ゼロポイント・フィールド 未達の恋(小説)

ゼロポイント・フィールド 未達の恋 第十三話

第十三話

島脱出後、ずっと俺のあとをついてきた依紗と結婚した。依紗も親を知らず、里親からネグレクトされ、お互いにロコ(居場所・よすが・よりどころ)・ロスで、岡田団次配下の復讐を畏れて日本をいったん離れてドイツやスイスも含め四方八方に移住したが、似た者同士の巣作りは身軽で助かった。幸せな家族生活を知らない、夫婦とはこうあるべきという理想の概念が一切ない依紗だから、一向に定着しない、失敗続きの俺の仕事に口をはさむことは一度もなかった。人生はそんなものだと思っているらしい。「もう、あかん。やめて、夜逃げしなきゃかもだぞ・・・。」と俺が嘆いている端で、早速まさに夜逃げの段ボールを依紗は物凄い手際で纏めていた。

Danaのことや母由真のことを思う深いこころの痛みで依紗を見たことがなかった。ようするに家出少女の後見人が、なりゆきで籍を入れたというよくある話で、愛とか恋とかという胸熱くなる切ない距離など全くない展開。依紗はとにかくいつでもそばにいた。もう来年50になるはずだが、一緒に歩けば実の娘扱いの若いころ、街でしょっちゅうナンパされて得意になって話すほどタヌキ顔の童顔とつぶらな瞳、いろんな色のメッシュをなびかせていた。映画の端役のオーディションも時々通るぐらいのルックスだった。で、どこへでも行け、と言っているのに、どこにも行こうとしない。記憶の飛んでいる期間のドイツ時代の俺に他に青い目の女房がいないことを現地で調べ上げてから、娘役を返上して勝手に潜り込んできた。俺から求めたことは一度もない。勝手に乗って来る。

つぶさに依紗にDana救出劇を思い出したまま伝えているうちに、依紗を乗せて手漕ぎ船を漕いでいるときの記憶も同時に並行して蘇り始めた。両方の救出劇はたった4か月のインターバルで28の俺が実行したわけで、ルーマニアと志摩の移動距離を省けば、当時の俺にはDanaの救出の記憶はなかったとして、時間は消失していたが、時間で消えない魂がオーバーラップしていたかもしれない。全く同じ勢いと熱量で虎口を逃れていた気がする。できない、などとは一切感じない猛烈な力に押されて。

いつもきれいに染めている黒髪の旋毛周辺に数本、1ミリ程度の白髪が伸びてきている。依紗が18の時、メッシュやヘアカラーを止めていた時、一本長い白髪を抜いて俺のせいだと大騒ぎをしていた。好きにさせていたが、面倒見が足りないからだと似合わぬ暗い顔で白髪を指でぶら下げてぽそっと言っているのが聴こえた。俺は確かに7歳の子供のDanaをずっと意識していたかもしれない。Danaがどんな娘になったか、こんなかもな、という女と付き合っていたかもしれない。要は日本の女にあまり関心がなかった。

「何?どうしたの?初めて会うみたいな顔して。」

「いや・・・。一緒になって何年になるかなってな。」

「35年!結婚して30年!」

「うわァー、そんなになるか・・・。」

「まだ一緒に居たりない?でしょ?だから、もう雷なんか呼ばないでよ。」

「二度あることは三度あるっていうよな・・・。」

「もう厭!だから、ホラ、樹にお礼して!」

「だからこの松、別にご神木じゃないから。」

「樹ってね、全部土ン中でつながっていて、会話してんだって知ってた?」

「聞こえるのかね?」

「全部あたしたちに聞こえたら、うるさいじゃん。寝られないよ?」

「そうだな。」

「団はエボエ。」

「?」

「今ね、この松の樹触ってたら、思い出したの。エボエって木はね、雷浴びても死なないで、まとわりつく虫や獣や蔓とか苔をわざと雷呼んで浴びて殺しちゃう木らしいの。でも自分は全然大丈夫なんだって。」

