第十二話
幸い打ち付ける波が荒く、ハーケンの打ち込みの音はほとんど掻き消される。下降時の為予めダブルで打ち込んでゆく。風はビューフォート4(和風)ぐらいで、垂れたザイルが下で弧を描いて揺れる程度で支障はない。
日々のドイツ高地山岳猟兵小隊の救急出動に追われて、なかなかGallang社のある黒海まで現調に来る時間を作れなかったこともあるが、あまりに自分と次元の違うエレーニアとDanaの話に実感がついてこないことが逡巡の理由だった。今までなかった東独からアルプス越えで越境してくる難民の遭難が散見してきた。家財道具を引き摺ってきたが諦めて投げ捨てられた荷台が別の登山者を直撃。仲間内の笑い話に世相が映る。エレーニアの言っていたことが本当になってきている。
あの親父がDanaと母を誘拐して、依頼した実母のエレーニアも裏切ってDanaを葬り去った。ダブル課金して両サイドから道場経営の足しに金を詐取したに違いない。BUDO-KAN出身のSPは何人かいる。ウルムに来た連中の一人に見覚えはあった。しかし、きっとさすがにDanaを殺すことはできなかったのだろう。分けもわからず7歳のDanaがボーディングスクールの俺よりもつらい青春時代を孤児院で過ごしたことを思うと親父への憎しみが膨れあがった。暇があれば黒海にゆき、綿密に現調を繰り返した。一年半ほどが過ぎて決行の決断をした。
Danaを背負って、垂直懸垂で渡る約2mは軽石のような土台にどんなに深く打ち込んでもまず負荷に耐えないだろう。ハーケンがはじけ飛び、突出部からザイルが垂直に海に垂れ下がる状態で我々は宙吊りになり、風に揺れることになる。最悪この状態で脱出が見つかったとして、このスタティック・クライミングロープはそんじょそこらのナイフや包丁では切れないし、燃えない。相手がチェーンソーを探しに行っている間に、なんとか海面近くまで急下降して飛び込む。おそらく気を失って救命胴着で浮き上がってくるDanaの肩口にできればさらに水を飲みこまないように救命浮環を何とか膨らませて押し込む。意識を失ったままの入水は溺死の可能性が確か高い。そしてバックフェリーのDanaを俺がアグレッシブでヤマハのフィッシングボートまで泳ぎついたら俺がまずDanaの縄をもったまま乗船してから持ち上げる。ここがまず山岳の俺には見識も経験もない。登攀しながらイメージトレーニングを練り直すが、無謀に近い。このままでは、俺はDanaを殺しに来たことになる。
思考がまとまらないまま、旧城塔壁部は終わり、そこから上は硬質レンガ壁にかわり、もうDanaの窓の下に届いてしまった。下の階の出窓の狭い屋根を足場にして身をかがめ、俺はまだ妙案が浮かばず、加えてどうやって自分が暴漢でもテロリストでもなく、岡田団であることを18年後のDanaに18年後の俺は、Danaがアラームを鳴らす前に恙なく知らしめるのかも健全なプランを立てずに上ってきてしまった。まず現場直行。あとは無線で状況報告と物資依頼。だが今回は一人であることを深く考えずにいた。クロロホルムを即嗅がせるしかないか。まるで強盗だ。窓は20cm格子状のガラス窓で、望遠鏡で現調している段階では二重に見えたが、幸い一枚ガラスで、ガラスカッターと吸盤で造作なく刳り貫けるだろう。
Danaの窓が頭上で突然開く。俺は半身にかがんで壁に張り付いて上を見上げている。しばらくするとDanaの歌声が聞こえてきた。不幸にも監禁されている若い女の悲壮感などまったくない、明るい歌声でNENA(ネーナ)の99 Luftballons (99個の気球・1983ヒット曲)を歌っている。今でも歌が好きなままなのだろう。大人のDanaの声を知らないが、声の主がDanaであることはすぐ察しがついた。流暢なドイツ語であること。99「Neunundneunzig-ノインウント・ノインツィヒ」の発音が「ノインチック」になまっていること。シュべービッシュ(Schwäwisch)訛りが抜けてない。子供のころ俺はよく馬鹿にした。親父は西ドイツのボンの道場の主管職を得て最初渡独して、5年後ブタペストに移った関係上、俺の方がHochdeutsch (標準ドイツ語)でDanaのドイツ語はなまっていた。「ツィック」じゃない、「ツィヒ」だよ!思わず俺は鼻笑いしてしまった。と同時に完全に気が抜けて、どうしたわけか、ドイツ語で「黒猫のタンゴ」を歌い始めてしまった。それもかなり大きな声で。もうやけくそだった。いざとなれば、一人で城壁を蹴ってザイル跳ねして湖に逃げればいい。
