「何がGo to travelよ。強盗トラブルなんじゃない、うちなんかには。」
「ゴートー?」
「そう。強盗とか泥棒とか。だいち今だって警察に追われているような客が実際いるじゃん、まいんち。」
「まァね。」
「それにもろCフロアー客とバッティングじゃん、やばいよこれ・・・」
「完全なアクテだよ。」
「あとから決まったんだって、Go toが22日からって。」
「らしいけど、圭太先輩切れてた。」
新入研修を終え、正規新入社員としてフロントに配属されてからこの日初めて二人だけの単独ペアとしてシフトされたイグとウルフが、団体客のチェックイン・マークシートをあいうえお順に並べ、ルームキーカードをクリップで挟んで準備をしている。
「イグもしてみる?」
ウルフはマスクをしたまま目をつぶって顔に何かスプレーしている。
「なにそれ?」
「ウイルスをシャットするスプレーだって、万智さんからの差し入れ。」
「やる、やる。何でもいたします。はい!」
イグが目をつぶってマスク顔を突き出す。
「自分でやれば⁈」
スプレーをウルフが横手でデスクにわざと音を立てて置く。
「本当だったらオリンピックのまともな客で溢れかえっているはずじゃん。」
「まさかコロナで延期になるなんて、誰も思ってなかった。」
「どっちかって、みんな大地震とか津波とかテロのこと心配してたもん。東日本大震災や福島の放射能とか、ニッポンの暑さ対策どうするとか。」
「見た?熱中症対策のミストシャワー?マラソン観客用の試作品?」
ウイルス・シャットを自分でイグがスプレーしている。頭にも掛ける。
「見た見た。バス停に全部取り付けてほしい!」
「観客はいいとして、マラソン選手はどーするつもりだったのかな?死んじゃうよ!」
「まじ、ヤバくない?」
「日本でやるならもともと秋にやりゃいいのにね?」
「そーだよね。」
「たしかギリシャ大会とかは秋だったんじゃない?もともと?」
「そーなんだ?」
「アメリカがプロ野球やバスケットの試合がない夏に移したって。オリンピックはカネになるもんね。」「そーいえば、プロのサッカー選手や野球選手出るようになってるし・・・。」
「要はカネだね。」
「ねェ、オリンピックってアマチュアのスポーツ大会じゃないの?」
「知らねーよ。」
「もとに戻してさ、甲子園みたいに、アマチュアの選手たちがさ、『ボクたち、アテネ目指します!』みたいに毎回ギリシャで秋やったらいいと思わない?」
「負けたらアテネの土持って帰ります、みたいな?」
「そうそう。」
「ギリシャ、コロナ流行ってんのかな?」
「あまり聞かないけど、やっぱ流行ってんじゃない?」
「おカネに困ってなかったっけ、ギリシャ?」
「何か読んだことある。」
「おカネに困ってるとこで、コロナのない国でやればいいじゃん?」
「だよね。でもさ、おカネになるオリンピック延期してさ、そのタイミングでなんで今度はおカネだしますから旅行しましょうって国が言う?」
「あり得ねェ・・・。まあ、きっとそれもカネさ。ホテルやトラベル・エージェントや航空会社、それから飲食や宿泊への損失補填かもね。」
「で、うちは今日はコロナかも知れない団体さんで、水曜からはGo to Travelのチケット客をバンバン受けろって?Go toで強盗もコロナもごっちゃごちゃ。なんか、国がトラブルまき散らしてるよ。」
「それにさ、うちのまいんちの普通の客だって、検査行ってないだけで、絶対感染者いるって。」
「言えてる。バレてないだけでさ。ところで昨日のマニュアル見た?震災訓練の。」
「Lineで回ってきたやつ?」
「そう。ああ、これ。(iPhoneを見ながら)『各階担当者は火災避難用防煙フード型マスクをまず自らが速やかに着用の上、非常階段で担当階に上がり、宿泊客に同マスクを配り、極力密にならぬよう予め館内カメラで確認した避難可能な避難口へ誘導すること』って。」
フロントのイグとウルフの二人の会話の内容は事務所のモニターで共時的に視聴できるシステムになっている。宿泊料金は前金課金がメインで、払った払わないのやり取りが発生した場合、受け渡しの手元のアップと宿泊客の正面映像がくっきりと音声とともに録画される。あと一時間ほどで政府から回されてくる成田からの帰国者でPCR陰性結果を得た二週間の経過観察滞在者たちの最後のチェックインがある。それを二人が無難に熟せたのをモニターで監視してから帰ろうと決めて、先刻から副支配人万智がモニター・チェックも兼ねて漫然と眺めていた。何事もないことを確認してから、一応、気味も悪いから、祖母のいる自宅に帰る前に、もう一度シャワーを浴びておこう。万が一、ウイルスを持ち帰らないように。そう心に決めてから、万智は事務所からフロントに出て二人の会話に割り込む。
「本社のアホがまた・・・。コンピューターのシミレーション・ゲームのつもりかいな。ホテル自体が崩れかかって、命かかってるときにやで、『極力密にならないよう』こちらにご避難くださいって、どこのどなたさんが言えますかいな?いつものテキストに取ってつけたように『密にならないよう』って一節をワードではめ込んだだけやないか。」
