マダム・フェラーのワイナリーはGand CruのSchlossbergのRieslingが1978年のパリ農業コンクール(Concours General Agricole de Paris)で賞を取ったことで脚光を浴びた。Ottoが以前から出来高払いで納入していた同じKaysersberg村のホテルのレストランが初めてミシュランガイドに掲載されて、同レストランのワインリストでは以前から白ワインとしては極上ものとして扱われていたことも一翼を担ったに違いない。受賞で財政が若干潤ったことをきっかけに、ワイナリーに、年齢制限をつけてどうせならと若いワーカーを募集した。応募者にひとり親が多く、必要に迫られて、例のオルカーンの年に浸水してストックには使用できなくなった貯蔵用の一棟を託児所兼保育所に建て替えていた。
育て上げた息子たち二人ともアメリカに渡り、長男は銀行に勤め、次男は俳優を目指していて、クリスマスの頃しかワイナリーに戻らない。もともと子供好きで、寂しがり屋のマダム・フェラーは進んで児童指導員気取りで園長の役を引き受けていた。妹が幼稚園教諭の資格を持っていて、いずれはどこか近隣にKinder-gartenを開園したいと以前は言っていたが、ワイナリーの運営にマダムから引きづり込まれてしまい、棚上げされた夢のまま立ち消えしていた。渡りに船、自然と妹もいつしかプチ・マダムと子供たちから呼ばれるようになり、ワイナリー周辺は徐に子供の笑い声で活気づき、今は、ワーカー以外の近隣のシングル・マザーやシングル・ファザーの子供たちも与かるようになっていた。
この数年、日本からジュンと息子のさとしがDomaineに毎年夏休みに逗留に来るようになり、合わせてErikaと娘のMitsoukoも頻繁に遊びに来るようになって、夏には近隣の子供たちが中庭や葡萄畑を駆け回るようになっている。常時フランス語やドイツ語や日本語が館内外に甲高く響くようになった。本来夏休暇シーズンはDomaineも、村も出払って森閑としていたはずだが、シングルのママとパパたちが噂を聞きつけて、子供をDomaineに預け落して、付き合っている恋人と自分たちだけでマジョルカに飛んで行ったり、南フランスにヴァカンスに行くようになった。一度断り切れず、マダム・フェラーが二件の子供たちの投宿を二週間づつ引き受けてしまったことを切っ掛けに、Domaineの敷地を囲んでいた箍が外れて、親の箍が外れて自由になった近隣の子供たちとエトランジェの日本人の子供二人、さとしとMitsoukoたちの格好の遊び場となっていた。マダム・フェラーが入り口の重い扉の低い位置に別途鉄製のドアノックを取り付けたのは、葡萄畑の近くの畝間や小川を囲む灌木の叢に四散している俄か国際親善児童少年少女団に食事の合図をするためだった。
Erikaが来ている時は、子供たちはMitsoukoと一緒にErikaに纏わりついて、本来だだっ広い間取りの厨房が子供たちですっかり手狭になる。全員が裸足になって足を洗った後、今か今かと足踏みをしながらErikaを見上げている。
「Spaghettis japonais !」
「ジャポネ・スパゲッティ!」
子供たちのおねだり。掛け声がだんだん収斂して、一つにまとまる。
「Spaghettis ‼」
「Japonais ‼」
Erikaが直径1メートルはある巨大な生地をジュンと二人で四苦八苦しながら、床に敷いたベニヤ板の上に下ろし、小麦粉をたっぷり振りかける。その上に白いシーツを被せる。今か今かと固唾を呑んで待機している裸足の子供たちの方を向いてErikaが額の汗を拭いながら声をかける。
「Un, deux, trois, Los(いいわよ) !」
子供たちが一斉に生地の上に飛び乗る。ツウィストを踊る子、膝を曲げて飛び跳ねる子、足でぺたぺたこねる子。敷いてある大判のベニヤ板の縁が浮き上がり、床に押し付けられる度に風圧で小麦粉が四方に吹き上がる。生地が十分広がると真ん中にErikaが入り、子供たちと手を繋いで高い声で会津磐梯山を歌い始める。
「スッチョイ、スッチョイ、スッチョイ、Na‼」
Erikaがうどんを作るのはもう何回目になるか。この数年で子供たちはこのニッポンの民謡の掛け声をすっかりマスターしてしまった。焼うどんか冷やしうどんが定番メニューで、マダム・フェラーと
Mitsoukoの好物の出汁の効いた羹はまったく地元の子には受けなかった。Kaysersbergという山合の僻村の風景の中で、舞い上がるうどん粉の靄に塗れながら笑い声に包まれているErikaはOttoに呼ばれて初めて来た頃のマダムVon Branchitschとは全く別人だった。
アトリエから呼ばれてうどん粉ねの手伝いに下りてきたジュンにマダム・フェラーが呟き掛ける。
「サウンド・オブ・ミュージックのアルザス版よね、これ。笑える。」
「雪のかわりに、うどん粉ですね。」
「みんな、足きちんと洗ってた?」
「さあ・・・。」
「でしょ?」
「(笑う)煮るから、まァ問題ないですよ。」
「UDONって日本でもこうして作るの?」
「Erikaのふるさとの会津ではどうもそうらしいですね。」
「この人目のないDomaineでだけだもの、Erikaがカザフ人から日本人に戻れるのは・・・。本当に楽しそう。」
「・・・。」
マダム・フェラーにこの映像を止めるつもりはない。この賑やかで仕合せな真夏の昼の夢がいつまでも続くことを祈っている。もう今年で6年目になる。生まれたMitsoukoを連れてErikaはすぐにDomaineを訪れてきた。なぜErikaが来たのか、Mitsoukoを見たその初見でマダム・フェラーは直感している。渡されて抱き上げたその赤ん坊の肌に西洋人の息吹がなく、全く異なるとても柔和で華奢なニュアンスと違和感をすぐに感取した。何かが違う。まだ目を開けていない赤ん坊だったMitsoukoから、出産を二度経験しているマダム・フェラーの母の本能がストレートに感じ取る何か。今腕の中に抱えている、全ての助けと庇護を求めてあらん限りの力で腕にしがみついて来る児を自分の頬と胸にどんなに押し付けても足りない愛おしさ。それに変わりはないが、その児の由来が自分の種でないことをマダム・フェラーの母性は実はすぐに統覚していた。
MitsoukoをErikaの胸に戻した時、マダム・フェラーはErikaの目を捉えて敢えてじっと見つめ続けてみた。同じ母として。同じ女性として。知っておくことはある?そうなのね、やっぱり?だとしたら、どうするつもりなの、これから?探りを入れようとしたとき、Erikaはマダム・フェラーを例の鵝眼で直視したまま一言きっぱりと言い放った。
