」
と尋ねたことがある。
「説明できるの?」
確かにかなり難しい。
「いや・・・。」
「でしょ?」
5階の個室に移されて、窓辺に立ち、窓を開けようとするが、ヒンジのついた滑り出しサッシで一般病棟のように全開にはできない。鉄格子がはめ込まれている。外は雷雨後の湿気が蒸す夜になっていた。病室の無機質に明るいLEDを消す。ドイツトウヒの大樹が薄い靄を纏って点在する外灯の暈の間でボトルグリーンの枝の影を広げている。先刻の呪文のような変態はない。見下ろすと人影が樹蔭から一歩前進して、庭園灯の中に立ち現れる。依紗が立っていた。手を振っている。俺の部屋が分かっているらしい。右腕を上に伸ばして、腰から上半身全体を左右に大きくゆっくりと揺らしながら手を振ってきている。
それが幻影であることは俺にもわかっていた。依紗が仮に来院していたとして、そんな思わせぶりなことは一切する女ではないことを知っている。ただ、俺はそれが幻影だと知りながら、鉄格子を握りながら泣いた。バイオリンの黒猫のタンゴの旋律が耳の端で響いている。

ロコ記入欄 あなたのロコを教えてください