ロコ・ホテル

ロコ・ホテル 1 

 目の前のフロントの飛沫防止用の透明ビニールシートが天井のカセットエアコンから吹き出されてくる風を受け、揺れている。支配人陽子の顔が火照るのはその温風のせいかもしれない。まだエントランス・ホールにチェックイン客はいない。東京2020オリンピックに向けて月額レンタルした65インチの大型4Kテレビのスクリーンが、中国泉州市のコロナ患者を収容しているホテルの崩落現場から切り替わって、ミラノ大聖堂を映し出している。ロンバルディア州全域や北部14県をイタリヤ政府が封鎖したというニュースが空ろに流れている。その映像も音声もシート越しで、何か向こう側のことではっきりとしない。それはそれ。いまはいま。両頬で涙の筋が乾いている。ストーム色設定のスリープ・モニターをのぞき込んで、陽子は目元と頬に軽くハンケチで当て押しをする。ビニールシート越しだから、こちら側のこともはっきりとは見えはしないだろう。マスクをし直す。
 そういえば、チェックインするホテルの宿泊客が新型コロナ感染者だったら早晩全員が倒れることになると言って、何か仕切りが欲しいと十子(みつこ)が支配人の陽子に申し入れてきたのは、新型コロナがまだ中国の湖北省武漢市の単発事例として騒がれ始めたごく初期の頃だった。仕切りのイメージが今一つ陽子には湧いてこない。
「仕切りってあんたが言ってるのは、あの昔取り付け騒ぎがあったころの銀行のカウンターにあったやつのこと?防弾ガラスみたいなガラス張りで手元に小さい受け渡しの小窓があけてあるやつ?」
「いや、そこまで分厚くなくても・・・。」
「昭和初期じゃあるまいし。だいたいおおげさよ。」
 その日、十子と二人シフトで組んでいたリムがフロント脇のバックヤードの事務スペースの大半を占有しているコピー複合機の裏から顔を覗かせて口を挟んでくる。
「ここ昭和初期のまんまの会社、ニッポンの。」
 十子が笑う。
「たしかに!」
 リムが「でしょう?」と目くばせを十子に返す。リムは中国大陸から両親と一緒に日本に渡って来た。両親は本国に戻ったが、一人残って日本に帰化している。日本人の亭主と二人暮らしの23歳。色々かなり事情はあるようだが、25時間連続勤務の特殊なこのホテルのフロント・ポジションに応募し、尚且つ辞めずに続いている女子スタッフたちには、それぞれ曰くはあってしかるべし、そんな判り切ったことを敢えてお互い詮索するような野暮はない、という暗黙の不文律もあって、ほとんどだれもお互いの深いところを知らない。このホテルの系列店のスタッフは大半がそうした女子で回っている。
 事情を少しは把握しているのが採用担当の支配人の陽子だが、元女子バレーボールのオリンピックの強化選手だった陽子自身、女として、母として、三人の息子のシングル・マザーとして、申し分ないほどの事情を抱えて来ている。話せば長い。だから話さない。乗り越えた?どうかしらね。息子たちは育てたよ。まあ、まっとうにね。一番下は今日我が家の掃除当番。
 若い女子スタッフが目下抱えている事情など陽子には見透かされてしまう。だから、なに?まあ、いずれ何とかなるもんよ。本人にとっての事情が、陽子の前ではその独自性も特異性も失い、喫緊の心の重みは妙に晴れ晴れとして、さばさばと軽量化してしまう。何とかする気があれば、いずれは何とかなるもの。じゃあ、まあ、とにかく一生懸命働いてみようか、私と。
 体育会系女系縦割り社会のこの職場では、あまり威圧的な言葉がいらない。女として、母としての一人二役目の横割りのY軸が別途ボーダーラインとして引かれている。会社でのX軸の高い位置から見下ろす言葉より、Y軸という時間を、女として、母として、先に歩いている陽子から女子スタッフに伝わる無言の波長がある。ほぼ祖母から孫娘までの世代のY軸上であれば、女子として力づくでなく自然と消化されてゆくことも多い。
 例えば、まだ仮入社中だった亜実が明らかに憤慨の情を歩幅に込めて事務室に入って来た当時のこと。右の掌で左手の薬指のあたりをいじりながら支配人席に突進してくる。若いのに揉み手かよ?はい、何でしょう?こういう子は、まず辞めない。ただ軸足に若干の軌道修正が必要なだけ。Ⅹ軸か、Y軸か。
「タボおばさんのことなんですけど・・・」
「タボがどうかした?」
 新しくフロント要員として仮入社すると最初の研修でメイク・スタッフとして有無を言わさず客室やトイレ掃除に回され、清掃係正社員で勤続18年のタボおばさんから掃除のノウハウと蘊蓄や機微を徹底的に仕込まれることになっている。通常のフロント業務をイメージして応募してくる男子も女子も、面接のときには、全く問題ない、と例外なく口にする。19㎡均一の狭い機能客室のシングル・ルームが大半ではあるが、タボの鍛え上げたクリーニング担当のメイクのスタッフはこれらの客室を文字通り塵一つなく磨き上げ、クリーンアップする。しかも比類ない素早さで。たいがい、客室のトイレ掃除三日目あたりで、四大卒や転職組で簿記2級を履歴書に書き込み、支配人補佐やフロント主任を希望する類は来なくなる。辞めるとも表明せず、連絡もせず、連絡もつかなくなり、消える。やってられるか、冗談じゃねェ。着信拒否はそんな無言のメッセージのつもりだろう。
「あなただって、うちが安いから泊まりに来たとして、その安い部屋に入ったら、値段からは思いもしなかったほど清潔だったら嬉しいでしょう?また来ようと思うんじゃない?」
「はい。」
「私たちには部屋の広さは変えようがないの。でも『うちでもいいや』ぐらいに思って来られたお客様が、『うちがいい』とおっしゃっていただくためにできることの一番の近道なのよ、清潔だっていうことは。」
「はい。よくわかります。そういうことじゃありません。」
「そう、じゃあ何?」
「あの、バスルームの掃除の時、叱られたんです。指輪を外せって。」
「指輪なくしちゃった?」
「いえ。外してませんから。でも、嘘もんなら外しときなって言われちゃって・・・。」
「ウソモン?」
「私の指輪が嘘ものだって。」
「よく意味わかんないけど?」
「他人に嵌めてるリングを嘘かホントか言われたの初めてで・・・」
「メッキだと洗剤で剥がれるかもしれないってことを心配したんじゃない?」
「メッキじゃないです。」
「自分で買ったんだ?」
「いえ、元カレに貰ったんです。でも外したくないんです。」
 もう陽子にはこのココアブラウンの襟足を残したウルフレイヤーカットの20歳の子のストーリーがだいたい読めている。面接のときのロングヘアを最近切ったのだろう。ただマニッシュまでショートにする踏ん切りがまだついていない、か。
「大切ならなおさら外した方がいいじゃん。」
 まだフロントでは指輪厳禁ということは伝える段階ではないだろう。こうして意見を言ってくるぐらいだから続ける気はあるのかもしれない。応募者が絶えることはない。来ては去る。宿泊客も従業員も。ホテル業も水商売であって、その水は入っては出てゆくおカネのことだけをさしているのではない。客も来ては流れてゆく水。従業員も来ては流れてゆく水。三本の水の流れが急流となって水が途絶えないように、ダムに水を溜めるのが陽子の仕事。
「そういうタボおばさんは自分の結婚指輪つけたまんまなんですよ?なんでタボおばさんはよくって、私たち新人はだめなのかって訊いたら・・・」
「何て?」
「あたしのはホンモンだからいいのって。」
「陽子はここで元オリンピック日本女子バレーボール強化チームの体育会系の爆笑を抑えられなくなった。
「私のだって彼氏からもらったホンモンですって言い返した?」
「みんなの前で言うことじゃないですよね。プライベートは、職場の皆さんには関係のないことですから。でも他人のリングを嘘もの呼ばわりして、自分のだけは純金でホンモノみたいな言い方はちょっと、信じらんないって感じでした。あとで、あれはみんなもおかしいって言ってました。」

「で?他の子たちは指輪は?」
「みんなは外してました。外してネックレスに引っ掛けてました。でも、私も外さないと、あの、クビなんでしょうか?」