「それに、煙が充満してるのに、館内カメラに何か映るんでしょうか?」
「そりゃ映るでしょ。」
「何が?」
「煙に決まっとるやろ。」
万智はフロント正面裏側の天井近くに取り付けてある館内監視カメラのオールインワン・モニターを見上げる。取り付けた業者の名刺が天井カセットエアコンからの吹出風に煽られてひらひらと回転している。ペーパーパンチで穴開けして紐通ししてモニターのベゼルに引っ掛けてある。飛沫防止用の透明ビニールシートが玄関ホール入り口の自動ドアの開閉に合わせてフロント・カウンターの上でどっちつかずの浮遊を繰り返す。エアコンの風圧と入り込んでくる外気が拮抗することはない。20cmほど空いたシートとデスクの受け渡し用の隙間で気流が不自然に渦巻いている。
『55歳の日本人男女の平均身長157cmから頭頂と口までの20cmを差し引いた床からの137cmを基準に飛沫対策を各店独自に講じるように。』というこれも本社からの指示だったが、指示のあった日、取り付けた支配人陽子、万智、十子と急遽呼ばれたイグたち4人の手には確か端からメジャーの用意などなかった。簡易脚立で天井から飛沫防止シートを吊り下げる作業は楽ではなかったが、バスルームのシャワーのビニールカーテン用のカーテンレールをハイブリッド耐震天井材の継ぎ目に合わせて繋いで貼り付け、シートを係留するという十子の案で何とか格好がついた。S字フックで吊るし、フロントデスクに垂らし、底辺を折り曲げれば、若干の重りにもなる。
「現場を知らない本社の大卒の指示なんか無視していいから。独自でゆこう。」
「そうですよね。飛沫浴びんのは俺らですから。」
「十ちゃん、どう?もうちょっと上にしないと受け口狭すぎじゃない?」
「いえ、極力受け口は小さくしませんか?『住んでる人』の中には背の低いお客様もいますし。」
「でもね、お客様の印象がねェ・・・。」
「それはこのシートぶら下げた時点でもう終わってんじゃないっすかね。」
「昨日テレビのニュースで観たけど、スーパーのレジでオヤジが切れて、言っていることが聞こえんと怒鳴って、ついでにシートをひっちゃぶってたわよ。」
イグが冷えた笑いをする。
「何かわかりますけどね。」
「タボが言ったみたいに、怖がってる万智のためにもシート二重にするの?」
「いえ。引っ張られた時の替えとして取っておきます。」
「それがいいわ。キトウ爺用の予備ね。」
「天井に這わすレールも、もうないですし、お客さんの顔が見えにくくなりますし。」
「お互いマスクを徹底すればいいわけですよ。でもしてこないやつもいますからね、特に欧米人のお客さんとか。俺息止めるの必死ですよ。十さんがいないと、外人客を振れなくて、やばいっすよ、苦しくって。」
「十ちゃん見習って一言言って、おカネ取らずにプレゼントですって、マスクをお渡しすればいいじゃない。」
「その一言がね、すぐ出てこないんすよ。昨日なんかアメリカ人来たでしょう?」
「ああ、もっと大きなベットのある部屋ないのかってクレームの人ね?」
「そうです。マスク手渡してプリーズって言ったら、サンキューと言ってそのままポケットにしまっちゃうんですよ?」
もともと風邪を引いたら他人にうつさないようにマスクをする気づかいの習慣があった日本では、マスクの役割が変わっていった。光化学スモッグ対策で自分の呼気ではなく汚染された外気の吸気を濾過するフィルターになり、自己防衛のためのものとなっていった。最近はもっぱらスギ花粉に始まって、各種花粉や大陸から飛来する黄砂や微小粒子状物質PM2.5などを吸い込まないようにするための自己防具になっている。季節外れのマスクは、テロリストや逃亡犯か風邪っぴきと一目瞭然であったのはもう一昔前のこととなった。コロナが世界で蔓延して、世界に先駆け日本人は何の抵抗もなくマスクを猛然とまず品切れになるまで買い求め、小中大の各メーカーが各種多様なマスクを開発した結果、俺はコロナなんか恐れないと肩で風を切る一部の厳つい向きを除いて大多数が今や着用している。
もとより人の目を気にする国民性がある。目は口ほどにものをいうというが、人の緊張はどちらかというと口元の渇きや微妙な震えに現れる。目の表情は脳の意思で十分制御できるが、頬や口周りの口輪筋は一度痙攣をすると脳では制御できない。ある意味、口元に真実が見え隠れすることが多い。手で口を覆ったり、隠す仕草を可愛らしく演出し、その手の中の真実を見せまいとするのは日本独自の文化かもしれない。欧米人が口を手で覆うときは、迂闊に失礼やいわずもがなを口外してしまったときに限られる。失言をしないのであれば、口を覆う必要はない。シャンゼリゼ―のフランス人が大半マスクなしで歩く様子はだからコロナや他人目以前に、自分を隠すつもりのないメンタリティーの遂行に過ぎない。