「Was es nicht darf, darf nicht sein.(ならぬものはならぬ。)」
確かErrikaの日本のふるさとの十ある格言のうちの一つで、それはErikaのお気に入りの口癖だった。「Sie ist ohnehin meine Tochter.(まちがいなく、私の娘です。)」
それが判ればもうそれでいいの。あなたの子ね。わかった。おめでとう。
「Na klar! (もちろんよ)。 Und wie heisst sie?(で、名前は?)」
「Mitsouko。十の子という日本語の名前を当てるつもり。」
「Zehn Kinder(十人の子供たち)⁈」
「そう。十人分大切なの。」
ErikaがVon Branchitsch氏をDomaineに連れてくることは一度もなかった。Von Branchitsch氏との出会いや経緯を語ることも一切なかった。氏がこのところマスコミに追及されていることは事情通には知られていた。
持ち株会社Fがダイムラーの株式を銀行に買い取らせた際の莫大な利益が非課税扱いにされたことが糾弾されていた。バックボーンに西ドイツの与野党の首脳陣が居て、主体的に便宜を図った関与と多額な収賄の疑いも取り沙汰されていた。F社と買い取り先の銀行は、首都ボンのあるRheinland Westfalen州周辺のインフラ整備や社会福祉・慈善事業者への巨額な寄付がその課税相当額に等しいと主張していた。その寄付の一部が英国領バージン諸島B.V.I.の様々な登録法人から履行されていたが、それら法人の代表者名簿にVon Branchitsch氏の名前も記載されていた。
寄付金の送金は一度、資金経路や所有者情報の開示義務のないスイス銀行機密保持法下のスイスの個人銀行のナンバーアカウントにプールされてから、ワンクッションを置いて、それぞれのB.V.I.の登録法人名がreferenceとして付記されて実行されていた。同氏の名前以外にそのそれぞれの送金の原資がF社からの寄付であることの確たる裏付けはなく、捜査は各国間の租税債務法・移転価格税制や外為法等のレギュレーションの違いが障壁となって座礁に乗り上げていた。
ダイムラー社の海外の新設工場への出資または融資総額が水増しされ、差額がヴァージン諸島の法人に還流していた疑念も浮上した。寄付の原資自体がタックスヘブンを巧妙に利用した脱税行為により捻出されたものだと承知したうえで寄付の受諾をした場合、そのインフラ整備事業のシ団や慈善事業者のみならず、仲介や斡旋に関わった西ドイツの政財界のトップの引責は免れない。大きな規模の社会問題へと発展しつつあった。
そのキーパーソンの一人として、Von Branchitsch氏の名が時折紙面に現出していた。それもあって、敢えてDomaineの誰もがErikaに同氏のことを尋ねることはなかった。他国フランスの僻村のKaysersbergがあずかり知らぬことでもあった。
Erikaとジュン、MitsoukoとさとしはDomaineでは一つの家族として夏の休暇を満喫している。ErikaとMitsoukoはたまにボンに帰るが、夏の間はこの数年まるで避暑の逗留客のようにしてジュンとさとしのアトリエ兼アパルトマンに寝泊まりしている。何の不自然もない、日本からの画家一家の夏のバカンスの再来。村人たちや使用人たちはいつのまにかErikaをマダムMoriyaと呼ぶようになっていた。違う、とマダム・フェラーは訂正もしない。Erika本人も、ジュンも、子供たちも。ただ、Mitsoukoだけが時折ErikaをマダムMoriyaと呼ぶ人の方を怪訝そうな目でじっと見つめることがたまにあるだけだった。マダム・フェラーはこの楽園が続くことを祈っている。四季のうち一季節の夏だけでも、おそらくErikaの大切な全てがこのDomaineに集まっている。当初は見かけることのなかったErikaの生娘のように上気した頬。もはや刻印を感じさせない一筋の曇りもない解放された明るい額を露わにして中庭でジュンたちと遊ぶ様子を遠目にすると、これが失楽園にならないことを心からマダム・フェラーは願うばかりだった。きっと日々、色々な因縁尽を抱えているに違いないErikaにとっては唯一の寄す処。ここが。ここの今だけが。
同じ女として、心に掛けたものが決まった時の覚悟が決して変わらないことをマダム・フェラーは知っている。それは全く善悪が関係のない、損得の計算もない、純粋に何を守ることに決めたかということ。そう決まるとまず余程のことがないかぎりその覚悟は翻らない。自分の愛を何に掛けるか。その「何」が見つかるまで、迷う。その「何」が見つからないと不幸で、そうした人生も多々あるが、見つかれば迷いはない。それはある意味、自分を捨て、自分の存在がその「何」にすっかり移ってしまうほどの比重の移動となる。「何」の仕合せを、「何」そのもの以上に望むぐらいの重心移動。そんな愛情をマダム・フェラーも知っている。このDomaineで二人の息子を育てあげた。今は他界してはいるが世の認める父がいて母のいる説明を要しない普通の環境で二人とも守り育てあげた。その環境でも守ることは楽ではなかった。おそらく、Mitsoukoを守るErika の覚悟は二致なきものに違いないことがマダム・フェラーにはわかる。
6歳になったMitsoukoは、誰が見てもハーフではない。そして切れ長の目はErikaのDNAではない。ジュンが日本から持ってきた着物を着て、今年のKaysersberg城址での収穫祭の出し物としてジュンが準備している日本の薪小能の舞いの練習をさとしとしているMitsoukoは明らかに普通の日本の女の子で、写真で見たことのある京人形そのもの。偽りのきかない事実が歴然とMitsoukoの成長と同時に露呈されてゆく。この母子を取り巻く好奇の目は、きっとドイツ人からもアジア人からも容赦なく注がれているにちがいない。パパVon Branchitsch氏がこの二人と公の場に現れることはいったいあるのだろうか?何という寂しい広場にErikaは立たされているだろうか。群を抜いて美しい東洋人の彼女がMitsoukoを胸に抱き上げて、硬い石畳のBonnの市庁舎の前の広場を、例の誰を見るでもない、人々の浴びせる視線の向こう側を見据えて歩き抜けてゆく姿がマダム・フェラーには痛々しい。
「このDomaineはあなたのフランスのin loco。Grand Cru Schlossberg / Erikaの原産地だもの。いつでも、いつまでも。」