 タボが洗った事務所用のモップを戻しに入ってきた。支配人室などなく、事務所の仮眠室の横に支配人の席があるだけで、モップはその席の脇が置き場所に決まっていた。タボの日勤の最後の手順で、ほぼ毎日、その日のレポーティングも兼ねた立ち話をしてから帰ることになっていた。長年喜怒哀楽を共にしてきている二人の間では目を合わせる必要も、空気を読む必要もない。
「じゃあ、陽子ちゃん、あたしこれで今日はあがらせてもらうね。」
「はい。お疲れさまでした。あ、そうそう・・・」
「何か?」
「三男坊がさ、大学で応用化学科なんだけどさ、なんつってたかな、アンタこの前訊いてたこと息子に相談してみたのよ。ちょっと貰ったメモ見る。」
 新入社員とタボの間の空気は固体化して動かない。
「では、私はこれで失礼し・・・。」
「あ、いいの、いいの。すぐ終わるから。あなたもちょっと待ってて。」
 陽子の制止を予期しなかった新入社員は仕方なくウルフカットの襟足を指で摘まみながら、支配人のスクリーンセーバーになったままのデスクトップで回転しているホテルのロゴを目のやり場にしていた。そうか、スクリーンセーバーでサウンドは紐づけできないのだっけ。みんなが中座して誰もいないオフィスでスクリーンセーバーやロック画面のデスクトップがそれぞれ別の音を鳴らしていたらうるさいし、意味ないし。
 タボは堂々と支配人陽子の方を直視して待っている。その視線は間に立つ新入社員の肩越しを素通りしている。
「何か訊いていましたっけ?」
「ああ、このメモだ。『王水』。」
「はい?」
「『王水』は王様の水の意味で、ケーニヒスバッサーの直訳である。濃塩酸と濃硝酸とを3:1の体積比で混合してできる。当初は透明だがすぐにだいだい色の液体となる。普通の酸では溶けることのない金も溶解できるし、温めればプラチナも溶かすことができる。金箔を溶かしたり、99.999%の金塊を製造するときにも実用されている。硝酸がまずわずかな量の金を溶解して、金イオンAu3+を形成・・・まあ、とにかく、この王様の水でいざとなればアンタの金の指輪も溶けるということらしいわね。でも、どうやって・・・」
「指、突っ込めっていうの?エンサンとショーサンの混ざった中に?指を間違って切られるのもカンベンだけど、わけのわかんない液体もパス。」
「指も溶けちゃうね。なんかだめそうよ、やっぱ。そうメモにも書いてある。」
「人の指、なんだって思ってらっしゃるんです?」
「だってアンタがいつも痛い痛いって言ってるから。心配してどうしたら外せるか考えてあげてるのよ。」
「それは、それは。有難うございます。でもね、ショーサンはちょっとね。痩せる方がまだ楽よ。」
「あのさァ、何年かかってんの、痩せるのに?」
「これでもダイエット心掛けてんのよ?」
「へェ、そうなんだ?指が細くなれば痛くなくなるんでしょ?ダイエットしても痩せない?てことは、仕事に余裕がまだあるみたいね。なんならメイクのヘルプを減らしてあげようかしら、タボちゃんのために。ねえ?」
「これはね、言いたかないけど、陽子ちゃんのせいよ、ストレス太り。」
「冷蔵庫に賞味期限切れ間近のビール三本タボちゃんにとっておいたけどダイエットじゃ他の子にあげなきゃね?」
 タボは冷蔵庫を開き、スーパードライ三缶を取り出してひざ丈のショッピング用ローリングバックにそそくさと入れ、振り返りざまに新入社員を初めて一瞥して、ウインクをしてから飄々と退室していった。キャスターがフロアーで擦れる不規則な音が遠ざかって行った。
「タボさん、リングが取れなくなっちゃったんですか?」
「とにかく多忙な仕事の方がいいですって言って入社してきたの。前の職場が甘すぎるって。余計なことを考える無駄な時間はいらないんだって。だからタボちゃん。もう何年になるかな、18年目かな、今年で。あの頃だったら痩せてたしね、外せたのかもしれないけどね・・・。」
「それでタボさんなんですか・・・朝はパントリーで朝食を配膳されて、夜も今までメイクもされて。ご家族いらっしゃらないならわかりますけど。」
「タボちゃんは一人ものよ。」
「え?だって結婚されているんですよね?」
「亡くなったのよ、ご家族全員。35年前、日航機の事故で。」
 珍しく支配人陽子の顔から明るさが消えていた。卓上のマウスに触れようとしていた掌が宙で止まっている。2020、2019、2018、2017・・・。右掌を宙で上下に揺らして指で西暦を遡行して数を数えていた。スクリーンセーバーがストーム色のスリープ画面に移行した。陽子の顔が暗転したディスプレーに放射霧のように反映している。
「タボちゃんはね、外さなくていいの。外せないのよ。きっと。」
それぞれの事情に色合いと重さの違いはある。きっとほとんどが時間のなかで色褪せたり、軽くなってゆく。だが中には時系列を越えても消えないものもある。消せないものもある。本人に因数分解できずに色濃い重い記憶として残るものを他人が解決できるはずもない。陽子が今開いた副支配人万智が作成したPCのExcelの社員データでVLOOKUP関数を使って検索できる事情もあるが、X軸の氏名の右のY軸に性別・生年月日・入社年月日・現住所・扶養控除申告書の提出の有無と甲乙丙の入力欄・婚姻など個人データの列がいくつも横に並ぶが、さらに全く新しい列を挿入しなければならないこともある。既存の人事評定科目に当てはまらない「事情」の列。
「いえ、私は結構です。でも、有難うございます。失礼します。」
 薦めたスーパードライを固辞して今帰って行ったウルフカットの亜実ちゃんのためとりたてて新規の列を挿入する必要はない。要するにこのホテルにはここなりのかなり広い許容範囲で事情を呑み込む女子力がある。事情を忘れる時間を提供している。その時間に身を浸すつもりになるか、身を浸す必要があるか。毎日、事情は自宅に置いて皆出勤してくる。置き配のように支配人席に事情を置いて行ってもらっても、困る。あの亜実ちゃんは、ココアブラウンのウルフちゃんはどうなるかな。
 基本給はグランホテル群の足元にも及ばない。その代わり、勤怠評価や職務職能給・職務職責給に加えて、満室手当や深夜手当、月間目標占有率達成手当やホテル会員新規獲得手当などいう細目に分化された実績に応じて個人またはチームに副次報奨金が設定されている。配偶者控除を受けられるように103万円以内に収めたい主婦のパートより、自分の年金を積み上げておきたい女子や、自分の面倒をいったい将来誰が看てくれるのかという不安を持った45歳手前の独身で何ら技能資格のない女子がメイクの正社員に応募してくる。
 例えばタボのように。自営のため厚生年金に加入していなかった世帯主と子供を同時に若くして失った寡婦をこの国の社会保険制度はサポートしているとは言い難い。だから最低限自分の社会保険を少しでも自分で確保するしかない。でもね、ウルフちゃんにはまだ遠いこと。ホンモンの指輪が目下重大な事情であるウルフちゃんには。
 事情があるから応募してきていることは言わなくてもわかっている。要はそれを何とかする気があるなら、業務に没頭するのが一番の方法論だと陽子は今でも思っている。支配人陽子は仕事に救われたと思うことが頻繁にあった。事情を忘れていることが多いほどの仕事量で、多忙とはこのことだといつも思っていた。タボのネーミングをしたのは自分だったが、それは誰も陽子をそのニックネームで呼んでくれなかっただけで、本来自分のことだと思っている。
 サービス業という流れ続ける川の只中に身を投げ入れるだけで、どのみちすぐには解決のない事情も、無理なくやり過ごすことができる。知らぬ間に時間が流れ、川の中の確執という岩が砂になる。家族を失ったタボの事情も、もちろんウルフのホンモンの金の指輪も。コマ送りのように陽子は、宿泊客や社員の数々の事情を、流れに乗せるだけでよい。そして、水は絶やさず、急流にならぬように。そうしてきた。
 社員も日本人とは限らなくなってきている。一昔前なら夜の街や不法労働のイメージに直結したアジア諸国から、最近では正規の若い女性就労者が求職してくるのが当たり前になってきた。アニメの影響か、ネットの力か。日本大好き、「ニホンゴマッタクモンダイナイネ」レベルを凌駕する、支配人陽子が納得ずくで採用できる女の子が現れることがある。リムもその一人だった。