「そんな木があるんだ?」

「雷の度に団はツゴーの悪いこと全部忘れるもんね!。でも、死なない!」

「違うだろ、話した通り、今度は思い出したって。」

「じゃ、やっぱり三度目浴びたら?」

「冗談じゃねェ。」

「三本締めで、Danaのこと忘れてよ。」

「それより、三度目の正直で今度は死ぬかもな。」

「だいじょうぶ。エボエは死なない。」

「俺は運がない。エボエでもいろんな奴がいるだろうし。当たり!って、なるかもよ?」

「団、いくつだっけ今?」

「え?64・・・。来年から初期高齢者。」

「64-49は?」

「15。」

「違います。ゼロ。」

「まだ引き算もできない。」

「それはね、団が死んだら、あたしも一緒にすぐ死ぬから。」

「そういう女に限って長生きするんだよ。一緒に死ぬ?今話したエレーニアの真似か?いや、違うか。エレーニアは亭主を愛してたわけじゃなくて、なりゆきだしな。」

「エレーニアのこと、むっちゃ、わかるわ・・・。」

「はい?どうわかるの?」

「好きだったに決まってんじゃん。愛してたに決まってんじゃん。弱くなったって、ヒトに嫌われたって、見る影なくなればなくなるほど、自分だけはそばにいてあげたいものなの。愛してるからに決まってんじゃん。だれがなりゆきで好きでもないひとと死ぬかって!好きだったからに決まってんじゃん。見捨ててどーすんの⁉大好きな人がいなくなったら、そこでおしまいなの。エレーニアだって、自分の居場所なんてもうないの。自分で死なないで一緒に殺されるんなら、そっちがましだったの!」

ふと応答に詰まった。依紗との出会いがなりゆきでなく、必然だったのかもしれないと気づかされた。時間の消えたゼロポイント・フィールドで交差した俺と依紗の命の光の軸。無限のかつての命たちの量子情報が砂のように浮遊するゼロポイント・フィールドから光の軸で掬い上げたお互いの軸の量子が引き付け合う。

母由真の命はすでに時間が削除され、意識も粉々に乾燥し、魂の熱量も冷えて、乾いた砂のような「かつていた」という量子情報となっている。UPE(超微弱光子)というほのかな俺の光子の光では、もう探しきれない。もう母の嘆きも悲しみも乾いて熱はとうの昔に消えている。ゼロポイント・フィールドの中の塵。

Danaはゼロポイントフィールドの上、俺と同じ時間の中にいるはずだが、この時間の中での接点がない。Danaがその後俺を探していないことは明らかになった。同じ時間の中で俺はDanaにいない。もう救出劇から36年間がたつ。

黒猫のタンゴの頃の切ない記憶は、フラッシュバックにすぎず、俺のロコ(居場所・よすが・よりどころ)にはなり得ない。ロコとは現在の時間の中での居場所。時間の消えたゼロポイントフィールドにはない。かつて命だったものではなく、いまのもの。いま命ある、魂の熱量のあるもの。依紗の熱量を感じる。俺は身寄りなく、もう若くない依紗のたった一つのロコなのだとわかる。老いの入り口で、ロコと思われることは妙に自信となる。たった一人でも。

「この人かな?」

依紗が器用に左手で操作してiPhoneを俺に手渡す。ルーマニアに先祖を持つイギリスのチャールズ国王と並んで貴婦人が映っている。白いつば広の帽子の網ベールの奥の大きさの少し違う雌雄眼。末広二重のアーモンド目の輪郭にターコイズ・ブルーの虹彩が奥目がちにカメラを見つめている。横幅の短い少し厚めの下唇。母由真と公演旅行中、芝生の上でじゃれ合って不意に交わした初キスの唇。