「In loco?」
「Erikaのいるべきとこってこと。」
「(長い間)でも、私離婚しても姓は変えないつもりです。Von Branchitschの姓で最後までmein Mannの娘としてMitsoukoを育てます。決してmein Mannを辱めることはしたくありません。」
「あなたの、ならぬものはならぬ?」
「(頷く)」
「ご主人は何て?」
「自分が最後のVon Branchitschになるかもしれないって。」
「Ottoが言っていたけど、ご主人、今大変そうね。」
「Mein Mannの仕事のことは全く知りません。弁護士の仕事は弁護人を護ることだと言っていました。私にはずっと立派な人です。」
「そう。つらいことがないならいいけど・・・。」
「間違いのない人間なんていないって。だから自分のような弁護士が必要なんだって。」
「なるほど、ドイツ人にしては優しい方ね。」
「でも、大変つらいって・・・。」
「・・・。」
「Mitsoukoを愛せないのが。私を愛すようにはMitsoukoは愛せないって。」
「で、Erika、あなたは?」
「わたしはとっても仕合せ。Mitsoukoがいるから。」
「そういうものよね。それは同感できるわ。」
「ありがとう。私、この前Mein Mannにお願いしました。出会えたことは有難いことだったし、これからも尊敬しているので、姓を引き続き名乗らせて下さいって。」
「Von Branchitschの準貴族のvonは捨てがたいものね。」
「(きつい視線を返しながら)そういうことじゃないです。Vonの称号が欲しいわけじゃないです。Mein Mannの姓だからです。それだけのことです。」
「わかった、わかった。そうよね、今時だものね。貴族なんて関係ないし。ごめんなさい。で、ご主人は何て?」
「しばらく考えさせてほしいって。」
この会話があった日からひと月ほどして若いドイツ人の女性がDomaineを突然訪ねてきた。中庭に止まった白いメルセデスを見た瞬間、Erikaはマダム・フェラーにMitsoukoをジュンのいる二階のアトリエにすぐに連れてゆくようにと強張った面持ちで口早に囁いた。Mitsoukoやジュンを会わせたくないという素振りが明らかで、察したマダム・フェラーは屋根井戸と黒い切株から生えた蘖と若木の伸びたポプラの樹のある並びの別館にその女性を招き入れて、Erikaの入室を待った。
そのドイツ人女性は、MonikaというVon Branchitsch氏のF社の秘書だった。Monikaからは、Erikaが初めてDomaineを訪れた時と同じような別階級の雰囲気が漂ってくる。さっきまで西ドイツで呼吸していた異なる空気と異なる自らの気圧の呼気に包まれたまま、着席を固辞して窓際に立って主館の方を見上げている。あの日のErikaとの違いは、身に纏っているその呼気に決してDomaineの空気と融和してゆく気配がないことだった。連れ立って村のホテルLe Chambardのレストランに歩いてゆく二人の背格好はほぼ同じで、黒髪とブロンドの髪の色の相違を除けば、髪のスタイルやすらりとした後ろ背のシルエットは昼下がりの逆光の中で、まるで姉妹のように見えた。
配膳されたままアルザスの間食の定番Tarte flambéeとZwiebelKuchenがテーブルの上で手付かずのまま冷えている。近いのにアルザスは初めてというMonikaのためにErikaが注文したが、向かい合っている二人をテーブルの上を流れる分秒の川が隔てていて、その川の中で郷土料理の二枚の皿がプカプカと浮きながら虚しく乾いてゆく。明らかに食べ物など今どうでもよいという流れの川を二人がそれぞれの此岸から覗き込んでいる。
「財務大臣の引責辞任もありうる展開です。」
「Mein Mannにとってそれはいいことなの、それとも悪いこと?」
「会社側の主張が認められない蓋然性が高いということになります。」
「私が心配しているのは、会社のことじゃなくてMein Mannのこと。」
「先生が会社の顧問弁護士である限り、そうなればお立場は厳しいものになります。」
「なんでMein Mannを会社は護ってくれないのかしら・・・。」
「Erikaさん、それはあべこべです。先生が会社を護ろうとされていらっしゃるわけですから。」
「Mein Mann一人で?」
「関連会社の経営会議も取締役会も持ち株の売却先の銀行も全社挙げて連日、非公開の会合を開いています。顧問弁護士もEstate Plannerも先生お一人ではありません。いくつもの案件が関連していますし。ただ会議は紛糾しています。現時点では、それ以上のことは申し上げられません。先生はF社の顧問弁護士として、最終的に会社が取るべき判断が会社の将来に繋がることを顧問するお立場ですから、ジャーナリズムが報道している善悪の是非とは全く違う視点をお持ちだとは思います。」
「こんな大変な時に、mein Mannの支えになることが何もできなくて、私は失格ね。」
HungaryのHunは中央アジアのフン族の由来で、ハンガリー以東の東スラブ諸国には顔の輪郭がふっくらとして柔和な相の女性が多い。そのフン族のDNAはゲルマン諸国にも混在していて、肌や髪の色や背丈がゲルマン人そのものとしても、頬の輪郭にアジアの気配を感じさせる女性が偶にいる。Monikaはその一人だった。F社の事務室で最初に会った瞬間に一瞥でVon BranchitschのタイプだとErikaには分かっていた。一線を引いて職務に徹しているのは歴然としていたが、好みには違いない。労使間に有刺鉄線が引かれているとは限らない。それがErikaの第一印象だった。窓から差し込む日が当たるとMonikaのライトブラウンの瞳孔の周りに虹彩の薄緑の輪郭が際立つ。窓から目をそらすと光の加減で印象が変わり、底から繰り出される意図をくみ取りにくい。柔和なアジアの頬を形作っている曲線の咬筋を緩めて微笑む気配が今は全くない。会社の事務室で書類を片手に微笑みながら立っていたMonikaでないことは伝わって来た。
「一つ申し上げたいことがあります。」
「何?」
「Mein Mannと先生をお呼びになるのはもうおやめください。」
「(間)それはそうね。あの人、サインしたのね?」
テーブルの白々と冷えている二皿を脇にずらして、Monikaはショルダーバックから取り出した四冊の書類綴りを中央に事務的に重ね置きする。
