第十一話
「Danaを救い出してください。」
エレーニアはGallang社のパンフレットと同社の黒海沿いの私有地で研究所兼療養施設のある場所に印をつけた地図、そしてVHSのビデオをテーブルに出して立ち上がり、戸口に誰もいないことを確かめてからまた座りなおした。
「一切民間人の立ち入りできない施設で、ここの不老不死の研究は国家プロジェクトなの。あの人、書記長のことだけど、不老不死は本気よ。信じているもの。Danaはどうやらこの療養棟の城塔の一番上のナースステーションの下のこの階、ナースや研究員の寮らしいけど、この窓の部屋にいるらしいわ。これ。従業員名簿のD. Barschel / Room No. 602は間違いなくDanaよ。」
湖畔の絶壁の上の古城塔で、湖から絶壁を登攀するのはわけはないが、城塔の土台が湖側にいびつに突き出していて、そこは垂直チムニーを打ち込んで、担いだザイルごと懸垂移動を一か所強いられる。打ち込む音でバレかねない。60mのスタティックザイルをDanaの分も必要なのでダブルで担ぐとなると装備品全部でどう割愛しても30㎏は超えるが、ほぼ全部を置いて降りるべきだろう。それでも背負って括り付けるDanaの体重を知らないが、降りるときの負荷は倍近くになる。三本は打ち込む必要があるが、その音でバレかねない。凍結したアルプスでの救出とは違って手指は自由だが、落ちれば命はない。同僚もいない。ただ、あの時救えなかったDanaを救出できるのなら、あの時の無常な虚しさを、その後ずっと続く喪失感をこれで払しょくできるのなら、やってもかまわない。抱えてきたこの敗北感、喪失感がドイツ高地山岳猟兵小隊の10年の任務遂行で確かに少しづつ小さくはなってきているが、しばらくするとまた俺を支配し始める。だから敢えて次の危険度の高い要請があれば誰よりも早く挙手してきた。親父が連れ去ったDanaと母由真。あのDanaを救えるなら、爾来、憎み上げてきたあの親父と戦うつもりで、やるしかない。そう考えれば猶更望むところだ。
待てよ?Danaは俺だとわかるだろうか?そもそも脱出の必然性を理解するだろうか?Dana本人に施設を抜け出すよう言えばいいだけなのではないか?
「手紙なんか無理です。まちがいなく検閲されています。届きません。届いたところで、Danaは私が母ということも、父親が誰かも知りませんし。」
「話さなかったんですか?」
「あの子が生まれてから、今の主人と知り合いました。ロムニイ家の農園や居城を襲撃する人民軍の先頭に立っていました。カルス2世は事故で亡くなりました。あれは事故ではありません。その真相を確かめるため私から近づいたんです。ただ、わかってきたのは逆に王家の以前の横暴と搾取に近い経済対策でした。共産党で秘書として党務に携わるうちにあのころのあの人の国政へのひたむきさに惹かれました。王政の終わりが世界の正しい潮流だと受け入れるようになりました・・・。」
VHSビデオをカセットに入れて俺は施設のコマーシャルを観始めた。国家事業と言っていたが、確かにまるで大手薬品メーカーの研究所と五つ星ホテルが融合した施設だった。各国の以前の元首の写真と有名なスターたちの写真がグループ分けされず、ラボの天井に近い壁に一列に羅列掲出されているのは奇妙だった。皆アンチエイジング治療を受けたに違いない。エレーニアの弁明がましいDana以降の話は半身で聞いていた。
「私には、すみませんが、その辺のことはわかりません。それよりDanaをどうされたいんですか?なぜこの研究所から救出する必要があるんです?」
「国家機密のプロジェクトだから、研究員は特待待遇ですが、施設を勝手に離れることは許可されません。全員、各地の孤児院から優秀な子供たちを選別して医療関係者として施設内で教育カリキュラムを施し、マインドコントロールしているはず。Danaも自分が軟禁されているなどと思ってもいないでしょう。」
「孤児院?」
「(頷く)ナタリスト、出生奨励主義の結果養いきれないので捨て子が増えたから。あの人、人口が増えれば労働力が増えて産業の規模も拡大するって信じてた。飢饉も重なって国の債務も拡大して、孤児院はもういっぱい。院内の虐待もひどいもの。自分が両親のない孤児だと思っているDanaがそこを抜け出せたわけで、今の生活を悪いと思ってはいない。」
「だったらいいじゃないですか?」
エレーニアが激しく顔を横に振り、俺の腕を強く両手でつかんだ。
「Barschelがあの時のSPの一人を見つけ出して、言ってしまったらしいの。彼もずっと由真とDanaをあれから探していて、どこかの孤児院にDanaはOKADAが放り込んだって聞いて、Danaが自分の子ではなく、青い血を引く直系の子だぞって・・・。」