「綺麗な方ね。素敵。」

「わかんないよ。こんなおばさんになったら、わかんないよ。」

「きっとこの方よ。こんな偉い人。団が助けたからなんだよ?やっぱ、すごいよ。団って。」

俺は何も言わず、iPhoneを返す。山岳救助隊で何人か現役の有名人を助けたこともある。極難所でも俺は向かった。救助の先に常に7歳のこのDanaと若い母・由真が見えた。しゃにむになれたのはそのためだった。本人たちはもう救えない。その代価だった。未達の魂を追っていたわけだ。だから任務遂行しても喪失感は消えなかった。母は救えなかった。でもDanaは救えた。俺の使命はそこで完結している。終わったこと。

樹皮に添えた依紗の左掌に俺の右掌を重ねる。夏の喜雨が重ねた手の甲を伝う。依紗がiPhoneをトートバックに落とす。

「この雷で全部思い出せたから、もうDanaのことは話さないよ。親父のかたはついてんだし、縁はとうの昔に切れてる。それがわかったから。」

「そう!よかったァ!この前の雷にも感謝しなくっちゃ!ほら、もっとぎゅって押してお礼しなよ!」

 依紗が右掌を俺の手の上に添えて力を込めてくる。

「なんで、雷に・・・。」

「あの雷が団のエボエからDanaを撃ち落としたのよ!あのね、これであたしは躊躇なく団のエボエに登っていけるわ!」

 依紗が掌を急に外して俺の背に飛び乗ってきた。若いころはしょっちゅう飛び乗ってきた。何十年ぶりだろう。初老夫婦にあるまじき光景。幸い雨で人影はない。思ったより依紗は軽かった。左腕に刺さった36年前の麻酔銃のこと。覚えていなかったから医者に説明できなかったが、記憶が戻って、他の筋肉より細るのも力が入らないのも、その後遺症かもしれない。ふと気が付く。俺の左腕は依紗の脚を今しっかりと抱えている。

いつの間にか雨は上がって、雲の切れ目から日差しが射しこんでレンブラント光筋が下の街や森を照らしている。トランクを引きづって依紗が先に立ってとことこ意気揚々と石段をおりてゆく。鼻歌を歌いながら。初めは黒猫のタンゴだったように聞こえたが、すぐに別の曲に替わった。後を追う。後ろを振り返って、松の木を見る。陽の軸が射しこみ、光の量子が樹頭に群がって、雨滴が滴る針葉樹の葉先が無数に輝いている。木陰に人が立っている。唐輪髷(からわまげ)に頭巾を被った深緋(こきひ)の桃山小袖、打掛に紋絽織の羽衣を羽織った女がこちらを見ている。

「そなた様の本懐をのみ、まこととなされよ。」

と言って遺髪をそっちの俺に託した女。母由真と同じ墓に眠る女。同じような境遇だったように思う。母は命の光の軸にゼロポイントフィールドから同じような量子を掬い取ってしまったのかもしれない。おそらく、そっちの俺の母・千早も。そんな不幸な情報ばかりを引き付ける磁力をその光の軸先は帯びているに違いない。世の中では、運がいいとか悪いとか、そんな言い方で納得されてしまうが。命が無情になくなることを、本人は何を最期の支えとして受け入れるのだろうか。意識を失う直前の魂は何だったのだろうか。タマケシが最期に喰った魂は何だったのだろうか。

Danaの救出は成功した。迫る命の危険から救い出せた。だが、18年ぶりに再会できたDanaを決死の覚悟で、俺の持つ力のすべてを賭して担ぎ出せたのは人に頼まれたからではない。Danaのルーマニア公国のロムニー家の青い血の温存のためなどでもない。そんなことは出会った子供の時、知りもしなかったこと。哀惜の思い、俺の長年の未達の魂、置き忘れてきた大切なものはそんな副次的で複雑なことではない。忘れ得ぬ子供の頃の母とDan&Danaとしての演奏旅行の宝物のような記憶。その演目の音色を声音を情景を、その半年の輝きを凌駕する出来事はその後の俺にはなかった。俺の至高の半年を、或るなりゆきが、無残に破壊した。当時無力で非力な自分には護ることどころか抗うこともできなかった。母もDanaも目の前で失った。その自責の念だけで、すでに喪失してしまった二人を心の中では追い求めながら、目標もなく虚しいまま機械的に身体を痛めつけるように鍛錬してきた。強くなっても時空は戻れず、Danaを拉致から救うことなどかなわないことは知りながら。結果確かにドイツ高地山岳猟兵小隊で人命を救った。感謝された。刹那の達成感は得た。だが、それは俺の未達の魂を少しも減らすことはなかった。