「リムちゃんさァ、ニッポンの昭和って知らないでしょうが。」
「知ってますよ。」
「じゃ、どんなの?」
「会社命の支配人。このバカでかいコピー機。このハンコ押すとこだらけのリンギショとか、絶対座っちゃいけないフロントとか、この古い書類だらけの狭い事務所とか、だって椅子でこう伸びをすると手が壁にぶつんですよ、ホラ!こっちに伸びすると、このコピー機がぶつ!まだたくさん言えますけど?」
「手が壁にぶたないの。ぶつかるの。コピー機にぶつかるの。」
「それにフロントの女子のこのピンクのセーフク。昭和の頃あこがれの職業だったバスガイドさんたちのセーフクに似てませんかァ?この前テレビの特集でみた・・・。」
 リムが立ち上がって掌を返してバスガイドのあちらをご覧くださいポーズを取る。
「支配人はいいですね、スーツだから。この前、香港の団体の男性のお客さんに何て言われたか知ってますか?」
「何て?」
「ピンクのMao Suitsかって。」
「マオスーツ?」
「中国の人民服の中山装のこと。」
「ありゃ。そう見えるのかしらね。じゃあ、どうせだったら肩パットの上に金の房が付いたエポレットでも着けようか?確かトップガンのトム・クルーズが着ていたハードタイプの肩パット。かっこいいじゃない。」
「やめてください。」
 十子がフロント中央のPCに人民服を着た中国人家族のセピア色のアンティークな肖像写真を検索して映し出していた。
「胸ポケットが二つあるのがよくないのかもしれませんね。私は機能的で気に入ってますけど。」
「ほらね。リム。気に入ってる子もいるのよ。客受けだっていいのよ、結構。」
「まあ、お客様、ほとんど昭和生まれですし。」
 リムが人差し指を十子の方に向けて、その発言がまさにその通りだとJRの車掌の指差喚呼さながらユーゴットイットの仕草をする。座ったままのけぞり、わざと後頭部をうしろの壁にウリウリ押し付けていた。
「そう!いちばんショーワを忘れてた!お客様!それと、トム・クルーズだって、もうアメリカのショーワです!」
 陽子の眼圧に押されてリムは姿勢をそろそろと元に戻し、その日リムに課せられていたA勤務の会計事務に戻った。十子は人民服のサイトを閉じ、空間除菌用の業務用弱酸性次亜塩素酸水のネットショップの検索を始めた。マウスを使わず、ショートカットキーでWeb内を移動するのは難儀で、慣れないままタブキーを連打せざるをえない。カーソルが行き過ぎるとShiftしてTabを打って戻らなければならない。時短のため、マウスからキーボード主体の入力事務が求められていた。ほとんどの技能をこなす十子だが、まだ慣れず、カーソルが画面のどこかに飛んで消えて見当たらない。
「でもエポレットはちょっと・・・」
「そう?」
「昭和のチンドン屋になります。」
 陽子はすでにどうでもよいことを聞き流すモードへ切り替えに入っていた。スリープ画面を起こして本社から送られてきているコロナ関連記事のリンクをクリックして読み始めている。中国人は蝙蝠まで食べるのか。象の鼻先や熊の左の掌、猿の脳味噌とか。アジア各国の断崖絶壁の穴燕の巣を命を賭けて採り、高く売る。バブルたけなわの新入社員の頃、同期と一緒に会長に銀座の高級中華レストランに呼ばれた。巣作りの際の燕の唾液に含まれるシアル酸が美肌を作りアンチエージングと抗ウイルス効果があるという説明がメニューに書かれていた。燕の巣ならもう十年近く実家の軒下にある。縁は白く積年の糞で固まっていた。燕の巣やフカヒレぐらいならまだ辛うじて抵抗はないが。蛇やマムシあたりになると食欲がなくなるのが普通ではないのだろうか。武漢の市場の映像で見たことのない爬虫類が食用で売られている実態は確かに観た。食べたことのない、食べる気にもなるはずのない生き物で溢れかえっていた。籠の中と地べたで蠢いていた。
「ねェ、蝙蝠なんか、だいいち気味悪いじゃない・・・。」
 リムが中国人であることを思い出してそこまで声に出して言って、陽子は口を緘した。よく考えると別に中国だけではない。ドイツにバレーボールの強化試合で遠征したとき、肉屋の店先に豚の頭が置かれていたことを思い出した。豚の足も。ゲルマン民族が狩猟民族であることを思い知った。この肉食の民族にとって断食とは謝肉のことであって、肉を絶つことが普通の人には耐えがたいことなのだと、カーニバルは、ラテン語でcarnem levareという肉を除くという意味で、村人が集まって豚を屠殺して皆で食べることが最高の楽しみであった民族にとって、年に一度の謝肉は神聖な儀式なのだとドイツかぶれの監督が言っていた。そもそも肉食を避けてきた我々の食文化と肉の立ち位置が全く違う。この豚の頭は、この民族にとって最も美味しそうなものなのだ、と。
「一体誰がなぜ最初にカニとかロブスターとか食べる気になったんでしょうかねェ・・・。相当飢えていないと・・・。だいたいどうやってカニの足とか剥いたんでしょう。中身があるってよくわかりましたよね?」
 十子は画面が陽子に見えるようにモニターの回転台を回して飛沫防止ビニールカーテンのamazon primeのnet shop画面を手慣れたマウスの方でスクロールしてゆく。シートはそれほど高価なものではない。
「そうね、貝だけじゃおなか空くでしょうね。」
 十子のキーボードに脇から腕を伸ばし、陽子はタブキーを押しっ放しにしてショップのサイトの最下段の飛沫防止透明ビニールシート4.5 x 6.0 mのところで止める。Tab操作は先週の支配人研修で覚えた。うまくいった。
「飢えているからってばかりじゃないかもね。特に今の時代。この前息子が揚げたゴキブリを食べる日本の女の子のYouTubeを見てたわ、そういえば。」
「げ!」
「了解。そのビニールシート四枚発注していいわよ。頃合いを見て、みんなでうまく吊るしましょ。あと業務用アルコール除菌液もお願いね。」
 amazonからは発注翌日にシートは届いたが、実際に設置したのは実は年を越えて二か月近く経ってからだった。いつまでも十子の提案は棚上げされたままだった。ウイルスなどに集るのは軟弱者、ニッポンはダイジョウブという陽子の不屈の大和魂はなかなか折れなかった。
「まさかうちの方まで来やしないわよ。中国やヨーロッパの話じゃない。」
「中国や台湾の団体客は受けるんですか?」
「予約来てるの?」
「じゃらん経由でまた入ってます、来週。」
「今、稼働率は?」
「今月は今95%前後です。」
「この前のなんていったっけ、そうそうSARSって流行ったじゃない?あれも中国だっけ?リム?」
「あれは広東州とそのあと香港。」
「こんどのコロナは香港も?」
「何か香港と台湾は封じ込めに成功しているってCNNで言ってましたけど。」
「そう。じゃ中国の業者だけ切ろうか。痛いけどね。SARSの時ときっと同じよ。いずれ終息するから。」
「あの、例のシート来てますけど・・・。」
「濃厚接触しなければいいらしいわよ。」
 リムが後ずさりをする。
「濃厚?セッショクしない?」
 十子が笑う。明らかに中国人リムの鼓膜を通じたカナ音声と、脳が返した意味とが符合せず、リムの見開いた両目から疑問符が飛び出している。語彙にない。十子にもその違和感はよく理解できた。どこの誰が得意になってこの奇天烈な造語をしたのか知らないが、マスコミもこのおとなの隠語の語呂合わせが市民権を得ると確信したらしく多用している。なるべくなら人と人が1m以上の距離を確保することが望ましいとする曖昧な新型コロナウイルス感染症対策本部のアドバイスとこの新語のメタファーの乖離が国民に対する分かりやすい情報提供や呼びかけの「標語」に最適だとニヤリとしたに違いない。セップンもセツゴウもコヅクリもノーコー。子供がノーコーって?と訊いてくるに違いない。ママが子供を引き寄せて抱きしめる。
「こういうこと!」
「(ぎゅっと抱き締められたまま)え?このだっこもだめなの?」
「そうよ、だめなの。でもママとならOKなの。」
「ふーん・・・。でもならいいや。」
「そう。うちには関係ないの。」
 十子の説明を受けて、リムは大げさに見開いていた両目をほぐしてからウインクを返した。
「ダンナさま、きっと悲しむ。」