西武鉄道のレッドアロー号も秩父鉄道も山手線でも今や乗客全員がマスクをしている。大声で話さない、どうしようもないラッシュアワーでなければという条件付きだが、間をあけてできる限り座り、換気のため窓を開ける。車内には無言の規律があり、飲食業の時短要請で酔客はめっきり減った。車内アナウンス以外人声は聞こえないのでまるで葬式に向かう列車内のようでも、乗客はマスクを正々堂々と付ける理由を得て却って何かホットしている気配がある。人の目を気にして顔をそらしたり、用事もないのにスマホを取り出すことはない。顔の大半を覆って口元を隠していれば、自分はアノニマス。匿名であって、素顔を晒してしまっている俺やわたしではない。気に入らない奴がいれば素顔のときより思い切った眼付けもできたりする。この車内にマスク無着用のものが入ってきたら、全員がマスクの上に露出している目線を浴びせ、無言で圧迫すればよい。炎上しているブログに参加するのと全く違いはない。俺やわたしが露見しないなら恐れることなどない。マスク着用組という不文律の正義を得て、何か居心地は悪くない。
この車内の異様な静けさに、シャンゼリゼ―のフランス人がすぐになじむことはないだろう。また、ステーキハウスチェーンが以前唾除けに導入した透明なマウスシールドや政治家が着用している透明なフェイスシールドに日本人が挙って不織布マスクから乗り換えることもきっとないだろう。
「ところで十さんもリムさんもタボさんも見ないですけど、どうされたんですか?」
「そういえばこの二、三日、三人とも見ないっすね?」
イグとウルフの新人二人がそれとなく探りを入れてきていることが副支配人の万智にはすぐに分かった。コロナがどんどんクラスター化して、重症者や死者が増えているなか、ホテルが軽症者の病棟として一棟借上げされるようになり、ホテルの従業員が退職したり、休職を願い出るケースがホテル業界紙で頻繁に報告され始めていた。医療従事者に敬意は表するが、自分たちの仕事ではない。一億玉砕時代でもあるまいし、自己犠牲の上、更に家族を殺すつもりなど毛頭ありません。ナイチンゲールは申し訳ないけどまっぴらごめんです。看護士ではないので。病院代わりになるホテルに、生活苦で辞めるに辞められない人員だけが取り残される。そんな不安が蔓延し始めていることは知っている。
ホテル業界がまだ感染の可能性のある帰国・入国者の受け入れを今のようにオフィシャルに表明できずにいた初期の二月からいち早く、伏せたままという条件で、PCR検査が陰性であった成田からの帰国者や入国者を経過観察のため二週間づつワン・フロアー貸しをしてきた功績と、決して陽性者と判明している感染者は受け入れず、「コロナ・ホテルにはしない」という身を挺した支配人陽子の立ち回りの甲斐あって今月で長瀞店は取り敢えず受入れ打ち切りの朗報があった。成田空港からより近場の都内のホテルで主に経営上の困窮から手をあげるところがいくつか出てきたことが助けとなったに違いない。表向きの善行の裏に判り易い打算がある。
最後に受け入れる20名には中国人も欧米人も含まれていなかったので、シフトからリムと十子を外し、この新人二人を初めて組ませて対応することにしたものの不安があった。万智は残って、いざとなればサポートに加わるつもりでいた。何があれ、イグとウルフ二人組での初仕事を恙無く済まさせて褒めてやる必要がある。すでに新規採用は本社からストップがかかっていて、今この奇しくも、激務にもコロナにもかかわらず辞めずに留まってくれているこの入社半年組をキープしないと欠員が生じてしまう。
ウルフは、元カレのリングを外してフロントに立っている。タボのメイクのヘルプに駆り出される時も必ずノー・リングらしい。退社するときはまた嵌めて帰る。但しその時すれ違うとウルフは俯きがちになって、右手を左手にいつも被せて、嵌めていることをやをらやをら隠すという。隠そうとしている様をむしろ見せようとしているかのように。ところが、タボはそのウルフを買っている。
「あの子は結構大丈夫、続くかもよ。待つらしいよ、この町で。」
「何を待つん?」
「元カレに決まってるさ。」
「ないない、アホな子や。男なんかなんぼでもおる。まだ若いんやから。」
「若いも年寄りもないとあたしは思うけどね、人を想う気持ちに。」
「ま、どないであれ、居てくれるなら助かるわ。」
「相手はどこぞで生きてるわけだしね。待ってみたらいいさ、気のすむまで。」
古株タボの素性を万智は良く知らないが、清掃の手抜きをしたスタッフを直接面罵することはたまにあるが、その場その局面だけで尾を引かない。ロッカールームでの陰口は絶えることはまずない体育会系女系職場だが、タボは陰口のたたき台になっているその場に居ない同僚や宿泊客の肩を持つか、無言でその場を去る。だから自然とタボが来ると皆陰口を中断するようになった。そのタボの束ねた独身のバイトスタッフのメイク・チームの孤軍奮闘のお陰で、消毒や清掃は行き届き、また運よく要再検査対象者も出なかった。
「あたしたちにかかりゃ、コロナのウイルスなんて仮に居たって死んじまうのさ!生き残る隙間なんてないんだよ。怖がりマッチ―ちゃん、何だったらあんたのおうちに行ってあたしたちが消毒してあげるよ?ねェ、みんな⁈」
そんな安易なことではない、とは思うものの使い捨て袖付きプラスチックガウンで防護用に身を包み、マスクを着けて汗だくになっている混合メイクチームに返す言葉はない。今おそらく日本国中でもっとも人が嫌がる仕事にまるで特命戦隊ゴーバスターズのように立ち向かってくれている。