「はい。まず、こちらが離婚届のオリジナルで、一部はすでに一昨日裁判所に提出してあります。離婚成立に必要な一年間の別居生活の起算は、ですから一昨日からとなります。先生のご自宅からErikaさんの住民届も郊外のBad Godesbergの先生所有のフロアーの方に予定通り移してあります。こちらが娘のMitsoukoさんの身上監護権、財産管理権等すべての親権を先生が放棄することへの同意書です。二通ありますので両方ともに署名してください。一部だけ先生のご自宅にご返送ください。」
あのVon Branchitschとの口論の日。Mitsoukoの誕生がもたらした何物にも代えがたい仕合せと、手にしていたそれまでの仕合せな生活。この二本の仕合せの軸が時間とともに正反対の方向に分離してゆく。一つだけは確実だった。Erikaが過去に戻れないということ。親権の権利と義務について、難解なドイツ語の弁護士Von Branchitschの説明を長々と聞いた後で、Erikaが言ったことは一つだけだった。MitsoukoはあくまでVon Branchitsch氏の娘であること。
それを信じることができず、血液で父子鑑定をして父性確率を確かめなければならないまで疑念を抱くのであれば、自分と別れることを選んでほしい。あなたが信じないとしても、私はMitsoukoを私たちの娘としてずっと育ててゆく。人の噂に乗せられるつもりなど一切ない。Mitsoukoを認知しないとなれば、あなたはご自分の名誉をご自分で傷つけることになりませんか。Mitsoukoを娘として愛せないのであれば、二人で出てゆくしかありません。条件は一つ。Von Branchitschの姓はMitsoukoにください。いいですか?私の素性を替え、私に姓をくれたのはあなたで、私にもMitsoukoにも行くあても帰る先もないことをご存じなはず。行く当てなど本当にないのです。今でもあなたを尊敬し、あなたに心から感謝している私が、あなたの名誉を傷つけることを私は私に許すわけにはいきません。どこか世の片隅で、目立たないところで、私一人でドイツ人のVon Branchitsch の娘としてMitsoukoは育てます。
Von Branchitschが右掌を広げてErikaの顔の方に掲げ、Erikaを制止する。昏い表情にうっすらとした皮肉笑いが浮かぶ。
「Mitsoukoが大きくなったら父が私ではないことにどのみち気づく。その時君はどう説明する?」
その問いかけはErikaが十分想定していたものだった。即答が返る。
「それは成長した娘に任せます。私があなたに救われ、私があなたを愛し、あなたを想い、あなたの姓でこのドイツで娘を一人で育てあげたことを母の私と同じ女に成長したとき、私が誰の娘を産みたかったのか、それと私が誰を愛したのか、Mitsoukoが自分なりに答えを探すでしょう。ならぬものはならぬ。それが母としての私の法律です。他人が決める善し悪しではなく、私が決めたことをあとはMitsoukoが判断してくれればよいだけです。あなたにも、です。」
考え抜いた文脈に違いないとVon Branchitschは悟った。Erikaの目を見つめる。見つめ返すErika の黒い瞳には、愁嘆場につきものの、ありふれた更なる詰問を思いとどまらせる強い力が籠められていることが分かった。Von Branchitschは、知り合う前のErikaの黒い大きな影がErikaの全身を背後から羽交うように包み込んでいることを知る。出会った頃を起点として、二人で完全に抹消してきたErikaの背負っていた影。その影が今Erikaの瞳孔の黒点を広げてVon Branchitschを向こう側から見つめている。死を知った目。死を求める向こう側からの目。
「Mitsoukoがあなたを父と思ったとき、会ってあげてください。」
浮かべていた薄笑いがVon Branchitschから消えている。
「わかった。もういい。暫く考えさせて欲しい。」
静寂。窒息しそうな静けさ。深呼吸をしようにも、二人とも、吸い込もうとしても肺に詰まった想いが栓をしていて、小刻みに浅い呼吸を繰り返している。部屋に充満している重い空気を肺の奥まで送り込むことができない。二匹の瀕死の魚が水槽の水面で口をパクつかせるように。Mitsoukoが二歳になる頃から、二人の間に不言律の液体窒素の沼ができている。その窒素が今、部屋の中で気化して大膨張をしている。呼吸の濃度勾配が閉塞してゆく。
Mitsouko以前も、以降も、妻としてのErikaに何一つ変調はなかった。変調はVon Branchitschの方から始まった。MitsoukoがVon Branchitschをパパと呼んで胸に飛び込んでくるたびに、疑念が深まってゆく。遺伝子の強弱ではなく、遺伝子そのものの違和ではないのか。友人らの茶化しをいなせない事実があるのかもしれない。ただ、妻Erikaの献身や愛情にどう考えても全く変わったところはない。母となった妻Erikaを愛する気持ちにも変わりはない。Mitsoukoの実の父親が仮に居たとして、その姿も形もVon Branchitschに観取できないし、張本人のErikaからも微塵たりとも感じられない。存在するのは、日々、他人目には降って湧いた里子のように見えて仕方が無くなってゆく一家の一人娘Mitsoukoだった。そこだけに、家族の肖像の綻びがある。他人目での綻びを決然と突っ撥ねる意力をVon Branchitschがもう持てなくなっていた。
抱えているF社の問題に決着がどんな形でつくかもわからない。一つだけは確実だった。職場にせよ、家庭にせよ、築き上げてきた柱が振れ始め、それを無理に支えて下敷きになるつもりはない。思うことが思うようになる間合いと、まるで思うようにならない真逆の間合いはきっと誰の人生にもある。全てから撤退する。そして、崩れた瓦礫の中から、次の人生に合う自分の経験と能力と運を合目的的に選別して拾い上げてみたい。間違っていたとは全く思わない。しかし、間合いが悪くなり、傾いた柱をいつまでも支えているうちに人生が無駄に過ぎてしまう必要はないかもしれない。棒に振る必要はない。そうVon Branchitschは思い始めていた。
「私にとってあなたは誰よりも大切なmein Mannです。それだけは変わりません。」
「(間)本当かな?」
「離れ離れになるなんて、考えてもいませんでした。」
「間違いがあった?」
「間違いはありません。」
「Erikaは誰を愛しているのかな?今?」
「Mitsoukoです。」