窓が全開となり、Danaがガバっと身を乗り出し、真下の俺を見下ろしてきた。
「え⁈誰?え⁈あの、ひょっとして、嘘⁉まさかあなたDan⁈」
俺が頷く。ハーケンのザイルを伸ばし、そっくりかえって壁面に立つ姿勢を保ち、敬礼をする。
「正解!」
「何してんの⁈落ちるわよ!」
「確かに。」
「ほんとに、Dan⁈」
「黒猫の忍者Dan。見ての通り、正真正銘のそうそういない日本人の忍者」
「で、何やってんの!」
「お昼休みだと思って、会いに来ました。」
「馬鹿、警備に撃たれるわよ‼」
「それ、イヤだな・・・。せっかく会えたのに・・・。」
「Dan、悪い人?」
あの頃、会う大人会う大人をいちいち良い人と悪い人と言って二人で当てっこをしていた。あのおねーさんは「良い人」、あのおじさんはきっと「悪い人」。
「(首を横に振る)良い人!」
「ほんとね?じゃ、早くとにかく入って!」
少しイエローの入った白衣をDanaは纏っていた。セミロングのゴールデンブロンドの髪は後ろでラフなシニオンでまとめている。バングは眉の高さで揃えてサイドだけ長めに流している。柔和な頬の曲線に沿って長めのほつれ髪が開いた窓の風に微かに揺れる。あのころと同じターコイズ・ブルーの眼が俺をじっと見つめている。不思議な色の眼。あの雌雄眼のまま。何度か自然と交わしたキス。その度にドキドキした。オトナの真似。7歳だったDanaが召されたかのように眩しい女性として俺の前に立っている。時間が消え、その極限の今の現実。身長は160㎝ぐらいか。
看護用の白シューズは素足で履いている。その素の様がまたかわいい。写真のDanaの倍は輝いて見えた。張りきった腕の筋肉をほぐしながら、上がっている息を落ち着かせる。安心させるため、なるべくDanaの素足や胸元ではなく、Danaの顔だけ見ようと努めてはいたが、どうしても俺の目線がうろつくのがわかる。こんな綺麗な女性になって・・・。びっくりだな・・・。その俺の気配をDanaが気取らないわけはない。が、Danaはそのうえで再会した俺にどう?私Danaよ?驚いた?とうろうろしている俺の視線の量子を追うように掬い上げてくる。慌てて俺はDanaの雌雄眼に目を戻す。
「お久しぶり。でも、これ、ものすごくリスキーよ。冗談にならない。ここ、国家の機密施設なのよ?ただで済まないことになる・・・。」
「冗談で来てない。」
しばらく床にへたり込んでいたが、俺は立ち上がって、ザイルを窓枠に3重に回しつけてからナットヒッチ結びで固定する。
「逃げる準備をしなきゃ。俺がDanaを固定しておぶって海に降りるから。」
「逃げる?なんで?いったい何事よ?」
「DanaのMuttiからの指令。」
「私にMuttiはいない。ほんとのVatiだって誰かまだ知らない。DanのDVパパに孤児院に入れられたのよ⁈」
俺は床にまた腰を下してDanaをしばらく上目遣いで凝視したあと、Danaも前に座るよう手招きしてから平身低頭の姿勢で床に頭をつけた。そして、エレーニアから預かった蝋印と手紙を差し出した。開封して手紙を読むうちに、Danaは何度も顔を小刻みに横に振っている。それが合意なのか、納得なのか、信じられないという反応なのかはわからなかった。
「ここは書記長直轄の施設。仮に現政権のセクリターテに毒殺されなかったとして、政権はもう風前の灯で、いつ民衆がこの施設を襲撃してくるかもわからない状況だって、ぜんぜん知らないんでしょ?きっとDanaは検閲されて体裁のいいニュースしか見れてないんじゃないの?」
「政権が危ないの?」
「もうこのところいろんなところで暴動が起きてるんだよ⁉エレーニアさんとは最近はもう連絡が取れてない。最後の連絡では宮殿の地下シェルターにいるって。でも宮殿に行ってもすごい群衆で、近づけやしない。そんなことも知らないんでしょ⁈」