「支配人と約束したんだ。コロナ・ホテルには絶対にしないって。」
ただ、一体どこからスタッフを集めてくるのかは不明のままで、前払金に科目分けして現金を支給しているが、計4回だと雑給でも金額によっては源泉所得税の対象となる者も出てくる。給与明細の居住所も氏名も空欄のままで仮登録しているヘルパー数名がいて、今回の2週間にタボが同一人物を連れてこなければ素性が知れず困ることになる。タボ本人の住民票には一戸建て庭付きのこじんまりとした築35年ほどの自宅の住所が記載されていたはずだが、確か実際は他人に貸していて、本人は古くからの土産物屋の裏のアパートに一人で住んでいると支配人から聞いている。ただそこにもあまり帰っていないとも噂で聞いたことがある。紫のショッピング用ローリングバックを引きづって定時には必ず出社してきて、定時を過ぎても残業を厭わないタボを敢えて問い詰める必要もなかった。
「タボさんがいないと明日っから誰が『Cフロアー』の消毒や掃除するんですか?」
「『Cフロアー』って?」
「コロナのC階でーす。」
ウルフが躍起になって訂正してくる。
「そうじゃないって!。十さんが、くれぐれも『国際会議のCongressのCだって、徹底して』って言ってたじゃない!重要な会議の参加者のセミナーで、Cフロアーは出入り禁止だって、どのお客様にも説明しなさいって!エレベーターのボタンだってCに嵌め変えてあるし。」
「あ、そうだった。つい・・・」
やはり万智は居残ってよかった。鎌をかけたらイグは案の定、軽さを露呈した。イグは細面に銀縁眼鏡で一瞥ではインテリ風のセーラームーンのプリンス・エンディミオン系だが、実は口がうまいわりに軽くて、うっかりお客様に言ってはならないことを口滑らす、と圭太が言っていた。
「あいつはマスクを耳に掛けるんじゃなくて、マスクを丸めて口の中に押し込んだ方が客のためにも会社のためにもなる。人材じゃなくて、人害。」
「まあまあ、やっと久しぶりの男の子の同僚なんやからさァ。」
「人材というなら、居ること自体が罪という人罪ですね。」
「圭太のセーラームーンのムーンスティックでな、魔法をかけられへんか?頼むから。」
「馬鹿に魔法はかかりません。無理です。」
「そうなんや。でもな、馬鹿とはさみは使いようって言うしな?」
まあ男同士にもそれなりの通過儀礼があるのだろう。少年のまま大きくなったセーラー・オタクとインテリ風お調子者。グランホテルのようにまともな男性社員を期待することは土台無理には違いない。宿泊客対応、宿泊営業、メイクが欠員すれば客室清掃、パントリーサービス、ネット予約個別対応、イントラデイでのノーショウ客室のネットでの転売営業、パーキングの誘導と管理、アメニティーや各種備品の棚卸と発注、チェックアウト終了後の現金出納帳の当日売上金と現金過不足の精査照合と銀行入金、予約台帳と入金情報の照合と未済顧客への連絡、宿泊客・業者・本社とのメール応答に加えて、自社が提供する週末割、国内外のネット・オンライン予約旅行会社からの個別割等々に加えて今回から更に新たに7月22日から政府や地方公共団体が挙って発行するGo to割、地域クーポンやさいたま割などで日進月歩グシャグシャに混乱し、煩雑になってきているチケット営業の整理と手数料の還付清算などなど。体系づけにはもはや意味のない業務の羅列。終了した業務にレ点を入れるExcelシートには現在65個のチェックボックスが縦軸に並んでいる。ほぼ毎日チェックボックスが一つ下に増殖してゆく。フロントがバックオフィスを兼ね、心臓でもあり脳でもあり顔でもある。フロント常駐スタッフの定員は基本二名のみ。週休二日の日勤組は5日連続出勤で、朝10:00から翌朝11:00までの25時間勤務組(25勤)は基本二日または一日ごとに中日を設けて飛び石出勤する。
新人候補の三カ月の研修でメイク・スタッフとして掃除を、パントリー・スタッフとしてデシャブに立って配膳と衛生管理を徹底的に仕込まれているうちにまず候補者が半減し、その後、この最低でも65項目に及ぶチェック項目を課せられる本来のフロント業務の見習いに就くと、ホームドラマのホテルマンのイメージとの乖離を実感して更に見習いが減り込む。三か月の研修明けに、関東であれば熱海に、関西であれば有馬に温泉を引いた研修所での丸々一週間の外出禁止・私語厳禁・携帯持ち込み禁止・読書禁止の「内観研修」がプレゼントされる。この内観研修を終え、職場に「生還」すると初めて正社員として辞令が出るが、生還しない研修生もいる。これらの3層の篩をかけても残留したのが直近ではイグとウルフの二人。
「皆さんはフロントだから、ホテルのいわば顔です。笑顔を絶やさないようにね。」