誤父・岡田団次への積年の恨みはあの晩に果たせたが、やはり気持ちは晴れなかった。俺の本懐ではなかった。あれは力対力の関係の解消で、俺が俺に科してきた使命の終達に他ならない。相手が偶然社会悪だっただけの話で、高邁な正義など俺にはなかった。母・由真をあの男との不幸ななりゆきの呪縛から解放することが本来の目的だった。だから、哀惜の思い、こころの塊はもやもやと未達のまま俺の中に丸々残ったままだった。結局、死んでしまった母も戻らない。

まばたきをしてもう一度木陰を見る。女は消え、俺の子供の顔をした男の子が立っている。タマケシなら思念伝達で話せるはずだ。だが、何も聞こえてこない。ただ突っ立って、こちらを見ている。静かに左手をあげて、指を差してきた。俺を指しているわけではない。指の先を追って振り返ると、タマケシは城塁段の先をおりてゆく依紗の背中に人差し指を向けていた。冗談じゃない!と咄嗟に俺はタマケシの指差しを遮ろうと両手を広げて自分が的になる位置に横跳びをする。タマケシと見合う。腕を下ろして小さくうなずいたあと、タマケシは、また「じゃあね」という風に軽く手を挙げて、後ろを向いた。黄色い通学帽とランドセルを背負った小さな男の子が松の樹の裏側にトコトコと下りて歩いて行くのが見える。黄色い傘を木の下に置き忘れていた。

城址公園の下の方からトランクが石にこすれる音がする。かなり下まで依紗は降りていて姿は見えなくなっていた。急いで後を追う。

「Wahrscheinlich der Kleine. Er hat den Regenschirm vergessen・・・(さっきの子、傘忘れて行っちゃったみたいで・・・。)」

傘をたたみ直しながら、白衣の背の高い医者が俺の後ろについてきた。振り返るとウルムの病院の主治医だ。

「岡田さん、あれから私も雷について色々調べてみたんですよ。少しご披露しても?」

 奴だ。奴が戻ってきている。

「好きにしろよ。」

「ご心配かも知れませんが、あの男の子はとりあえず岡田さんを諦めたようです。雷で混線したいくつもの魂がこれでとりあえず因数分解できて、一つにまとまったって言ってました。寿命まで医者の私がまたお世話をしてよいと。」

「お前のどこが医者だよ・・・。」

「医者です。この通り。さっきから、ここのような城跡で石垣だけ観光して帰るのではなく、非常時の避難先ならば、井戸を掘って例えば春殿からもらった薬草の種の類をここに撒いて薬樹園にしたらどうか、Gallang社のような製薬会社の研究所とか、天守閣の代わりに病院を誘致して建てたら、とか思われてますよね?ホレ、目下、薬樹園開墾・開設を具体的に模索している医科薬科大学や自治体、医薬品メーカー中堅のリストです。あのね、でも病院はまずダメ。どこも巨額の赤字経営で余裕なんかまったくない。医薬品業界も薬価をトランプにいじられれば直撃だろうから、厚生省から医薬品安定供給支援補助金が下りる可能性のあるところでないと。」

「この初老の俺に焚きつけたってやる気なんかねェよ、今更!」

「あのですね、我々医者は、患者さんがあきらめたらいる意味がないんですよ?ご存じだと思いますし、以前も申し上げましたが、あなたはなーんもあきらめてない。人間はまず諦められない。だからこそ、私たちが居るんですよ。」