ライン河を見下ろす窓を背にしてVon Branchitschの館の書斎で交わした最後のこの会話をErikaは思い出していたが、Monikaが注意を促すように残りの書類を一度持ち上げて荒々しく音を立ててまたテーブルに置き直した。
「それから、次のご説明をさせて頂きますが宜しいでしょうか?」
顔見知りのレストランの若いギャルソンがワインとソフトドリンクのメニューを抱えてにこやかにテーブルに挨拶に寄ってこようとしてしたのをErikaが小さく首を横に振って制止する。場違いであることのシグナルを送る。ギャルソンは通過して次の間に消えた。
「こちらはVon Branchitschの姓を離婚成立後もErikaさん母娘が名乗ることへの申立書、いわゆる『離婚の際に称していた氏を称する届』への先生側からの承諾証明です。私個人的には正直驚きましたし、異論がありますが。」
書斎での会話のシーンを一語一句思い返していたErikaだったが、このMonikaの言質で一気に意識がテーブルの現実に引き戻された。秘書Monikaの職域ではない。ストレートなゲルマンの物言いにしても、先ほどから妙に棘がある。
「私個人的には父子鑑定をなさるのが一番早いと思いますが。」
「何に一番早いとおっしゃるの?」
「先生のお子さんでないことを証明するためです。そうなればこの申し立てを離婚成立後の一か月以内にBad Godesbergのゲマインデの戸籍課に提出する必要が全くなくなります。別姓に姓の選択をされて、正式に戸籍登録されればよいわけですから。」
「すこしMonikaさん、私たちの私生活に立ち入り過ぎじゃありませんか?」
「(愛想笑い)そうでしょうか?失礼しました。あとこちらもご覧ください。」
最後の書類は蝋燭で最終ページに蝋のシーリングスタンプが刻印のされた英文の英国領ヴァージン諸島の法人の定款で、「Life Exit Foundation No. 288」という財団名が表記されていた。
「これは?」
「私も先生から渡されただけで、詳しいことは知らされていません。ただ、これは娘さんが成人されたら最後のページで空欄になっている個所にご署名をされることを先生からお勧めするように伝言を預かっただけです。お渡ししておくだけでよいと言われています。Erikaさんがご存知の件だとばかり思っていましたけど、お心当たりありませんか?」
「いえ、全く・・・。」
「そうでしたか。まァ、現時点で資産価値がある法人なのかどうかはその書類ではわかりませんが、お預かりになってご保管下されば宜しいのではないかと。Mitsoukoさんが成人されてサインをされるまで、実益も実害も発生しませんし。」
「(少し捲って読もうとする)あの私お恥ずかしいですが、英語全くダメで・・・。」
「そうなんですね。お読みになってもB.V.I.の財団設立用の雛形そのもので、あまり意味はないと思います。この最後の蝋印の押されたページだけが新しく加えられていますね。これは、成人されたMitsouko さんが、本人確認できるパスポートと同一のサインをここにされれば、財団のノミニーに現在の財団資産のベネフィッシャリー・オーナーが議決権と所有権をMitsoukoさんに移譲する、と明記した付帯決議事項です。先生からいずれ設立の意図とか直接ご説明があるかもしれません。何かお考えなのであれば。」
「『Life Exit』・・・。何で・・・。」
「造語の社名ですからよくはわかりかねます。安楽死とかそんな意味合いでしょうか。この法人は将来の娘さんのためでしょうから、まァ、どちらかというと人生の出入り口とかそんな意味合いかもしれませんが。」
「なるほど・・・。」
「このLife Exit Foundationという財団は先生がいくつも管理されていますが、その288というサブアカウントを割り当てられたとお考え下さい。こちらの288番とはまず無関係と考えますが、先生は、以前からスイスとドイツの団体の依頼を受けて、安楽死を基本的人権の重要な一つの権利として『死ぬ権利』を法制化するための刑法の整備に関与されています。『利己的な動機がなければ、自殺を手助けすることは犯罪ではない』ことを司法当局がどう判断するか、ビジネスとして介助自殺を行うことを禁止しなければ、計画犯罪の温床となりかねないと考えている二国の司法当局と依頼主の間には、まだ深い溝があると仰ってます。カザフでは安楽死は許されていますか?」
「知りません。」
「そうでしたか。先生のお考えも、お仕事の内容もご存じないのですね?」
「お恥ずかしい話ですけど。」
「(窓の方に顔を逸らして)’Ne nette Puppe, also……。(要するに、可愛いお人形さん)」
Erikaは書類4式を物静かにMonikaの手から抜き出し、揃えて自分の手前に置き直す。窓からMonikaの視線が戻るのを待つ。
「色々間に立っていただいて・・・。ご面倒をお掛けしました。」
「カザフでは女性に参政権はあるのですか?」
「こちらに来てしまっていましたので知りません・・・。」
「そうでしたか・・・。こちらで投票に行かれたことは?」
「こちらでもありません。」
「そうなんですね。政治もご関心ないですか?」
Erikaはテーブルの中央にTarte flambéeを置き直して、ナイフとフォークで切り分け、三角形の一切れを丁寧にMonikaの小皿に取り分ける。
「冷めちゃったみたいだけど、宜しかったらどうぞ?」
「いえ。Nein Danke。冷めたピザは、ちょっと。」
「ですよね。温めさせましょうか?」
「いえ、おかまなく。」
Erikaは自分の方に盛り分けた一切れを頬張る。
「まだダイジョウブ。固くはなっていない。アルザスの名物だから召し上がったらいいのに。」
Monikaの顔にまた冷笑が浮かんでいる。窓の外に目を向けると、日を受けた虹彩の輪郭が淡いグリーンの光沢を帯び、その目には、まだ言い足りないものごと、敵意のようなものが湛えられている。何かをMonikaが言おうとして向き直った時、Erikaの直視と出会う。Monikaを見ているようで、その黒い大きな瞳を捉えようとすると、Erikaが正面の自分を通り越して、遥か背後にいる別の誰かを見ているように感じて、とりあえず黙ることにした。
「Mein Mann、そうじゃなかったわね、Mein Ex-Mannはね、こんなことを言っていたの。弁護士の自分には、ひとに言えないことが詰め込まれている。人に言えないことに埋もれて自分が見えなくなっている。だから、家の門の前に着くまでに弁護士の自分を置いて来る。家の門を潜ったら、もとの自分を取り戻せればそれでいいって。」
「先生も月並みなことを仰るんですねェ・・・。」