「だからって、私に全く関係ないじゃない!」
「Danaの知りたがってたほんとのおかあさんだよ⁈」
「だってどっかの農園でほんの数日あっただけだもん、そんなこと今、ロムニイの王家がどうのこうの言われたって。」
「そのどうのこうので殺されかけてるんだってば!」
「知らないわよ。私が知ってるのはDanのお母さんのYumaとBarschel-Vatiだけ!でも誰も孤児院に迎えに来てはくれなかった・・・。」
「で、俺の母さんはどこ?あれからどこへ行ったか知らないの?」
「知らない。DanのDVパパと日本に帰ったんじゃないの?」
「そうか、やっぱり・・・。」
「あれから会ってないの?」
「全然。音沙汰なし。俺はもうOkadaじゃなくて、Dan Barschel。Barschel父さんの養子になったんだ。Danaと兄妹ってことかな。ずっと面倒見てくれてたらしい。学校も出してくれたらしいんだ。事情があってあんまり実はそのへんのことしらないんだけど。」
「そう・・・(深いため息)。じゃあ、あの時と変わってないわね。二人ともホントの親がわからない。」
「(頷く)。」
「そんなロムニイ家のシーリングスタンプ、持って帰って。要らない。それがなければ私はただのDana Barschelよ。Barschelさんの娘のままで結構よ!何だったら今窓から海に捨てて!」
「俺はとっときゃいいと思うな。王家の血とか俺にも関係ないけど、そういうことじゃなくて、エレーニアさんの母親としての大切な記録じゃん。今、命がかかってる。何かのなりゆきでDanaのホントのお父さんを殺したかもしれない書記長の奥さんだけど。そのなりゆきのままこのままひょっとしたら死んでしまうかも。でも、娘は守った、って信じて死んでゆきたいのかも。俺は、誰よりかわいそうだと思う。そして誰より強くて、悲しいと思う。本当にこのまま死んじゃったらだけど・・・。あのさ、Danaとまったくおんなじ目をしてるんだ。その目でお願いされたんだ。どうしたって、Danaがここにいていいことはこれからなにひとつない!それに、Barschel父さんが大変なんだ。変な疑い掛けられて逃げてる。手紙に書いてある住所に一緒に行ってよ!Danaだって七つまでVatiだったわけじゃん!俺たちの育ての親、一緒に助けようよ!!お母さんだって救い出して、ゆっくり話を聞こうよ!」
ジーンズ姿に着替えたDanaにライフベストを着させて背負い、ビニール袋にエレーニアの手紙と蝋印を入れ、ジーンズの下腹に有無を言わさず押し込んだ。ロープで首に回したDanaの両手を縛り、おぶったあと両足を脇の裏から俺の腹の前でクロスした状態で固定してチェストハーネスにカラビラを掛け、下に垂れたスタティックロープを引いて城壁を垂直降下した。Danaは気絶しなかった。しがみついてくれたおかげで、力点が浮いてかなり助かった。途中、支点のサンドストーンをもぎってハーケンが数本海に落ちて行ったが、窓枠の縛りは万全で、垂直懸垂に移る難所の手前で浮き輪を膨らませ、Danaの首に巻いた。俺の分は海に落としてしまった。Danaが黙って外して俺の首に浮き輪を嵌め替えようとしたので、俺は初めてDanaに怒鳴った。これは俺のプロとしての仕事で、言うことを聞け!死にたいのか⁉頭上で昼休憩の終わりを告げる敷地内の教会の鐘が15回鳴り響いた。午後3時。しばらくすると上で窓が激しく開けられる音がした。女たちのドイツ語の叫び声が響く。Danaはドイツ語圏の療養者階に勤務しているのだろう。すべて聞き取れる。
「Wo bist Du , Dana? Dana?(ダナ、どこなの?ダナ?)」
「Was ist denn das? War heute welche Reparatur angesagt? (なにこれ?今日なんか工事の予定あったっけ?)」
「Um Gottes Willen!Da ist was absolut faul!! (何てこと!これ絶対変よ!!)