「何が医者だ。お前は悪魔、疫病神。どーせ失敗させて俺が嘆き悲しむ悔し涙を喰いたいだけだろうが!」

「あのですね、申し訳ないですが、失敗しているのはあなたです。それに悔し涙を食べなければ、魂を傾けていたことをあきらめるにせよ、つづけるにせよ、次がなくなり、ふぬけのあなたをタマケシ様に明け渡すしかなくなるでしょう?あなたは記憶すらされない記録の砂にされてしまいますよ?」

「だから前から言ってるように、いつ死んでも構わねェって、タマケシを呼べって言ってんじゃねェか!」

「(笑う)さっきまで会ってましたよね?タマケシ様も忙しいんですよ。魂に力があると、タマケシ様はお諦めになるんですよ。」

「64の俺の魂にちから?」

「(頷く)」

「城跡に薬樹園のことか?」

「そんなことではありません。あなたがどんな事業をして生計を立てるかなど医者の私にはどれでもいいこと。カネはあなたがたヒト科の酸素ですからね。まあ仕事もロコの一つにはなるかもしれませんが、それがまたあなたのロコなら、今までのように失敗すれば無残に泣くことになりますけどね。事業に失敗するなんて、よくある小さなことなんですけどね。中学生が第一志望を落ちて世も末になるのと同じ程度のことなんですけどね。ロコが小さい。」

「ロコねェ・・・。」

「ラテン語をお忘れかな?in loco。居場所、よすがとかよりどころのことです。ただ、最上位のロコは愛するかたのことでしょうな。医者としての処方箋ですが?」

 奴はそう言って、ずっと先の方から振り返ってみている依紗の方を見遣った。

「主治医としてできることは処置しました。以前黒海で受けた左腕の悪種は除去しておきました。変異株で対応に苦慮していましたが。これは命を助けたシャッフハウゼンの松のトピアリーからのお礼です。そして先日の二度目の雷も。」

「ふざけすぎだろ!雷を落としておいて礼⁉」

「記憶が戻ったじゃないですか?それにあの雷はレッドスプライトという雷雲のずっと上の宇宙からの放電で起きた貴重な光です。生命が必要なのに空気中から吸えない窒素を光にのせて地球に照射される太古からの命のもとの光です。ですからあなたは死なずに、記憶を取り戻せたのですよ?」

「何を言ってるかわからん。」

「説明しましょう。太古の雷からすべての命が生まれたそうです。地球を時間で割ると円錐台形の巨大な立体になるそうです。レッドスプライトがその円錐台形の丸天井面に垂直に光を大気圏から底辺面に照射する。円錐台そのものは三層で上段が魂・中段が意識、中段の底辺がゼロポイントフィールドになっていて、その下から時間は消えます。その最下段は記録の砂が無限に広がって宙を漂う層。この砂は無数の命から時間を抜いて乾いて砕けた情報の量子。円芯に近い真上から照射された極細の光の筋がヒト科の命の一本の軸。ヒトの光の軸は魂の層を通過し、魂を意識する意識の層を突き抜け、意識の層の底辺のゼロポイントを射し抜けて、時間の消えた広大なフィールドに到達するそうです。光の軸の先に命の光UPE(超微弱光子)が生まれる。魂を意識できるヒトの命はゼロポイントフィールドの無限の無機質の量子の中から魂の熱量のもととなる記録や情報を光の軸に張り付けてゆく。もともとは微発光の軸の表面で燃えるような夢や目標や憎悪や怨念が発火して、ヒトの魂を沸き立たせると細かった光は輝くらしいです。よかれあしかれ。」