 陽子はツベルクリンを打った世代は免疫があり、感染リスクが高いのは喫煙者に限られるというネット記事を拡大コピーしてフロント・スタッフ用の伝言プレートに貼り出した。
「取り敢えず本社からマスクが届いているから、マスク着用でフロント対応することに理解をしてもらう注意書きを作りましょ。シートはわかるけどうちには怒り出す客もいるだろうからねェ。特に常連さんや『住んでる人』たちの反応が目に見えるしね・・・」
「キトウさんなんかシート引きちぎりにくるかも。」
「何じゃ、これは!ワシがコロナに感染しとるっちゅうのか‼ってね。」
「そうよねェ。ひっぺがしかねないわね。」
「でも、手をさわさわされないですみますよ。仕切りがあれば。ほんと気持ち悪いんで。」
「それ、十さんとマチにだけ。キトウじいが手を握りたがるの。わたしはされないんで助かってまーす。」
「セクハラ対策として、フロント・スタッフに結婚指輪や彼氏いるわよリングの着用を許可して頂けませんか?」
「はめてたって、あのひとはさわるね。きっと、十さん、好きね。」
「(身震い)勘弁してほしいです。」
「これからは、なるべく手はそれでスプレーしときなさいよ。」
「とっくにしてます!」

 まだ正月気分が抜けきらない頃、フロアーの自動販売機で購入したビールを飲んでいたビジネスマンたちの輪から「えー⁉ほんとかよ‼」という驚きとまさかというトーンの否定嘆が沸き上がっていた。ポテトチップスと柿の種を取り合う手が止まって、全員が大型テレビスクリーンを注視していた。
「武漢の交通機関閉鎖。新型コロナウイルス、死者17人」
 12月に新型ウイルスの可能性を指摘していた8名の中国人医師たちのチャットが閉鎖され、眼科医李文亮氏も警察当局から「社会秩序を乱す」「デマを流した」などと厳しい譴責や訓戒を受けたことも併せて報じられていた。突然リムがフロントを出て、客に混ざって同じ画面を食い入るように凝視していた。丁度リムと交代するため休憩から戻ってきた副支配人の万智がフロアーを通りかかり、リムを見つける。客の群がっているテレビからリムを引き離す。
「どないしたん?顔青い。中国はえらいことみたいやね、コロナで。心配なんや?」
「わたし、有給休暇。あさってから。」
「まあ、おうちで休んでなさいってことやね。」
「それ、困ります。フライトも取ってます。」
「飛行機?どこ行くん?」
「お母さんに会いに行きます。わたし一人でも行く。」
「あんたまさかこの時期に中国へ⁈」
「春節ですよ?日本のお正月だって仕事で帰れなかった。わたし今度は絶対行きます!」
 リムは行けなくなることを惧れていた。このところのコロナ禍の拡大に一番やきもきしていた。理由があってずっと離れ離れの母親と国の正月には帰る約束をしていた。二十五時間勤務の中で許された二時間の休憩時間が二回あるが、このところリムは遼寧省の母親とFace Timeで食事休憩の時も、ビデオ通話をしていた。中国語に日本語の混ざる親子の会話から内容が同じ狭い休憩室にいるスタッフにも若干は推測が付いた。もうすでに武漢市へのアクセスが制限されていて、今後どうなるかわからないから、念のため地元警察から通行許可証の発行を母親が申請してみること、逆に特に日本再入国が却って大変かもしれない等々。
 リムの真顔と静止して瞬きのない直視。万智には結婚していた大阪の商社マンの夫と10年住んでいたカリフォルニアで中国人の知り合いも多くできた。だから万智には、リムの決心の度合いがすぐに感取できた。日本人なら、一瞬相手の視線を捉えて「本気よ、わかるでしょ」と意をこめてから、目をそらす。「それがわからないなら、仕方ないわね」。そしてそっぽをわざと向く。リムはずっと副支配人の万智を見ている。中国人の意思の明示。ここでおしまい。ここからは私の「(ゥォ)」で譲歩はない。あなたの領域ではない。その目はシフト表作成が職責の万智から、リムの中国渡航の件はすでに了承したと支配人に言ってほしいと明白に切願していた。
「コロナ、流行ってんのとちゃうの?封鎖されてへんの?」
「お母さんたちは遼寧省で湖北省から2000キロ離れてるから。電話でも全然大丈夫ってお母さん言ってる。」
「2000キロかァ。中国は広いしな。気―付けてね。」
「有難うございます!」
「帰ってくるんね?帰ってこれるんやろね?シフト変えへんよ?」
「死んでも、ぜったいに帰ってきます。ダンナさま、悲しむ。」
「何言っとんねん。死んだら帰えれへんやろ。リムの死体が帰ってきたかて、どないするん。」
「ぜったい死にません。」
「当たり前よ。あんたが帰って来ーへんかったら、死ぬんはうちらやで?なんせ、ギリでやってんの知ってるわよね?リムなしでは回りません。頼みます、元気で戻ってきて頂戴。支配人には言っときます。」 
 
 リムが中国に発った直後から、濃厚接触とは何かなどと嘯いていた他人事が、武漢市の都市封鎖がなされ、横浜で豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が毎日のように報道され、防護服を着用した物々しい検査官や医療従事者がフレームが全く見えなくなるまでテントで覆い隠された巨大なフロート・ポンツーンを潜って船に出入りしている非日常的な光景や、特別チャーター機で武漢市から邦人が帰国し始め、医療先進諸国と見られている遠いヨーロッパのイタリアのミラノ周辺での爆発的感染拡大や死者の累積、武漢市の病院内での阿鼻叫喚の地獄絵がニュース映像として映し出されてから、その事なかれ主義が一変した。認識が甘いかもしれない、と。中国に出張していた亭主は大丈夫か?うちは本当に関係ないのか?感染したら、すぐ死ぬらしい。武漢のコロナを発見した若い中国の眼医者まで隔離された。看護スタッフが防護ゴーグルをしたまま階段の下で蹲っていたぞ。
 マスクとトイレット・ペーパー、消毒用液や漂白剤がマツモトキヨシの棚から忽然と消え去った。昼のワイドショーで納豆が免疫に効くと取り上げるとサミットから納豆が消え去った。2万円のマスクがネットで販売され、中国産の携帯用スプレー容器がダイソーの品揃えから消えた。中国に発注していた大学の卒業アルバムを入れる不織布バックの納入が不可能となり、卒業式そのものの実施が「三密」を理由に疑問視され始めた。「クラスター」と「三密」の新成語が「濃厚接触」を上塗りして各都道府県知事や厚生労働大臣や新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の構成員たちの口から毎日ことさら発語されるようになった。
「個人タクシーが屋形船で新年会やって、感染しちゃったらしい。」
「酔っぱらって抱き合ってたんとちゃうの、おっちゃんばっか。」
「密室で濃厚接触。」
「まァ、あかんやろな。」
「聞いてるだけで唾が飛んでくる・・・。」
「匂ってくるね、なんか・・・」
「マスクなんかほかしとるに決まってるしね。」
「とーぜんでしょ。」
「飛び散って充満しとる、きっと。」
「やっぱ、空気感染するのかもね。」
「たしかに・・・。」
「クルーズ船で感染してるって人たちさ、他人同士やろ、別に屋形船のおっちゃんたちみたいに唾とばして、いちびっとったわけとちがうやろし。」
「だとするとマジやばいかも、コロナ。」
 接触しなくても、場合によって飛沫がエアロゾル化して空気中を浮遊して感染したと思われる症例が報告された。また陽性者で無発症者からの感染も感染経路の一つとして浮上していた。病院・高齢者介護施設・障害者施設・ホットヨガやフィットネスクラブ・パチンコ店・夜の街や飲食店でのクラスター発生が次々に公表されはじめ、法改正なしでは不可能と思われていた日本でのロックダウンの蓋然性が少しづつ現実味を帯びてきていた。海外からの帰国者や一時帰国者のPCR検査が義務化され、陰性者でも自宅またはホテルで二週間の検疫期間として自主隔離が課せられ、再検査後陰性を確認出来て初めて日常生活に戻れることになった。
「リム、つかまった?」
「昨日の便で羽田に戻ったようです。」
「で?」