「Meldet sofort bei Zentrale an!! (警備室にすぐ連絡しなさい!!)」
俺たちはちょうど岩に突き出した石垣の真下にぶら下がっていた。どうやら上から幸い姿は見えていない。ただ、時間はない。ザイルを切られたら湖面に叩きつけられる。俺はまだしもDanaは首の骨を折るだろう。石垣底に潜っての垂直懸垂は諦め、そのままザイルを滑らせてゆく。風と振動に揺れて振り子のようにぶらぶらと揺れ動く。これを止めることはできない。
「Schau, daunten hängen jemand! Sie ist es! Ist eine nicht die Dana!? (見て!下に何人かぶらさがってるじゃない!彼女よ!一人はあれダナじゃない⁉)」
海面まで4、5mまでのところでザイルが引っ掛かってほどけない。このまま二人で落下する方が早いか。位置的にはボートまで遠くないところに落ちるだろう。何とかなる。ところがDanaの手足の結び目がカチカチに固くなっている。アーミーナイフを取り出してやっと腹でクロスしたDanaの両足の結び目と両手首に遊びを持たせて渡して固定してあったロープを切り終えたその瞬間、上から銃声が二発プシュン、プシュンと聞こえた。どうやら一発が俺の左腕に命中した。ガス銃の音か?実弾ではない。Danaを殺すつもりがないということだろう。注射筒が俺の肘下の腕とう骨筋に浅く刺さって、シリコン栓が矢底にまで戻らず、途中で俺の左腕の皮膚を抉って止まっている。注射筒をすぐにむしり抜いて海に投げ捨てる。麻酔銃だ。ミスショットでも麻痺が来るだろう。
「Dan!」
「大丈夫、大丈夫。落ち着いて。口がきけるうちに説明する。一緒に海に落ちる。浮き輪は絶対に手放すな。ライフベストで必ず浮く。俺がボートまで行って、すぐにボートで回収に戻るから信じて待て!必ず行く。ヤマハのボートは大丈夫、ものすごく速い。どこか目立たないところでDanaを降ろす。俺はボートでまたもっと先に行く。追手を巻く。その間、すぐに逃げて、手紙のウルムの住所に一人で行って。そこで待ち合わせよう!Barschel-Vatiも絶対来るからね!」
二艘のボートの音が執拗に耳の端でする。ヤマハを接岸してから俺はわざと陸に上がらず岸から離れた湖畔の葦の群生の中の水の中に沈んでいる。水の中に隠れて、忍者さながらザイルの入っていたシリンダー状のPVCの筒を水面に出して呼吸している。左腕が麻痺してきたが、水の冷たさが幸いしたのか、まだ眠気は来なかった。
ボートが去るのを待って、葦原を抜け、湖岸沿いに仰向けのイカ泳ぎで現場から離れた湖岸の小ぶりな漁港に何とか漂着した。係留してあるボートの一番古そうな、放置されていた一艘によじ登り、 そのまま気を失った。
どれぐらい寝ていたのかわからない。揺り動かされて目覚めると漁師たちに囲まれていた。
「おい、うすぎたねーコリア野郎!出て行け!」
「それともベトナメーゼか⁈」
「どっちでも構わねェが、乞食するんなら、さっさと国へ帰るんだな!」
追い立てられるままその場を去り、ベルトに縫い込んでいた濡れた5000レイ紙幣で偽札と疑われながらもやっと町の古着屋で着替えることができた。通報する気配があったが、雨も激しく降ってきたので着ていた登山服一式をただでやり、一番高価な傘を買ってやったら店の主人も万障古着屋としては無詮索のスタンスに戻り、難なきを得て立ち去れた。とはいえ、俺は足早に駅へ向かい、西ドイツのウルムを目指して列車に飛び乗った。
国境の街シレトの駅のレストランで、大音量でテレビががなっていた。世の中はアドベント初週入り当日で、クリスマスツリーが構内に飾られているにもかかわらず、敬虔な空気はまったくなく、テレビのボリュームに象徴されるワサワサ感が満ちていた。共産国のクリスマスか。と思いながらミティティ(ひき肉料理)とサルマーレ(ロールキャベツ)で腹を満たそうとしていた。テレビ画面を見遣り、くぎ付けになる。ベルリンの壁が解体用鉄球でぶち壊され、東西ドイツ人が抱き合い、ブランデンブルク門を人が覆い尽くしている。そして、次のニュースで、ブカレストの宮殿を軍隊が包囲して、群衆が取り巻いている映像が流れた。あの奥に、エレーニアがいる。サルマーレのあと半分がどうしても食べられなかった。のどを通らない。スプーンを握る掌の震えが止まらない。俺は皿を放置して、いたたまれず、ウルムを通る列車の出発まで小一時間はあるのに、プラットフォームに向かった。
ウルム駅に到着すると町は雪雲のニンバスに覆われて真っ暗で、構外に出ると下層にモコモコと蠢いて膨れる滅紫の雲が現れ、雷雨となった。タクシーは出払っていた。渡されたBarschel氏の倉庫の住所はドナウ川を南下した5kmほどの郊外の森の中らしく、とにかくタクシーを探さなければと、以前、暇そうにしてタクシーがたむろしているのを見たことのある大聖堂の広場に向かった。邪魔ではあるが高級傘を差して、トランクを引きながら小走りで広場を横切っているその最中、俺は第一回目の雷を浴び、それまでのこの経緯をすべて忘れてしまった。
まだ滑らかに言葉が出てこない。消えていた記憶を脳の底辺から引っぺがすように、言葉自体もそれこそ脳の860億のニューロンの2.5ペタバイトの記憶容量からマイニングする作業はまだかなり延滞している。映像の方が早い。依紗に見せたほうが早いだろうが、言葉に置き換える必要がある。あの主治医の研究に意味はあるかもしれない。まだるっこしいが、依紗は松の樹肌に右掌を置いたまま、俺のDana救出劇を黙って聞いてくれている。

ロコ記入欄 あなたのロコを教えてください