「あなた子供の頃、ぬいぐるみって持ってらした?」
「さあ、Margarete Steiffのテディベアなら持ってたかも。」
「なんでみんなぬいぐるみを買うのかしら?」
「可愛いからでしょうね?」
「そうよね、可愛いし、だから癒される。」
「一体、何のお話?」
「Puppeにも、大事な役割はあるかもしれないわ。Puppeになりきれたら。」
Monikaの見下したようなスタンスは変わらず、そそくさと手渡し以外の資料綴りをバックに押し込み、帰り支度を始めた。
「PuppeにはこうしてアルザスのTarte flambéeを切り分けたり、場を楽しいものにしようという気遣いもできるの。折角でしょう?月並みなことだけど、難しいドイツ連邦法を暗唱できなくても、人と人の間を和ませることもできるのではないかしら。ひとそれぞれ。できることは違うとは思います。ひとそれぞれ、時と役割が割り当てられることもあるでしょうし。」
「まァ、時と立場によるでしょうね、そのアジア的なお気遣いも。」
「そのようですね。」
「最後に一つお尋ねします。はっきりとお答えください。」
「はい。何でしょう?」
「Mitsoukoちゃんは、いったい誰の子ですか?」
「(瞬きなくMonikaを凝視して)私の子です。」
Monikaは一つ溜息を深くついて、Erikaに目礼をしてレストランを出ていった。中庭に停めた白いメルセデスをピックして帰路につくはずで、Erikaは暫くはそこに残ることにした。
おそらく、Von BranchitschはMonikaと再婚するだろう。異存はないはずだった。意外なことに、Erikaの目から自然と涙が流れ落ちていた。Erika本人も制止しがたい現象だった。手元の離婚届の上で雨粒のように涙がパラパラと音を立てていた。ひどく、独りぼっちだった。
ケーキの焼ける香ばしい匂いがしていた。残っていたZwiebelkuchenを少し焼き直してギャルソンが気を使ってテーブルに持ってきた。見上げると、店のギャルソンでなく、Ottoが立っていた。白ワインのグラスと真っ白なハンケチをテーブルに置いて、すぐ後ろ背を見せて立ち去ろうとしていた。後ろを向いたまま、両腕の肘を上げてぶら下がった両手を急に肩先の高さまで上げ、おどけたように掌を左右に広げてみせている。
「どうしようもないレストランだ。コックもギャルソンもみんな昼寝にいっちまった。」
陽を反射しているテーブルのZwiebelkuchenに添えられた銀のフォークに延ばし掛けていた手を止める。
(安楽死・・・、Life Exit・・・。)
Erikaが知らないはずは実はない。フォークを取り上げ、手のひらで柄を握り、フォークの先を敢えて陽に当ててじっと見つめる。陽がデザートフォークの先端の肉叉で赤みを帯びている。
「Erikaさんは何でここにいるのですか?」
ジュンが何度もあの嵐の晩尋ねてきた。画家ジュンの目は、Erikaのまだ見えていない部分を執拗に見定めようとしていたのかもしれない。もちろん、ヒトには見せたい部分と見られたくない部分がある。その乖離や落差が大きければ大きいほど見せている部分の厚みが増す。見せたい部分だけを周囲が認知してくれる日常こそがヒトにとって居心地が良い。知られる必要のない、見られたくない部分を敢えて開示することもない。そう諭してくれていたのは、他ならぬ弁護士のMein Mannだった。
「過去は変えられない。重要なのは今であり、これからではないか。君は今私の恋人であり、これからは私の妻だ。君に教わったむずかしい日本の漢字も、書かないでいたら私はいずれ忘れてしまうだろう。だから、君に見られたくない、知られたくないことがあれば、君自身が思い出さないこと。そうしたら君もいずれ忘れてしまうさ。過去の君はいない。君にもいなくなる。」
学生運動の渦の中で、大学の共産党宣言をドイツ語の原文で読む講義で知り合った友人に勧誘されてセクトの会合の食糧班のバイトでパイを焼いたり、御茶ノ水の学生決起集会本部で機動隊の催涙弾に効くというので無数のレモンを切って配っていたことが切欠で知り合ったボーイフレンドの亮とパレスチナに渡った。
「日本は日米安保条約を破棄して、ベトナム戦争を主導するアメリカの武力資本主義と決別するべきであるにも拘わらず、憂うべき現状を全く打破しようともしない。我々団塊の世代、今後の日本を担う我々学生を舐め、カネを払うどころか、搾取しようとしている。全共闘も新左翼も革マルも民青も結局のところ分裂闘争に誘導されて政権の思うつぼじゃないか。日本を出て、海外に日本の真の共産主義者同盟の BUNDの拠点を作り直す。まずは腐りきった権威の物理的破壊だ。火炎瓶ごとき子供だましではない武器を我々は手に入れなければならない。間違った現政権の手先の機動隊に抑え込まれるに決まっている。ゲバ棒を振り回してなんぼのものか。パレスチナ解放戦線の戦い方を見よう。新しい国を勝ち取ろうとする、失地奪還の決死の戦いぶりに触れなければならない。思想は異なるが、彼らが我々を義勇兵として受け入れ、軍資金がそれで手に入れば我々の初期目的はまずは達成できることとなる。狙撃や爆薬の仕掛け方の訓練は日本では受けられない。彼らから教わろう。アメリカ頼みの金権資本主義に腐った日本革命のための軍資金、ノウハウの体得のため、PFLPの拠点を訪ね、義勇兵として参加する。」
その亮の説く切迫した非日常性は、特に職を求めるでもない平坦な日常生活をそれまで暮らしていたErikaをぐんぐんと円心に引寄せた。会津藩の新番頭の家系の父の大使館書記官としてのドイツ赴任に同行し、ボンに8年住んでいたこともあり、ドイツ語学科の講義に退屈していた。単位にカウントされない共産党宣言の講読を敢えて受講したのは退屈しのぎでもあったが、それが亮との密接の根拠となった。
停滞し退屈な事なかれな「そういうことになってます。」というお茶くみ女子の求人に辟易していたErikaは、亮の幕末の士のような国を正す烈気に惹かれていった。幕末の会津藩の血がErikaの躰に蘇ったのかもしれない。明日はもうないかもしれない、という切迫した危機感の中、求め合う夜の異様なオーガズムを知らされ、亮との子弟のような思想的隷属の関係の中の、月並みでない、自分が崇高な唯一無比の恋愛を生きているような陶酔のまま、Erikaは亮に従ってヨルダンから陸路でイスラエルを抜け、ベツレヘム入りして、PFLPに合流した。砂を匍匐し、砂を噛む武装訓練の日々にさらに4人の日本人メンバーが加わってきた。