「PCR検査で検体を取られて、やっと今朝になって羽田のホテルで陰性だって知らされたらしいです。入国制限対象地域からの帰国者なので、二週間自宅で自主隔離する必要があるって。『ダンナさま』が車で迎えに来てくれたって。」
「ったく。なんでこんな時中国行きを認めちゃうの。でもよかった。」
「シフトは暇な他店からヘルプを回してもらって埋めますから。リムは有給あと8日残ってますし?どないされます?本人はそれでもしゃーないけどって。里帰りを許してくれたしって。そうや、それから一応みんなにたくさんお土産買うた、支配人のためには月餅を仰山買うたって。これ、Lineで月餅の写真届いてます。『消毒済!』のスタンプがほれ、チカチカと・・・。」
「(月餅の写真をチラ見して)病気休暇制度でやってあげて。元気で戻ってくれてよかった。それより浴びてきた菌を徹底的に洗い流してから出勤してって言っといて頂戴。」
「ですよね・・・。」
 陽子は読み終わった本社から参考資料として添付されてきた「新型コロナ治療薬・ワクチン開発の進捗に関して」と題されたある旅行会社の社内向けレポートのコピーを万智たちに渡して、事務室に入っていった。
【まず治療薬に関しては治験は始まったばかりで、まだ承認されるまで相当な時間を要するであろう。いくつもの既存薬が候補として各国の薬品会社から公表されてはいる。関節リウマチ薬のBaricitinibという抗炎症剤やデキサメタゾンがサイトカインストームという免疫細胞の暴走による肺などの健康な細胞の誤破壊を抑制する等々。問題はCOVID-19ウイルスに感染している現在の患者たちにその薬品を投与した治験データがまだないことだ。次にワクチンに関しては、米PhizerやModerna、Jonson&Jonson各社や英AstraZeneca社、中国のSinopharm社等が着手したことを発表はしている。目下、ドイツBioNTechs社のシャヒン夫妻のmRNAを用いたがんの免疫療法をPhizerが後ろ押しして開発中のワクチンが先行していると言われているが、まだ初期段階で未知数といえる。
 尚、日本国内の内製化はまず不可能と考えている。日本脳炎やインフルエンザで死亡例が出て、メーカーも国も敗訴してから、新規核酸送達技術を用いたワクチンの開発に主体的、先駆的に着手しようとするメーカーはないと思われる。石橋を叩いてからの参加となるだろうから、まず目先は期待できない。国も後押しは決してしないだろう。
 抗体となる血漿の量も、ウイルスの弱毒化の可否も加減も投与の頻度・投与後の検証結果もまだ足りるはずはない。マスクの着用の是非ですら、各国首脳のスタンスはまちまちであり、ホテルやパブを閉める国と持続化可能な集団免疫戦略で開け続ける国と試行錯誤と分化分裂の最中である。この状況で、早晩この感染が収まるという楽観は抱くべきではないだろう。
 日本では今週初めに新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の意見として政府から『不要不急の外出を控えてほしい』旨の要請が国民になされる予定である。当初は要請でツーリズムを法規制するものではないが、緊急事態宣言や東京首都圏の都市封鎖も大いにあり得ると考えられる。】                                          

「不要不急ってさ、要するに、うちらにどないしろって言ってるのかしら?」
「フヨーフキュー?」
「仕事以外は家を出なさんなってこと。」
「私は二週間フヨーフキューでした。ダンナさまといっしょで、フヨーフキューはよかったね。」
「リムちゃんね、やっぱ有給削っとくわ。」
 陽子が支配人席でうなっていた。本社と電話すると大抵少しうなるのだが、明らかに皆に話しずらいか、不平反発が予見される本部の通達があると、いつもうなり声が断続的に何回にも分けて聞こえてくる。内容を改めて思い起こす度に、また繰り返して、同じようにうならざるを得なくなるのだろう。陽子はまだうなっていた。フロントに立っているリムと万智と、今チェックインをしている常連客の富田にもそのうなり声がバックヤードの奥の方から聞こえてきていた。
 富田はフロントが『住んでる人』と呼んでいる客の一人で、通称トミーさん。「さん」付けは珍しく、従業員受けが良い客の最高ランク付けと言ってよい。有名アニメの例えばセーラームーンなどのシナリオライターで、パントリーのキッズコーナーの窓枠に並んでいるセーラーマーキュリーやプリンセス・セレニティのドールはこのトミーのホテルへのプレゼントだった。本社の年に一度の全館チェックの日にだけ、支配人が段ボールに入れてそそくさと隠すが、ほぼ圭太という男子フロント・スタッフの宝物になっている。まかり間違って宿泊客の子供が手に取って遊び始めると、圭太の額に汗が浮く。こいつらはいずれレアものとなってプレミアムがつく。いずれネットに出せるだけの値打ちものになるものだ。時々窓際に立って腕を組んでいるが、外を見てアンニュイと哲学しているわけではなく、ダル美少女戦士セーラームーン、セーラーちびムーンをただ愛でるようにじっとみつめているのだった。
「どうしたの、支配人、なんか奥でうなってますね。またなんかあったかな?」
 富田はフロント・カウンターを抱え込むようにして乗り出し、奥の事務室を窺うふりをする。万智が支配人席の方を身をそらして覗く。陽子のうなり声は止まず、事態の重大性に気づいたら早く事務室に来なさいよ、というシグナルにも解釈できた。
「富田様、今回は三週間のご滞在のご予定でしたね?」
「今回はね。俺のことはいいから、支配人のとこ行ってあげなさい、あれは呼んでるよ。」
 デスク上のトミーのチェックイン・プロトコル一式をリムの方に押しつけて、万智は事務室へ向かった。「政府が軽症の感染者と感染の疑いのある帰国者や感染していても無症状の患者を受け入れるホテルの一棟貸しを打診して来てるんだって。内密に。」
「え?うちにですか?」
「うちだけじゃないらしいけど・・・。」
「そやかて、うちら病院と違いますから、無理ちゃいます?」
「その病院の病床が都ではもうじきに足りなくなるらしいの。グランホテルたちは当然断っているに違いないし、でシングルルームの多いうちみたいなところに白羽の矢が立ったんじゃない?」
「うち稼働率は首都圏でトップクラスですよ?もう予約で相当埋まってます。それをキャンセルなんかできしません。一般のお客様の予約が少ないほかのとこを一棟貸しされたらどないです?」
「成田と羽田はもう今月末から二、三億円で契約したらしいの。」
「スタッフは?」
「正規は在宅に切り替えて、基本給のみ支給で、臨時とバイトはとりあえず休職扱いか辞めてもらうらしい。ホテル側からは二名常駐で設備のメンテナンスだけに対応して、軽症感染者受入の場合は、対応は日中に常駐する医師と24時間態勢で看護師チームが全部やるそうよ。清掃はうちが自前ですることになるらしいけど、館内や客室の消毒はプロの業者に外注するって。」
「食事は?」
「自衛隊や政府の指定業者が運んできて、それをドア前に配るって。」
 万智が支配人席の後ろのサッシをこじ開けた。防犯のためだけではなく、冬場には氷柱が垂れることもあるほどの冷気を遮断するため、わざと内窓インプラスの向きが入れ違いにはめ込まれたその二重サッシを従業員が開けることは滅多になかった。頻繁にタボたちメイク・スタッフが複層ガラスとフレームをスプレーして掃除するためか、その洗剤がサッシの三日月錠に固着して通常の指圧では回らなくなっていた。それを一気に音を立ててこじ開けた。
「ちょっと、寒いじゃない。」
「支配人。頭冷やしてください。」
 三峯神社の古い護符の火防盗賊除け御眷属拝借之札を結わいて垂れている長い紅白紙縒の帯紐が、事務室に突如流れ込んできた冷たい風に揺れて護符の表面をなぞってカサカサと細かい音をたてた。オーナーがホテル新設開館の日に持ち込んだ護符で、獅子や狛犬ではなく、一対の狼が墨で描かれていた。右は細長い口を開け、左が口を閉じた一対の阿吽の狼の墨絵。
 お釈迦様の足元の二頭のライオンは、エジプトでスフィンクスになり、日本では清少納言の頃、木彫りの獅子と犬だったものが、この聖獣はさらに時代と各地を巡り、宗教を越え、三峰山では神社の石彫りの一対のニホンオオカミになった。別の地ではキツネ、牛、兎に変身している。