支配人陽子の毎朝のリフレーン・スピーチに素直に「ハイ」と答えるのはいつも、元気のよいタボのメイク・スタッフと今出勤してきたばかりの日勤組だけで、25勤組からの応答はまずない。分断された仮眠2時間2セットだけにもかかわらず、すでに始まっているチェックアウト客の対応に追われているか、当日の団体客からの問い合わせの電話に応じているか、領収書を急遽作成しているか、チケット割の複合計算がなぜ250円オファーと差額が生じているかというクレーム処理に追われているからである。
「へェ、ボクらフロントだったんですね。てっきりわすれてました。税理士事務所のインプット係かと思ってましたァ。笑顔ですかァ。ちょっと特に圭太さんにはむづかしいかなァ。明日っから『それいけ、アンパンマン』のお面をマスクの代わりに二人で付けようかな?ね?圭太さん?」
脇奥の事務室から聞こえてくる支配人の朝礼スピーチをフロントに立ちながら片耳で聞いている振りをしていたイグの呼びかけを無視して、事務室入り口の複合コピー機の横のデスクで圭太はひたすらPC画面を覗きながら猛烈なスピードで数字を打ち込んでいる。
「イグ、稼働率100%がまず違っている。」
「違ってませんよ、満室ですから。だって、支払い済でノーショーの二部屋深夜割で圭太さん売って埋まったじゃないっすか。満室手当出ますよ、万歳っすよ。」
「万歳はいいけどさ、だから180+2を180で割ったら101.1%じゃないのかって言っているの。」
「あ、そうか。すんません。あとで直しときます。」
「もう直したよ。あとさァ、オートフィルで引っ張るのは構わないけど、マクロ入ってるとこはいじるなって言ったろ?自販機の軽減税率が8.0、8.1,8.2、8.3って、おかしいだろ?」
「え?俺っすか?俺、そこいじってないと思いますけど・・・」
「僕とイグしかフロントいなかったわけだから。じゃァ、僕って言いたいんだ?」
圭太は静、イグは動。女性団体客のチェックインが多く予定されている日は、この二人をペアにすることにしている。イグの客受けは抜群にいい。愛想と機転で込み合ったフロントをフットワーク良く絶妙に回すことができる。但し、カウンターの内側にはどれがどの客の案件か、どのメモがどの部屋のものか、本人にももはや区別がつかないぐらいまで書類やチケットやメモ書きが所かまわず散乱する。それを圭太が黙々と整理してゆく。
「ほんま、イグちゃんにはあきれ果てるわ。すまないわね、圭太。」
「僕がやらなきゃ、朝の引継ぎに支障がでますから。」
「恩にきてる、みな、そないゆうとるからね。」
「イグ本人以外がね。」
「よう好かんわな・・・」
「当たり前です。もう嫌悪の彼方です。」
「そうか。嫌悪の彼方ってどらへんやろ?」
「殺意です。」
思わず吹き出しながら万智は横目で圭太の追従笑いを確認する。圭太は滅多に笑わない。本社にいたが、現場研修を兼ねて短期出張して来て、そのままこの店に居座ることになった。A勤務の会計や事務処理が手薄だったため支配人が本社と談判して決まった。本人も山が好きで、是非ということになったらしい。
25勤のフロントに立つ二人にはA勤務とB勤務の二種類の勤務担当が割り当てられていて、Bが主に接客と電話応対など従来のホテルのフロント業務で、Aは主に会計やネット予約対応などフロント・バック業務で、毎回担当が入れ替わることで、全員営業、全員総務のオールラウンダー育成が結果としてなされている。客の少ない深夜にフロント人員が総務事務に当たることで、日中にバックオフィス人員を雇い入れる必要がなくなる。しかもチェックインやチェックアウトの煩雑時間帯はAがBを、夜間はBがAを補佐することが当たり前となる。コスト削減のためのこの人材の効率的な配置のモデルは、実は単に夫婦二人で経営している町の飲食店に他ならない。飲食と違って、仕入れも仕込みも必要のない部屋を提供するだけのホテルには、宿泊客の就寝中の深夜の時間帯という事務用の黄金の時間帯がある。この飲食店の夫婦が疲れ切って寝ている時間帯に、25%アップの深夜労働手当を支払って、昼であれ深夜であれ、A勤務であれB勤務であれ、いざとなればいつでも任せられる社員をon the job trainingで育成した方が、経理や総務だけの担当者を日中雇用するより間違いなく資金効率がいい。思ったように社員が育成できればという前提はあるが。
「あんたも笑うんや。」
「笑うしかないですよね、僕に人事権ないですから。」
万智は圭太の横顔を奇麗だと思う。グラデーションボブで前髪を長めに流している。鼻筋が通っていて、髭剃り後もないふっくらとした頬が頬骨を隠したオバールの丸顔は少年のままのようだが、それを打ち消すような切れ長で上がり気味の細めのアーモンド眼。初めて現れた日、零下の早朝、駅から歩いてきたため圭太の目が寒さで涙ぐんで赤みがかっていたのを見て、リムが「タオファイェン、タオファイェンだ‼」とダンナさまそっちのけで暫くのぼせ上って大騒ぎをしていた。圭太の目がその後桃色になることは滅多にないことがわかり、リムの熱は冷めたが、身長175 cm、細身で繊細な長い手足、少年顔に浮く鋭い突き放すような目線のアンバランスは、確かに魅力的かもしれない。だがモテるはずの原宿や渋谷ではなく、この山合いに一人で転勤することを本人が望んだことにはそれなりの事情があるのかもしれない。信長気取りの支配人陽子は、当初「私の蘭丸」と言って圭太を「蘭丸」と呼ばせようとした。