ある日、日本人6名全員が集められ、夕食会が開かれた。レバノンの銀行口座への40万ドルの送金履歴とパリとテルアビブ近郊のロッド国際空港発の往復チケット6枚、そしてロッド空港の見取り図が食卓に広げられた。その月の初めにイスラエル側に捕らえられている同志捕虜300名の解放のため実行したサベナ航空のハイジャック時の交渉が決裂して仲間がロッド空港で射殺された。報復を同じ空港で実行したいが、PFLPのメンバーは既にマークされていて空港に入り込めないため、マークされていない日本人の義勇兵だけで決行しろという指令だった。チェコ製のVZ58アサルトライフル銃6丁と手榴弾10個が渡され、綿密な計画が開示された。一度パリに行き、とんぼ返りをして、二人が到着便ロビーで警備員を狙撃し、その後空港内を乱射する。一人が飛行場に出て、駐機しているイスラエル機を爆破する。混乱する間にErikaと亮は管制塔に疾走して向かい、支配する。発着便すべてをこれで一時人質にして交渉を持ち掛ける。これはあくまで時間稼ぎで、管制塔から退去して爆破。第二滑走路のわきの草むらに向かえ。鉄条網を切断して、ジープで待機している。
目の前の旅行客たちの頭蓋骨から鮮血や脳が飛び散り、口蓋から血を吐き、眼球が剥き出し、腹から溢れ出る血流を押さえてのたうち回る阿鼻叫喚の地獄絵。聞いたことのない悲痛な絶叫と救いを求める呻き声。怒号と立て続く銃声と粉砕するガラスや天井の蛍光灯の割れて落ちる音。外の飛行場での発砲音と手榴弾の爆裂音。戦争ではなく、無抵抗・無防備な群衆への殺戮。予定通り亮は管制塔に疾走していった。
「何やってんだ!先に行くぞ‼」
ジーンズではなく、カモフラージュにErikaは膝丈のミディアムドレスを着ていた。走るためハイヒールを脱いで一足はまだ手に持っていたが、片方は床の血糊に滑って転んだときすでに捨てていた。引いているトランクの中に手榴弾二つとアサルトライフル一丁が入っていたが、取り出す前に乱射が始まっていた。警報が鳴り響く空港内を乗客が入り乱れて走りまわる中、Erikaはとにかく滑走路に降り立ち、トランクを引きながら管制塔にゆっくりと向かった。遅れを取った以上、最早客を装って動くしかない。ドレスの裾が血糊で重く垂れさがり、胸元には返り血がこびりついていた。
管制塔の方から空港警備隊の青いランプを点滅させキャンターがウイングに向かって疾駆してゆくのが見えた。管制塔の入り口の階段に転がったまま放置されている影が見えた。亮の射殺体だった。外に出て見上げると管制塔の上では人影が動いていた。きっとウイングと飛行場の事態に気づいて飛び出してきた管制塔に配備されていた警備隊と予期せず鉢合わせしたに違いなかった。壁一面に無数の銃痕があり、階段下には粉砕したコンクリート片が散乱し、仰向けの亮の死体にも掛かっていた。亮の顔面はあとから至近距離で自動小銃を浴びて目も鼻も額も吹き飛ばされて原形を全く留めていない惨状だった。左手で左太ももを握ったまま倒れていた。太ももからまだ暖かい生き血が溢れ出ている。
Erikaはその亮の左足を胸に抱えこんだまま階段にもたれてウイングの方から流れてくるくぐもった銃声と爆発音とサイレンを呆然と聞いていた。ドレスの生地を亮の生暖かい鮮血が滲みぬけてErikaの胸を伝って腹部に流れ落ちてゆく。その血が亮のものでなく、自分の血のようにも思えた。亮は言うに違いない。
「何やってんだ!早く上に行け!予定通り、管制官と発着便の支配権を奪取しろ‼」
だが、Erikaにトランクを開けて手榴弾やアサルトライフルを取り出す余力がなかった。Erikaの使命は終わってしまった気がした。亮に従い、亮と共にあることが誇りある使命だった。亮だけが、ErikaがErikaであることの根拠だった。非日常の法外な危機を求め、その二人の高揚し続けていた亜空間における使命は終わった。亮の足元にあったライフルを手繰り寄せ、Erikaは自決を選んだ。咽びながら長い銃口を口蓋に押し込もうとするが、手も腕も激しく震えて手間取った。腕を伸ばしてトリガーを指で捉え、引き金を押す。亮は弾を使い切っていた。マガジンは空だった。ウイングからも駐機場からも銃声が消えて、サイレンだけが聞こえていた。サイレンの方に向かえば、射殺されるだろう。それがいい。Erikaはウイングの方にふらつきながら死ぬために戻った。館内によじ登ろうとしたとき、誰かに強い力で引き上げられ、そのまま気を失った。
テルアビブの病院は英語を話すプエルトリコ人で溢れていた。Erikaも犠牲者の一人として保護されていた。負傷者でないため、四日目には若干の見舞金を渡され、日本大使館へ行くように言われた。赴けるわけもなく、Erika の逃避行は一路スイスを目指すことになる。亮が一度、安楽死が唯一実に安価に売られている、ある意味、命の義務と客観的な尊厳を放擲して、自己の自由資産として曲解するようなことが横行する堕落した国として教わったことがあったからだった。構うものか、死ねるなら。病院でなくまず安楽死を扱う弁護士が窓口だと聞いた。もう使命も終わり、次の夢もなく、二度と血塗れの死体に囲まれたくないErikaの最後の選択は、他人を巻き込まない「静かな自死」だった。スイスに行って死のう。亮のところへ行ける。それが最後の亮のための使命だと思えて妙に心が落ち着いた。会えば亮も喜んでくれるに違いない。会えなくて、死が本当に終わりなら、それも仕方ない。ここに居る意味などない。ここにはとにかくもう居たくない。
「ドクターの診断書が来ましたが、Erikaさん、あなたは健常者で、積極的な安楽死は却下されました。」
担当弁護士のVon Branchitschが言う。
「ただ、宜しければ、当財団のサンモリッツの関係施設でご静養されたらいかがかと。それとも、すぐに大使館に身柄をお渡ししましょうか?」
Von Branchitschには反応を楽しむような、反応を既に知っているような気配がある。
「身柄?」
よく気付いたな、という表情を浮かべる。
「珍しい。日本人であなたほどドイツ語が堪能な方は。」
「そうですか。」
Von Branchitschは用意していた通りの言葉を続ける。
「ご安心ください。大使館にも領事館にも誰にもあなたの許可なく連絡することは当財団では決してありません。」
「どうしてですか?」
「(間)ここが場合によって訪問される方の最後の拠り所ですから。」
「なるほど。助かります。」
「(間)色々ありましたね・・・きっと。」
「お調べになったのですね。」