 拝借之札だから毎年三峯神社に返納して初穂料を納めて新しい護符を改めて授かるべきなのだろうが、その時間はホテルのスタッフにはなく、「俺は送りオオカミとして送っただけだから気にするな」というオーナーのダジャレと、絶滅危惧種のニホンオオカミは絶滅したのでホテルに居ついてもらってもいいだろうという初代支配人の同語反復を根拠に、爾来事務所の神棚に立てかけてある。その神棚には、十子がスペインで買ったマリア様の木彫りの小像やリムが沖縄から持ち帰った極彩色の玉乗りシーサーのミニ置物と圭太のブリキ製の鉄腕アトムのフィギュアも並んでいる。各自の八百万の神が祀られている。
「その常駐の二人の一人にはなれしません。すみませんけど。」
「どうして?」
「うち、おばあちゃんもまだおりますし、持ち帰ってコロナ移して万が一往生されたらどないします?もろ後期高齢者、尿アルブミンが300近辺でトーニョーセー・ジンショーのケンセー・ジンショー第三期で、透析一歩手前です。きっと死んでしまいます。うちのせいで。」
 荒川の岩畳の谷底から渓流の音が聞こえてくる。谷風が運んでくる。山の上はまだ明るい。風は谷山に沿って明るい方へ抜けてゆく。岩は凍るのだろうか。川の流れから生まれた風は、両岸の河成段丘の剥き出しの岩盤のトンネルを抜け、凍った結晶片岩の秩父赤壁をせり上がって、青空に吹き抜けてゆく。山に陽が差す真冬日。白亜紀からこうしてプレートは水と風に浸食され続けている。流れの音ではない。風の音。風自身の音。水と岩と山の樹々と幾億本の枝を抜け、流れが呑み込んだ生き物すべての気配を内包した太古の昔から聞こえていた風そのものの音。
「それはそうね。」
 陽子は万智の方ではなく、ずっと小刻みに護符の古紙を擦り続けている帯紐の音のする神棚を見上げたまま風の音を呑み込むように聴いている。陽子に静けさがコトンと落ちた様子が万智には分かった。あのサッシ窓を開けたのは良かったかもしれない。
「十ちゃんを呼んでくれる?」
「はい。でも、十子だって困ると思いますよ・・・?」
「そうじゃないの。」
 フロントではトミーとリムが小さな口論となっていた。万智が割り込む。
「どないされました?」
「いや、まァ無理なら仕方ないんだけどさ・・・。」
「何がでしょう?」
「いや、俺もさ、もう一見じゃなくてさ、長い客なんだから、特例があってもいいんじゃないかって思うわけですよ。」
「今回は三週間でしたよね、いつもありがとうございます。」
「結構今回は本や資料を持ち込むし、それを動かしてもらうと仕事がやりにくくなっちゃうんだよ。ほら、こう右手を伸ばすと池田理代子のベルばらの第三巻28ページ、左手を30度後方に伸ばすと吉田秋生のBanana fish、45度には魔夜峰央のパタリロとか、その日その日の配置が精密な分度計のように決まっていてね・・・。」
「狭い部屋でご不便をお掛けします。」
「その狭いのがいいんだけどさ、俺の仕事には。ベットがだから手のすぐ届く資料棚なわけ。」
「絵コンテがテレビモニターにもセロハンテープで時々貼ってありますよね?」
「(笑う)あァ、そうね、ストーリーボードね。部屋のテレビも大きいのに買い換えてくれると嬉しいかな。もっとたくさん張れるし。」
「触らないようにメイクには言ってあるはずですけど?毎日のお掃除はバスルームだけ。何か手違いがありました?」
「毎週日曜日に部屋を変えて引っ越しするのをもう勘弁してほしいんですよ、できれば。引っ越しのたんびに、資料を慌ててまとめて、探してまた広げてというのがちょっと面倒なんですよ。」
「タボさんに日曜日いつも追い出される?」
「そう!入って来た途端、窓とドア全開にして、この前なんか俺がモタモタしてたら、シャワーヘッドをこっちに向けて脅された。」
 笑いながら支配人の陽子も事務所を抜けバックヤードからフロントに出てきた。少し鳩胸にして黒スーツのジャケットの襟を両手で交互に伸ばしてから富田に目礼を送る。丁度十子が背後に来たので、リムと交代するよう陽子は後頭部を軽く振って指示をする。
「富田さんにはれっきとしたご家族の住む、帰るご自宅がおありですから当たりませんけど、今流行のアドレスホッパーとかノマドライフの方の中には半年の契約書に捺印を押して、まず二週間分ほどの前払いだけして、住民票を移してホテルの部屋を固定したまま行方不明になる方が特にこのところ業界で問題になってまして。その皆さんがそうだというわけではありませんけど。レアケースとはいえ、ホテルとしては大変問題です。」
「へェ。そんなこともあるんだ?」
「部屋付で個人宛の住民税の普通徴収の税額決定通知書やら国民健康保険の納付書やら、消費者ローンの督促状なんかも次々届いたそうで・・・。そうなるとうちの系列だけでなくホテル業界全体のUG情報に登録されることになります。」
「ユージ―?」
「Undesirable Guestのことで、宿泊頂くのに好ましくないお客様のことです。」
「なるほど。わけあって住民基本台帳にホテルの部屋を住民登録して、しばらくして消えちゃうわけだ。」
「うちは前金ですから損失はある程度コントロールできますが、やはり一週間で区切るということとお部屋の固定はしかねるという本社の方針ですので、なんとかご理解いただければ。」
「でもさ、支配人、俺の素性は知ってるわけだし、住民票も移してないしさ、今三週間分全額前払いしますしねェ・・・。」
「わかりました。二週間は同じ部屋でステイということで。三週間目には別のお部屋に移ってください。」
「あ、そ。有難う。ちょっと出世したって感じかな。まァ、セーラームーンの三日月の魔法の杖が利いたぐらいかな。残念ながらまだ満月って感じじゃない。」
「十ちゃん。」
「あなたの腕時計、たしかムーンフェーズ見れたわよね?」
「はい。」
「今日は?」
「月齢2.5の三日月です。」
「富田様。三日月で正解だそうです。」
「ちょっとさァ、合ってんのかなァ、十ちゃんさんのその時計。」
「さァ・・・。時刻はあってます。」
「でも2週間ですからね。ご了承ください。」
 陽子は富田の後ろ背に声掛けして念を押した。横に居る万智と十子にも言い聞かせるつもりでもあった。陽子には二週間の特例に根拠があった三週間ではない。却ってこの先二週間は客室移動がない方が有難い特殊事情があることを二人はまだ知らない。富田は玄関ホールを横切り、パントリーのキッズコーナーの窓際まで恐らく漫画本の詰まった重そうなトランクを引いて行った。立てかけてあったセーラームーンSピンクムーンスティックを手に取り、振り返りざまにその魔法のスティックを肩の辺りでクルクル回した後、フロントの方に振り向ける。陽子は十子を連れてフロントからもう事務室に戻ってしまっていて、一人残された副支配人万智だけが作り笑いで応答している。そこにタボがモップとバケツを持って現れた。
「トミーちゃん、だめじゃないの!それホテルの大切な備品よ!圭太君が怒るよ‼もうアンタのモンじゃないからね!」
「あ、すみません・・・。」
 万智の爆笑を背に富田はすごすごとエレベーターに乗り込んだ。

「三日月ねェ・・・。」
 トランクのローラーがエレベーターの敷居のところで重い音を立てる。富田は胸ポケットを探ってエルメスの手帳を開く。カレンダーの日付の下に付された月齢マークを確かめる。なるほど。手帳を納めてから宿泊階の6を押す。伸びた左腕にミッドナイト色シリーズのapple watchのアロイが露わになる。5時10分。ふと十子の時計のことが気にかかる。まてよ、あの時計。月齢2.5とすぐに読める腕時計はそうそうない。ムーンフェイズがはめ込まれて、ある程度の月相が月の顔で小窓から覗く腕時計はたくさんあるが、太陰暦のひと月である29.5という数字を文字盤に刻印して、さらにそれを即座に正確に読めるように目盛りを振ってあるものは機械式時計でも珍しい。135歯で122.6年に一日の月齢誤差という高精度ムーンフェイズのA.Lange & Söhneですら、秒針盤と共用でムーンフェーズ用の目盛りはない。