「ランマル君どこ?休憩?」
タボが万智に尋ねたとき、丁度圭太が事務室に戻って来た。
「ランマル君て誰ですか?」
圭太は二人をその白目の上方に瞳が浮いた眼でじっと見据えて、暫く黙っていた。気に入らないらしいと女子全員が申し合わせて支配人案は没となった経緯がある。顔つきが少女や少年のようで、口の利き方が穏やか。女子スタッフは構えることもなく、異性を意識するスイッチ・オフのまま気取ることもなく自然体でそばにいることができる。少女コミックに精通していてロッククライミングなどでなくただ山を見ているのが好き。本社からはLGBTだという噂も聞こえてきたが、どうやらそう誤解されることにうんざりしていたのかもしれない。会話のノリでは圭太とはまず女同士のつもりで話す。セーラームーンのこと。ゲームアプリの「あんさんぶるスターズ!」のこと。コンビニのトロトロ杏仁豆腐のこと。着圧ストッキングのこと。池袋のネイルサロンの噂。カラーリングミルク泡タイプヘアカラー「夢みるブルージュ」の付け方。客の悪口。まったく違和感がない。含み笑いで困ったように応対する圭太を、女子全員がもうすでにこちら側の人間として引き入れてしまっていた。少なくとも異性ではない。要するにジェンダー・ニュートラル。
フロント業務では向き合って話すことはまず稀で、大半圭太の横顔を見ながら話すことになる。ふと触ったらマシュマロかしら。事務室の椅子に座っている圭太の頬をのぞき込んで思うことがある。まるで自分の子供を触るような母性で。フロントから呼ばれて応対に向かうため圭太が立ち上がった瞬間、その妙な妄想は木端微塵に吹き飛ばされる。クールで冷静な圭太本来のラインの現出。的確で余計なもののない応答。そして、笑顔はまずない。
「リムちゃんは一週間の研修。タボさんは明日来るから、心配せんといて。大丈夫、十ちゃんも明日のシフトにいれてあるから。」
「俺らがCフロアーのメイクやらないでいいんすね?」
「あんたら二人はとにかくチェックイン客に集中して頂戴。Cフロアーの最後のお客様のルームインを確認したら、Cフロアーで一度ブロックして、エレベーターを徹底的に消毒するからね。メイクにすぐ内線して。待機させておくわ。」
ウルフがじゃらん経由で今予約してきた若いカップルの応対に回る。おそらくホテルの前からネット直前予約を入れてきた。
「お早いお着きですね。」
「あの、表にGo To Travelのステッカーが貼ってあるけど、直前予約でも使えますか?」
「申し訳ありません。Go Toは22日からのご利用分ですから、今日はまだお使いいただけませんがいかがなさいますか?」
「・・・。」
どう見ても二十歳そこそこの大学生カップル。お金の匂いはしない。女の子は場合によってまだ高校生に違いない。Go to が22日からなのは、その週から学校の夏休みが普通であれば始まることが念頭に置かれていたはずで、この子は学校をフケてきているかもしれない。ノーメイクであどけない。彼氏の背後でまるで母親に許しを乞うような雰囲気で床に視線を落とし、ヘルシーショートのバージンヘアの前髪を垂らして顔半分を隠している。ウルフにピンとこないはずはなかった。まァ、いいんじゃないの?うちホテルだし。一瞬のアイコンタクトで、ウルフは女の子に姉の視線を送ってある。手元のマニュアルのチェックシートを確認する。日数分全額の前金徴収と本人確認が条件となる。
「ご一泊、エコノミーダブルのご予約を頂いていますが、今ならまだキャンセル料はかかりませんが?」「(少し慌てる)キャンセルはダイジョウブです。この6,695円から朝食代を引いてもらうことできますか?僕ら朝食いらないんで。」
「当館は朝食代は頂いておりません。ご利用になるならないにかかわらず、一律ご朝食はサービスとして当館がお出ししているだけです。パントリー・サービスですから、お出ししたものをセルフサービスで召し上がっていただくスタイルです。」
「・・・」
ウルフはもじもじしたタイプの男が気に入らない。口説く時ぐらい腹を決めろとふと思う。女の子とまた目が合う。ちょっと、アンタ、こんな相手でいいの?へェ、そうなんだ。二十歳男子を少しいじくる気になった。
「デイユース・プランというのもありますけど。」
「何ですかそれ?」
「朝11時から夜10時までのデイユースで、お泊りなしの夜10時のチェックアウトとなります。」
「今3時だけど今からでもダイジョウブなんですか?」
「はい。」
「いくらなんですか?」
「3,950円です。」
イグがバックヤードからまたフロントに戻ってきていた。ウルフのことをさっきから横でしきりにチラ見をしている。
「いかがなさいますか?ご宿泊はできませんが?」
「途中から宿泊に切り替えることってできますか?」
「お部屋が空いていればできます。お部屋をお移りいただくことにもなる場合はありますけど。」
「泊まりに切り替えると、料金はいくらになるんですか?」
「ご一泊分の6,695円が加算されます。」
「3,950円にオンされるんですか?」