「あなたの子だって言ってしまった?」
「いえ、それはない。」
「だったら、バレていないわけで問題ないじゃないですか。」
エレーニアは今度は俺の両頬を両手で強く挟んで、話の核心がつかみ切れていない俺の眼を射る様にのぞき込んできた。
「いいこと?よく聞いて。いまさら母親面(ずら)をする気は毛頭ないわ。私を責める気持ちは十分わかります。何もあの子にしてあげていない。でもあの子には命の危険が迫っているの。もうあの人の政権は末期状態。ベルリンの壁ももうすぐにでも崩れるわ。群衆がパリの二月革命の時と同じように、私たちの宮殿に押し寄せてくるのが見えるわ。群衆がそのとき象徴として復古するのはあの人が追いやったロムニイ王家の末裔が手っ取り早いでしょ?だから今また以前にも増して根絶やしにしようと必死。痕跡があれば事故死を装って殺害している。セクリターテの長官にあの人が指示しているのを知っているんです。ロムニイの血は抹消しておけ、と。」
エレーニアの涙目をしばらくじっと俺は見つめている。トルコ石の緑よりずっと青い色の中央に浮かぶ瞳孔。ビー玉を並べて、どの色が近いかDanaの左右の瞳の横に掲げて遊んだことを思いだす。選んだビー玉の色もDanaの目の色も少しの光の加減で変わった。その同じ雌雄眼の左右を交互に俺は見つめてみる。エレーニアの涙を湛えた瞳も見つめる俺の視線の焦点の少しの移動で青味が変わる。Danaはこの本当の母親を知らない。
「お願いできるわね?」
俺は頷く。エレーニアはバックから小さなティッシュにくるまれた包みを取り出して俺に手渡した。開くと小さな封蝋用の約2cm四方の正方形のシーリングスタンプだった。小さな十字を4つ四方に組み合わせた先端のついた王冠が柄のつまみになっている。そのスタンプで赤い蝋の封蝋が施されたはがきサイズの封書を俺の上着の胸ポットに差し込んできた。
「カルス2世の王家の蝋印です。狙われていることを知らせに行ったときに預かったものです。一緒に逃げるつもりでした。でも彼が目先はDanaを在野の誰かに預けて、私が党政の情報を流すこと、自分に仮に何かあったらそれをDanaに引き継ぐようにと。」
シーリングスタンプの刻印溝に少し残る赤い蝋を指で取り除いて、俺はティッシュに包み直して胸ポケットに落とし込んだ。この任務への気持ちは固まった。
「ウルムにBarschelに密かに譲渡した土地があります。その住所も書いてあります。楽器の倉庫がわりに使っているはずです。敷地にはBarschel の友人の司祭のギリシャ正教のカペレも意図して建ててあります。そうしておけば共産党が最初に捜すことはないでしょう?そこへDanaを預けて。」
「今年はまだ連絡がないんですけど、私のドイツの父は?」
「逃げています。楽器の輸送といってトラックで我が国の武器をイランに密輸しているとか、ありえない嫌疑をかけられています。」
「え?そんなわけないじゃないですか!」
「常套手段です。もう、時間がない。Barschelもきっとそこに戻るでしょうから。まず、Danaのことをお願い!薬品だらけのラボで何を飲まされるか分かったもんじゃないわ!」
「でも私のBarschel父さんが捕まって、ずっと書記長を背任していたことを話したらエレ-ニアさんもやばいことに・・・。」
「私のことはもうどうでもいいの。仮にあの人が私を殺したいのならそれで。あの子が生きていてくれれば、それだけで私はいい。今はもうあの人は自分の失策で自分が失墜することばかり恐れていて、党を発てたころとは別人。膨大なこのところの民衆のアンチのTSUNAMIに勝てる気はしません。押し寄せてきたら、私はあの人の逃亡を助け、けがをしたら手当をします。最後まで。そしてあの人が死ぬときは、一人にしません。もちろん一緒に死にます。妻としての務め。覚悟はもうできています。でもDanaが生きてくれるなら、私の母としての務めも果たせます。Danaの血が王政復古に繋がるか、そうでないかは、私たちのあとの時代が決めることです。Danaが決めること。お分かり?今の民衆の困窮と怒りはあの人が作ってしまったこと。今更蒸し返したように、王家の責任だなど、でっちあげです。Danaがその犠牲になることがあってはなりません・・・・。」
モッズコートのフードを深々と被りなおして、まるで息子を訪ねてきた母親然としてエレーニアは寮を出ていき、車に乗る前に見送っている俺の窓に深々と頭を下げて去った。もう二度と会えない。そう感じた。

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