 実はセーラームーンの延長線上で個人的に月や天体の運行のロマンを取り込む機械式時計の魅力の虜になった。時計の話なら、一日中できるぐらいに。
 発注主マリーアントワネットが斬首されてから完成したスイスの天才Abraham-Louis Breguetの懐中時計 Breguet No.160『Marie Antoinette』は、すでに王妃から発注を受けた1783年には、自動巻き、永久カレンダー、ミニッツリピーターの設計と製作技術を有していたことの驚くべき証拠だ。パリのシテ島の時計河岸39番地のアトリエの愛弟子たちに伝授していたに違いない。現物は確か何故か盗難後イエルサレムに秘蔵されている。自社に持ち帰れないで頭にきた現代のBreguet社がBreguet No.1160『Marie Antoinette』と番号を変えて復刻版を作製した。現在の技術を投入しても丸々三年を要したらしい。等々。
 猛烈な学究の末、欲しいと富田が結論した時計が、ULYSSE NARDINの『アストロラビウム・ ガリレオガリレイ』で、1000万円することを知り、全て諦め、ならば現代の技術の粋にしようとapple watchに落ち着いた。月の引力から富田は自らを解放せざるをえなかった。まさか数年分の印税を時計につぎ込むわけにはいかない。
 あれはBreguetのクラシックムーンフェイズ7787。ホワイトゴールドならステンレスにも見えるし、そもそもシンプルなデザインでBreguetという文字を間近で読まない限り、知らなければ、軽く300万円はする腕時計だとは一瞥でわからない。それを知っていてあのフロントの十子はなにくわぬ顔をしてどこかの無名メーカーの安物時計のように普段使いしているのか?あれは明らかに大きい方の男物。ただ、最近の腕時計はG-Shockあたりからユニセックス・モデルが主流で、女性ものも大きめで厚みのあるものが多いから違和感はない。
 何者だろうか。十子というフロント・・・。そうだ。魔法の腕時計なら面白い。セーラームーンが魔法の時計を使って、時空を駆ける。いや、待て待て、もう陳腐かもしれない。富田は部屋に入り、まず仮眠をとることにした。

 フロントから事務室に戻るなり、間髪を入れず陽子は無機質に切り出すことにした。一度タボもバックヤードの敷居を跨いで事務室に足を踏み入れたが、陽子の後ろ背の気配を気取ったのか、何も言わずまたモップを担ぎなおして出て行った。
「十ちゃん、例の飛沫防止用の透明のビニールシート取り付けていいわよ。でも善は急げで明日中にやってくれる?」
 十子の警戒心を解くことが第一。ものを見抜く勘を持つ十子の先手を取る必要がある。
「そうですか。無駄にならなくてよかったです。分かりました。」
「あたしも手伝うし、メイクやパントリーのみんなにも言っとくから。」
「有難うございます。少し心配してました。市役所とかマツキヨやマルエツのレジもビニールシートで囲っているので。」
「ごめん。収束すると思ったのよ。」
「でも何でそんなに急いで取り付けるんです?日曜なら圭太君も出勤してるし、圭太君でも男手があると早いですよ?」
「この週末前にやっておきたいのよ。新人のイグちゃんなら呼びつけてもいいわよ。まだ試用期間中で過勤つかないし。」
「ま、色々他で取り付け方を参考のつもりで見てましたから、私たちでできるとは思いますけど。」
「あのね、日曜日に成田から20名、PCRで陰性だった日本人帰国者を二週間受け入れることにしたの。」
「まさか・・・ですよね⁈」
「一棟貸しで陽性の無症状者を受けろって本社が言ってきたけど、さっき断固断ったとこ。うちみたいにまだ一般のお客さんが十分入っている店をコロナ病棟にしたら終息後誰も来なくなりますよって。」
 まず新型コロナ発生当初から感染している客の来訪に備えるべきと不安を訴えていた本丸の十子を落とさなければ、この一大事はモラルハザードの餌食となりかねない。世の一般的な従業員たちのコンセンサスが聞こえてくるようだ。 

【一棟貸しをして、最低基本給が保証された在宅扱いなら、それでいいでーす。コロナに集るぐらいなら却ってウェルカムじゃん。感染者を受け入れているホテルの求人に新規の応募者はそうそういないでしょうしねェ?私たちの替りはそう簡単に見つからないすよォー。クビにはそうそうできないでしょう?でも申し訳ないけど他でもバイトしますからね?まァ黙認してくださいよ。だって基本給だけじゃわたしたち、生活できませんから‼標準報酬月額ではなく、勤怠評価や時間外・資格・満室・深夜勤務・目標占有率達成等の諸手当や会員新規獲得などの報奨金がつかない基本給で生活できないことぐらい判ってらっしゃいますよねェ?いつまでだか期限もまだ判らない?じゃあ必要になったらまたご連絡をくださーい。待ってまーす!】

 十分予見できるこの従業員のモラルハザードへの陥没を避け、そこまでではないだろうという自分で集めたチームを信じたい気持ちもあり、なお且つ本社の意向も出来る範囲で受け入れるために整えた陽子の苦肉の策だった。このホテルが最後の居場所とタボが言っていたことがある。働ける場所しか自分には居場所はもうないのだと。そのかわり、誰にも負けないメイク・チームにするのが生きがいだと。自分の居場所の自分の生きがいだ、と。それがあれば家族の無い自分でも幸せだと。だから死ぬまで居てやるよ、と。
 いち早く新型コロナのリスクを皆に訴えた十子へのスタッフたちの傾斜はある意味今当然だが、そもそも十子は従業員たちの信頼度が高い。十子は他人のことを悪く言わないらしい。そのかわり荒れている酔っ払い客も、だめなことはだめですよと言い含めてしまうと聞く。ヨーロッパにいたから理詰めかというとそうではなく、十子の目なのだとトミーさんが言っていた。あの子の目には奥の方に氷を感じると。簡単に言うと、「今あなたがおっしゃっていることよりずっと大変なことが世の中にはありますよね。」といわれているような気がすることがあるらしい。スタッフはだからクレーム客は皆、居れば十子に任せてしまうという。その十子を説得する必要があった。外堀内堀を埋めている時間はない。十子とタボがさっき一緒に休憩室で話し込んでいるようだった。それも気になっている。
「それって、却って不味くないでしょうか?」
「何かは受けないと。やれる範囲で。日本が困ってるのよ。」
「ワン・フロアー貸しということですよね?」
「何階にする?」
「出入りはしないってことでしょうか?うち客室数が200未満でエレベーター一基ですから。仮に感染者がいてあの狭い中で一緒だったら・・・。出入り禁止を徹底しないと、うちでクラスターが発生することになりかねないですよ?」
「そうね。」
 事務室が冷え込んでいた。外窓のサッシとインプラスの内窓を陽子が閉める。川の岩畳は夕闇に沈み込み、陽は対岸の風布の丘の頂のあたりに差していた。岩の谷底から、夜に向けて日が岩肌を徐々によじ登ってゆく。風も岩壁を登ってゆく。そういえば今年は風布の農家からミカンが届かなかった。台風でやられたか。最上階の囲炉裏懐石『風布』の献立にも季節のお品書きにも水菓子としてまだこの冬風布蜜柑は取り上げられてはいない。フルメニューが滅多に出ないと料理長が嘆いていた。今月の家賃の支払いが遅れると言ってきた。カネの流れ。異変の気配かもしれない。昏くなってサッシの窓は鏡となって事務室の中を映し出す。十子の背後のフロントとバックヤードの間の戸口にリムとタボと万智が立っている。ヒトの流れ。異変が起き始めている。
「陽子ちゃん、うちも『コロナ・ホテル』になるの?」
「コロナ・ホテル?」
 タボに肘で促されてリムがiPadを陽子に手渡す。『コロナ 感染 ホテル』が検索ボックスに入力されていた。他社ホテルが軽度感染者の受け入れの打診を受けたことがホテル従業員専用の会員制ブログに掲載されていた。ブログの中だけのことだが、内部告発者が数行えぐい書き込みをしていた。