「そうです。」
「・・・。」
「一度夜の10時にチェックアウトして頂いて、11時半以降の『シンデレラ・プラン』をご利用することもできます。」
「シンデレラ?」
女の子が床から視線を上げる。
「11時半以降にネット経由でご予約いただける半額のご宿泊プランです。」
「6,695円の半額になるんですね?」
「お出しできるお部屋次第ですが、同じエコノミーダブルがあればそうなりますね。」
「同じ部屋じゃダメなんですか?」
「デイユーズのお部屋はチェックアウトされることが前提ですから、大抵、ルームクリーニング後、レイト・チェックインのお泊りのお客様のご予約優先でお回しすることになります。」
「(携帯で計算して)でも、3,347円50銭ですよね?」
「3,348円プラスデイユースの3,950円で7,298円です。」
「・・・。」
「いかがなさいますか?あと10分過ぎると、キャンセルされる場合、キャンセル料がクレジットカードにチャージされてしまいます。」
「あ、そうか・・・。じゃあ、ま、ダイジョウブです。」
「とおっしゃいますと?」
「だから、そのままで。」
「ご予約のままのエコノミーダブルご一泊でダイジョウブですか?」
二十歳男子が頷く。また俯いている女の子の手から大きめのボストンバックを取って、自分の足元に置きなおす。
「では、仮予約を確定させて頂きます。前金でご一泊分は頂戴しますが、このままカード引き落としのままでダイジョウブでしょうか?」
応対しながらウルフは元カレがよく言っていたことを頭の端で思い出している。ダイジョウブというのはヨロシクの現代版だ。どうダイジョウブなのか、どうヨロシクなのか。判断を迫られても困る、アンタが最終的に思う方向で決めて頂いて構わないが、自分はYesともNoとも言っていないので、責任はアンタがとってくれよな。日本のあいまいな間の文化の象徴みたいな言い回しだ。状況依存語で、きっとワードで打って変換すると、YesになったりNoになったりするんだろうね。そのレベルまでAIが到達するかな?人間様の俺だって今のお前のダイジョウブはどっちなのかわからないけど?
「どうしても行きたいなら、ダイジョウブ・・・・」
「どうダイジョウブなの?一緒に来るの、来ないの?」
「・・・。」
「何がダイジョウブなんだよ。こんな山の中の家をこのまま継いだって、食っていけるわけないって。」
床屋二代目の元カレに誘われてビューティー・アート・カレッジの美容師科通信講座を二人で始め、元カレは美容師免許取得コースに移り、ワインディングやカッティング、オールウェーブなどの実技実習を受けに都内に通うようになった。だんだん元カレのハンカチやマフラーや定期入れという持ち物が地元にないものばかりになった。匂いが変わり、キスも、抱かれ方も変わった。ウルフは美容師を取り合えず中断して、山向こうの飯能の短期大で国際コミュニケーション科のホテル・ホスピタリティーのコースに通った。東京オリンピックでホテルがどんどん増えていたので、ウルフはまず収入を確保する目的で趣旨替えを敢えてした。店を継ぐ元カレがまず美容師の資格を取ってから自分はまた始めればいい。自分は彼の店でアシスタント店員となって資格を目指せばいい。
元カレのバイトがオフの日は必ず一緒に過ごしてきた。父親のハーレーウルトラを借りて、よく二人乗りで天目指峠や武甲山麓を駆らした。まずウルフの就職が近隣でかなったら、という条件で両方の両親も同棲を黙認してくれることになった。二人だけのアパート住まいの夢。短大の就職課の斡旋で飯能市内のホテルにまずトレーニー契約で入社が決まってその夢がやっと叶い、元カレも美容師免許の国家試験をパスした。その矢先、元カレが切り出した。
「3年間、色々なところに行って腕磨いてみたいんだ。カリスマ美容師ってさ、どんな仕事してんのかも絶対見てみたい。レイがさ、言ってた。東京と関西もトレンドが違って、働いて生で感じなきゃわからないって。」
「レイって、あの専門のクラスの子?」
「そうそう。3年間はあっちこっち行きたいんだ。で管理美容師の資格を取る。」
「どうするの、ここ。2年契約したし、お父さんやお母さん知ってるの?」
「関係ねーよ。あっちはあっち。」
「・・・。」
「オヤジだってうすうす自分で分かってるさ。あんな床屋に未来はないって。でも今さら、今から変えられねーだろ、人生を。」
「ついて行ったって、私はすぐホテルの職なんか見つからないじゃない。入ってすぐやめたりしたら、きっと次のとこに連絡がいって、採用してもらえないよ。そんな都合よくいかない。」
「バイトでいいじゃん。バイトつないでさ。あとは俺の給料で何とかなるよ。ひょっとしたら俺の働く店でアシスタントで入れるかもしれない。」
「レイって子も資格取れたの?」
「彼女も受かったみたいだ。」
「カノジョ?レイって女の子なんだ?」
「・・・。」
「同期のレイって時々言ってたから。」
「そうだよ。同期の子だってだけ。」
「いい仲なんだ?」
「いい仲間だけど、そんなんじゃないから・・・。」
「よく嘘でも私を誘えるね、一緒に来ないかなんて?」