「私たちはそんなことは一切しません。犯罪者リストとの照合は義務付けられていますが、Erikaさんの名前も記載されていませんし、パスポートも偽造ではありませんでした。調べといえばそれだけですが、精神科医からレポーティングは口頭で受けました。あなたが彼に話したことが事実でも、またショックによる倒錯でも、療養されてからご自身の今後を見直されるべきとの診断です。消極的安楽死はあなたの自由ですが、せっかくの人間としての命には、責務もあるのではないでしょうか?」
同じことを確か亮が言っていたことがある。人間の命には責務があり、無責任に死ぬのを許すべきではないと。
「私はあなたを美しいと思います。まだお若いし、生きてゆけば、またきっと新しい出会いもあります。今までは今までのこととして、一度すっかり消去してみませんか?そして、未来のご自分を療養所で静かにお始めになられませんか?」
「過去を消去することなんか、できませんよ。」
「いいですか、あなたは現時点で犯罪者プロトコルに記載されたわけではないし、誰も傷つけていない。テロリスト集団に巻き込まれて被害にあった。先生に吐露されたことが仮に事実で、あなたがテロリスト分子であったとしても、過激派の学生運動家など今ドイツにもごまんといる。別段特筆すべき履歴ではありません。それに、本人確認だって、連邦政府が外人労働者の労働者ビザ延長を緩和して、家族まで受け入れてもう200万人を超えている。このごろはベトナムや中央アジアからの難民や不法就労者でドイツは溢れかえっている。いまだ戦没者や遺族不明者リストが悪い連中の間で売買されている状態ですよ?誰が誰だか本人以外誰にもわからない・・・。できることはあるかもしれない。」
サンモリッツ湖畔のペンション風の豪華な療養所のErikaをVon Branchitschは毎週のように訪ねてきた。意図はErikaにも明白だったが、Von Branchitschは握手すらしなかった。施設のケアマネージャーの女性に、紅茶にはミルクで、決して末広型の絞り器にレモンの串切を挟んで出さないことやサンモリッツ特産のパイ生地のクルミケーキやピザは食事に出さないこと、食事が終わり次第ナイフやフォークはすぐに片付けること、部屋にあった赤い色のクッションを別の色に取り換えることなど毎回細かい指示をしていた。Erikaとはサンモリッツを訪れたことのある小説家や画家の話ばかりをして帰っていった。項垂れて湖の方を見下ろしていると、あなたはNar–zisseでナルシスのようだと一度言った。花言葉は「成就しない恋」だから嫌いだと。厚みのないこのラブコールに二人は一度だけ笑った。
半年後、Von Branchitschが資生堂の「すずろ」という香水瓶を日本出張から買って持ってきた。そしてErikaが少女時代過ごしたボンのライン川が見える丘の上のフロアーに自宅を構えなおしたので、一緒に来てほしいと言った。
「湖はもういいでしょう?ここでは同じ水が行ったり来たり。ライン川の水は流れてゆきます。ご存じですよね、あのライン川。一緒に眺めていただけたら、unheimlich私は嬉しいのですが。」
「(爆笑する)化け物ですか・・・。」
「そうです。化け物のように、です。」
「今の若者の流行語です。おいしくてもまずくても、綺麗でも醜くても、なんでも前にunheimlichというんです。」
「(間)じゃあ、こうお答えしなくちゃいけませんね。unheimlich、喜んで。」
まだそこまでの気持ちはなかったが、Erikaの力で押し返せない力でVon Branchitschの厚い胸にErikaは抱き寄せられていた。
もうMonikaは白いベンツをピックしてDomaineを去ったに違いない。離婚届とその他の書類を纏めてErikaは椅子から立ち上がろうとしてふらつき、また腰を下ろす。Life Exit Foundationは何のためだろうか。Mitsoukoの産まれた今、母親のErikaが自死を選ぶはずのないことをVon Branchitschは十二分に知っているはずだ。Von Branchitschの姓を名乗ることになるMitsoukoにだけは何らかの資産を委譲するつもりなのだろうか。Erikaの名前は書類上に記載は一切ない。Mitsoukoが自分と一緒だと破産するとでも思うのだろうか。考えてみるとMitsoukoには何ら罪はなく、まだ何も知らせていない。Von Branchitschが父であることに疑念すら抱けない年齢でもある。
乾いた日照りがレストランに差し込んでいる。今、ロッド空港の時のようにErikaを力強く持ち上げてくれる腕はない。乾いた砂の上の匍匐を思い出す。亮の左足。流血のぬめり。ぐしゃぐしゃの頭部。爆音と銃声。サイレン。水の音。サンモリッツの湖面のさざ波。ラインの流れ。水の音。常に穏やかなVon Branchitschの低い声。亮の甲高い命令口調。レモン。あのオルカーンの夜の雷鳴。ジュンの眼。Mitsoukoの切れ長の目。
ジュンを追って日本に戻れば、Mitsoukoの母は刑務所に入ることになり、ジュンとMitsoukoとVon Branchitsch、日本の両親全員を苦しめることになる。病院の名簿が誤記載で、「絵里香」は空港で自爆したか、いまだ逃亡中というままにしておくのが得策で、今になって出頭して、殺傷をしていないと言って弁明がきくはずもない。英雄としてレバノンで保護されている同志の一人が口を割ればそれまでのこと。Von Branchitschがくれた別人としてのカザフスタン孤児の出生偽装を露呈することなく、Von Branchitschの姓を守り通してこちらでMitsoukoを育てあげてゆくしかない。
収穫祭のジュンたちの演目を無事終えてしばらくしたら、Domaineも人の目のあるボンも離れることを決心した。ジュンとさとしが帰国前にドライブ旅行に行きたいと言っていた。車を貸して、二人が遠出している間に、ボンの荷物を纏めてひとまずBaselにトランクルームを借りて搬出してしまおう。今支店勤務をし始めているW銀行のスイス本社できっと職は得られるだろう。 Mitsouko が悲しむから、旅行の帰りを待ってもう一度さとしと会わせてあげてから、出払っている隙をみてDomaineを出よう。
Mitsoukoと二人の母子家庭を誰の助けも借りず立ち上げて見せる。Erikaは椅子からすくっと立ち上がり、掌で体温と陽を受けて温かくなっていたデザートフォークをテーブルに置き、紙ナプキンに手つかずのZwiebelkuchen二つを包んで、書類と一緒に籠に入れる。Mitsoukoとさとしがきっと喜ぶだろう。