【我々のホテルチェーンの創業ファミリーは首相と昵懇であることは業界では周知のことで、泣きつかれたら人肌脱ぐかもしれない。億単位の取引でもある。小聡明いオーナー夫婦なら今後の売上の下方スパイラルを予見して誰より早く名より実を取り、誰もが嫌がるであろう感染者受け入れを故意にマスコミに周知することで、国難に犠牲を払うホテルという国民の憐愍を勝ち取ることを選ぶだろう。最悪、ホテル名はただで毎日報道される。
 土地所有率が3割にならない都内では、国税局の路線価で借地権割合が高く、新法で財産評価基準の底地評価が低い設定の地主に有利で事業用借地権者であるホテルに不利な借地に建っている店舗は、高い地代家賃を強いられ、売上利益率が低い。そうした店舗を何店かソーティングしてことごとく一棟貸ししてゆけば、コロナとオリンピック中止または延期の場合の打撃を予め補完できる。
 客室占有率の損益分岐点で、政府からもらう地代家賃と銀行の支払金利・ランニングコストのマトリックスを組めばよい。いつまでもつか。3カ月・客室平均占有率30%でホテルは潰れる。この機会に、全社的に従業員の合理化を進めるだろう。客足が止まるなら、従業員を切るしかない。しかし、スマートに。国家と会社経営の危機という名目が通用する。今なら明白な首切りの理由がある。転ばぬ先の杖。経営陣の声が聞こえる。みんな、気をつけろ。組合は団結しよう!】

「やっぱり、ネットは早いね・・・。あなたたちも・・・。」
 水は急流になりかけている。
「うちが受けるのは基本的に陰性の人たちだから、こことは違う。ドクターも看護スタッフも付かないし、食事は政府の業者が三日ごとに二週間ケータリングでフロアーに直接デリバリーする。『風布』にも朝食バイキングにも出入りさせないことにする。」
「部屋掃除は?」
「タボのスタッフには申し訳ないけど、例えば三日ごととかでお願いできない?徹底的に消毒液まき散らしていいから。」
 流れが変わるか。
「なんだったらほら金を溶かす液体、なんて言ったっけ、『王様の水』だっけ?頼んであげるから撒いてみる?」
「ああ、ショーサンね。だったら防護服の方が意味あるだろうね。冗談よく今言えるね。」
石が流れてしまった。投げてみた石。軽石のように浮いて流れた。
「ショーサン?」
 リムが怪訝な顔で例のリピートをする。ダンナさまとの愛の巣で使われる語彙ではないだろう。
「硝酸?」
 副支配人万智もきょとんとする。
「硝酸でコロナを殺せますの?」
 十子が吹き出す。
「硝酸は危険物の法定劇薬じゃないかと。無理です。濃さ次第できっと大変なことになります。」
 流速に変化があった。天然のリムが無事中国から復帰してくれて良かった。タボが金のエンゲージリングを右掌で軽く握っていた。
「冗談じゃない。」
「あたしも手伝うし・・・。ごめんね・・・。」
「そうじゃなくて、ショウサンのこと。」
「(安堵して)そっちのことか?」
 リムがまだ怪訝な顔をしている。
「ショーサン?キケンブツ⁈困るね?」
 まあ、いいから、場面が違うから、という風に十子が笑いながら手でリムを制止する。
「指輪してても、あたしは一人だしさ。集ったってさ、移す家族はいないからね。」
「タボさんはそうかもしれへんけど、リムにも、うちにも家族がおります・・・」
 リムが真顔に急変して万智の方を向く。万智の知っている中国人の「我」の表情で。
「私もほんとは嫌ね。でも大丈夫。私は強い。中国でもダイジョブだった。私も旦那様も若い。」
「それやったら、帰らんでええようにみなホテルに泊まれるようにしていただけませんか?いらんこと考えんですみますし。」
「それ困る。リムは帰る!」
「またあんたの『ダンナさま』かいな・・・。」
 流れがまた渦巻く。万智が手に持ったマスクのゴム紐の一方を人差し指にかけて、もう一方を引っ張り、スリングショット・パチンコのように構え、リムに照準を合わせている。十子がタボに目で何か申し合わせたような合図をする。
「だからさ、家族持ちはいらないんだよ。陽子ちゃんは手伝うったってどうせいつも初日だけ。臨時でリムや万智のメイクした部屋は毎回あたしがもう一回やってんのよ、知ってる?手抜きで話になんないの!二度手間になるからあんたたちはこっちから願い下げ!」
「随分言うわね、タボちゃん。あたしはこの前本社から急に呼ばれて・・・」
「また会議がきっと入る。間違いない。メイクのシフト表にぽっかり突然穴が開くのよ。ねェ、万智?」
「はい。」
「新人もフロントの子もいりません。そのかわり臨時とバイトも含めて独身やシングルの一人もののチームでそのフロアーはやらせていただきます。万智、独身者リストを作ってくださいな。あたしが口説くからさ。足りなきゃあたしがまた館外から掻き集めるしさ。それから三部屋づつやるからさ。その間の客の待機場所をどうするか考えておいてよ。まァ、一週間に二度、計四回が限度かな?でもその日、パントリーの手伝いはあたし出ないからね。食べ物だからね。トミーさんとかキトウじいも元気良くても年だからね、移したらヤバいしね。」
 予期に反して流れが収まった。
「これはまだうちだけ。羽田や成田は一棟貸しだからいずれ公表されるだろうけど、フロアー貸しはうちだけ。一般の宿泊客を全力でキープしないと。だからとにかく緘口令を敷いて、口外は絶対に控えるようにしてもらわないと。」
「(全員が)了解でーす。」
「辞める子いるかな・・・。」
「新人の二人あたりとちがいますか、目先。」
「亜実ちゃんと吉田君か。せっかくの二人目のフロント男子。」
「ウルフとイグ。」
「ウルフはわかるけど、イグって?」
「イグアナに似てるってタボさんいわはりまして。ね。ベットメーキングでベットに四つん這いになって乗っかってた吉田君が、イグアナそっくりやて。」
「圭太君はどう?」
「圭太は元は本社の人間だからね。」
「社命には従うか・・・」
「イグアナも狼も圭太もいりません。あたしたち強いシングルの人間だけでやります。やるときゃやるんだよ。何も感染者がいるってかぎったわけじゃないしね。十ちゃんがさっき言ったみたいに。万智もこれでいいでしょ。おばあちゃんに移さないように、十ちゃんとビニールシート二重に吊るして、マスク二枚してフロントに籠っときなさいよ。まずあんたが集らないようにさ。大学出は頭でっかちだから怖がりなんだよ。」
「あの、中国でホンモノの牛黄清心玉私買ってきた。コロナに効くらしいので怖いなら万智さん飲みますか?」
「何やそれ?」
「牛のGallstone。高い。」
「Gallの石って、要は牛の内臓の胆石?」
「蝙蝠だのセンザンコウだの牛の胆石だの勘弁してほしいわ。」
「中国4千年の知恵ですから。」
「あれ?3千年とちゃうの?千年増えてへん?突然。」
「4千年。」
「あんた飲んでんの?」
「いえ、まだ、ぜんぜん元気ですから。」
「いらんわ、そんなん。」
 笑い声が事務所に溢れた。本来なら寒がりの陽子がとっくに暖房を入れている夕刻だった。どうやら万智が温度設定を切った上でさっきサッシを開けたらしい。窓を閉めてもまだ部屋は冷え切っていたが、今は寒く感じない。それぞれが事情を抱えて乗り越えてきた。背水の崖っぷちで風を何度も受けて、独りぼっちになって。親に置き去りにされて。または幼い子供たちを抱えて。時給を数えてとにかく歩いて乗り越えてきた。今、陽子はホテルを出て、岩畳に一人立って川の音を聴きたい。一人一人の事情を思いながら。彼女たちの生活費をまずは確保できた。一棟貸しではこの皆の居場所はなくなり、チームは離散する。陽子の知らない別の岸壁を彷徨い、時給を拾いに行くことになる。この寒空に、かじかんだ手で。よかった。願わくば陰性者がみな陰性のまま早くバスで帰って行ってほしい。 
「コロナ・ホテルにはしないわよ。みんな。」
 支配人陽子が座ったまま皆に向けて敬礼をする。目から涙がはらはらと落ちてゆく。ばつが悪いが、仕方ない。拭わずに、敬礼したまま一人一人に目礼を返しているうち、号泣を抑えられなくなった。

 折しもプリンセス号乗船者から4人目の死者が出、2月28日には北海道で初めて外出自粛要請が発出されていた。武漢から970キロ離れた泉州市の新型コロナウイルス感染症対策の隔離施設として使われていたホテル崩壊のニュースの音声がまさにこの時フロントの方から流れて聞こえていた。席を立ち、ハンケチを握りながら陽子はフロントに向かった。