「ますますわからねェよ・・・。もういいから、消えろ。依紗のとこに行く。」

「(頷く)それでいいです。いや、それがいいです。」

「?」

「あなたのロコですから。」

 そう言い残して奴は素直に消えた。そして確かに古傷の左腕が快癒した気もする。

立ち止まって依紗が待っている。近寄って来る俺を時々チラ見で確認しながら携帯を覗いている。東京に戻るのぞみの予約でもしているのだろう。相変わらず、俺が何をしていたのかなどと訊いてこない。そういえば依紗に近づけばいつも現在が待っている。俺が最初の被雷以前のそっちの俺のいるかなり遠くから依紗のいる現在に戻る。ずいぶん長い間、その繰り返しだった。俺が戻っても何も尋ねてはこない。さっきまで一緒だったでしょ?といういつも変わらぬ対応。関心がないのか、知っているのか。俺は左手でトランクを引きづって依紗と並んで城址を抜ける。記憶が戻り、俺のなかに一本の時間が通り、その時間が一体どれぐらいなのか知りたくなる。

「お前、まだアラフィフだっけ?」

「モロフィフよ!しょうがないでしょ、毎年新しい年は来るんだし!だから、ゴキと戦う主婦役しかこないの!」

春殿のころから、Danaのころから、いやタヌキのころから、この依紗の量子を知っている気がする。永い永い戦いを終えて、今琵琶湖を渡る風を眺めている気がしてきた。もうどこにも戻る必要がない。そう思えることが清々しかった。

被雷でそっちの俺やこの俺の若いころの悲恋を知った。切迫したこころの塊が何だったかも明らかにできた。あの迂曲するラベンダーピンクの空路の一番手前の泉には、俺の命の光の軸が射しこんでいて、恋の記録が溶け込んでいる。時間の極限である現在の時間、その泉に依紗が佇んでいる。泉に踏み入ると、母由真のバイオリンの音色が聴こえ、春殿がキバナノレンリソウの群生から覗いている姿が見え、子供のDanaの歌声が聞こえ、救命胴着を装着した時に触れた大人になったDanaの胸の膨らみを感じる。あの入園式の女の子が軽くバイバイを返してくる。懐かしい想いに包まれる。俺の命の軸がロコを探し当て、ゼロポイントフィールドを掻きまわすことを止めたようだ。

ヒトは一体死ぬのだろうか?肉体の37兆個の細胞の命と総数不明のヒトバイオフォーム(真正細菌、古細菌、真菌、ウイルス)の命が死滅するかゼロポイントフィールドに漂流する。脳が腐敗しニューロンの意識も消える。俺が俺を意識できなくなる。だが魂はもともと生と死を分ける「時間」とは無縁で、あのタマケシが時間を消しても、未達の魂は消しこむことはできない。命の光の軸がその魂を照らし込めば、熱を得てまた引き継がれてゆく。99%無理でも、残りの1%に熱量を注いでゆく。その魂が膨れてゆく。光の量子が軸に群れてゆく。そうしてヒト科の禁じ得ない恋は太古から続いてきている。あのラベンダーピンクの蛇行する浮き路のはるか先から続いている。消えることはない。

14の頃から、寝付けないと俺の左腕を首に巻き付けて依紗は寝入る。その延長線上で性愛を愉しんできたが、このごろはとんとない。細くなってしまった俺の左腕を恥じて腕を渡さないと獣の声で唸る。

「こんな腕じゃ、細くて軽くて安心できないだろう?」

「団の腕の匂いだもん。」

「お前、いくつだよ。」

すぐにピクピクとジャーキングが来て、依紗は寝入った。ゴーカイな鼾が始まった。記憶喪失と回復がなければ、依紗は普通の女房にすぎなかった。が、雷のおかげで、依紗が依紗一人でないことを知った。錯綜と絡み合った俺の魂の情報を経て、必然として依紗がいることを知った。必死に勝ち取った唯一のロコであることを知った。そっと左腕を外す。前腕に   依紗の首の体温が伝播して熱い。さすっていると、暗闇の中でほのかに微光を放っている。

(了)

ロコ記入欄 あなたのロコを教えてください