「だからさァ、受かった同期みんなで武者修行みたいなもんだって。」
「同期のレイちゃんも一緒なんだ?」
「知らねーよ!」
「だったら私はほんとにダイジョウブ。これはNoのダイジョウブよ。秩父から出たくないし。カリスマ美容師になって帰ってくるの待ってるから。YO・RO・SHI・KU・・・。これはYesよ。でも、嘘でも誘ってくれてありがとう。」
「嘘で誘わねェよ。」
「ひょっとして私とレイって子を天秤にかけてない?私のダイジョウブがYesだったら私。Noだったらレイって子にしようって?」
「だからレイは関係ないって!」
「そう。じゃァ、私だって天秤に掛けてみるわよ。あなたがホントに武者修行してカリスマになって帰ってくるのか、来ないのか。」
「この山奥の床屋にかよ?カリスマ美容師になった俺が?」
「パパさんが引退したら売ったら?それを元手に店でも都内に出したら?」
「そんな勝手なことできやしない。」
「勝手なことしようとしてるのあなたじゃない?」
「・・・。」
「別れてほしいならはっきりそう言って!」
「そんなこと思ってない・・・。」
「そう言われるまでは、ここで信じて待ってるから。私の夢がやっとかなったの。放り出して行くなんてしない。私はダイジョウブ!」
「わかったよ・・・。」
一週間後、元カレの母親がアパートに来て、元カレの下手な字で「就職祝」と書かれた熨斗袋を置いていった。丁度3年分の家賃の半分が入っていた。待っていろというメッセージか、手切れ金か。真意はわからない。だが、ウルフは天秤に掛けることに心を決めた。私はここにいる。ここで待つことが、私の居場所。もう決めたこと。変わりようはない。
「私はダイジョウブ。」
トレーニー契約が切れた七か月後、ウルフは職を失した。希望するフロントの部署に空きがないという理由だったが、東京オリンピック開催にコロナの暗雲が立ち籠め始めて、ホテル業界で新規採用に急ブレーキがかかっていたことが主な理由だろう。ウルフのもう一つのここ、が消えた。欧米人の間では、当初中国から広まったことでコロナ感染リスク=アジアがコンセンサスとなり、渦中の日本への渡航を危険視し始め、オリンピック期間の予約のキャンセルが後を絶たない状況ではあった。一人住まいのウルフは、すぐに25勤の求人に応募した。ウルフはウルフ自身のダイジョウブを遂行するために、このフロントに立って、謂わば、自分のダイジョウブを守っている。いとも簡単に私の前でダイジョウブ、ダイジョウブと軽く連呼してほしくない。そのバージョンのダイジョウブなら、私も同じフワフワのダイジョウブに切り替えてリフレーンしてあげるわ。
「すみません、もう一度お伺いしますが、前金でご一泊分は頂戴しますが、このままカード引き落としのままで本当にダイジョウブでしょうか?」
二十歳男子が頷く。ウルフの要求に応じてクレジットカードと運転免許証を黄色の斜め掛けボディーバックから取り出す。ガチで二十歳になったばかりだった。本人確認終了。
「あの失礼ですが、マスクはお持ちじゃないのですか?」
「・・・。」
「申し訳ありませんが、館内ではマスク着用となっておりますので、お持ちでなければ一枚百円でご用意できますが?」
女の子が二十歳男子君の足元に潜り込んでボストンバックの外ポケットから白いマスクを一枚出して耳に掛ける。スクール・マスクで小さな紺のロゴが右下の端にプリントされていた。熊谷の名門女子高のロゴだった。ウルフの出身校だからすぐに判った。
「彼女は持っているんで、じゃ、一枚売ってください。」
ボディーバックから財布を出すのに手間取っている二十歳男子の肩越しに、ウルフは、マスクをしてからは顔をあげたまま、まっすぐ前を見るようになった女の子と目を合わせようとする。その気配を察知して、女の子はウルフを見返してきょとんとしている。仕方ないので、マスク二枚を二十歳君に手渡す。
「あの買うのは一枚でダイジョウブです。」
「あのお連れ様は他のマスクをお持ちでしょうか?」
「え?」
ウルフは頻りに自分のマスクの右下のところを人差し指でつんつん押しながら、女の子にシグナルを送ってみる。何事かわからないでいるイグが横からウルフを窺っている。「マスクの押し売りはしないこと」。イグは項目の行に太く乱雑にピンクのラインマーカーを素早く引いて、チェックシートをウルフの方に横押しする。わかってるわよ、とウルフがチェックシートを押し返す。女の子が二十歳男子の脇から突然割り込んできて、百円玉をカウンターに置いて、受け渡し口のマスクを奪い取るように取り上げて、マスクを取り換えた。二人はエレベーターに向かった。乗り込む前に、女の子だけが振り返ってウルフに軽くお辞儀をした。
「あんな安マスク、喜ぶなんてなァ。」
「イグにはわからないと思う。女の子のこと。」
「自分で払ってたもんな・・・。わかんねー。」
「わかんないままの方がいいかも。」
「マスクはまあウルフの勝ちだけどさ、デイユース・プランはお一人様だけだからあの二人には無理だよ。うちはラブホテルじゃないんだから。」
「当たり前よ。」
「だって、薦めてたじゃん。」
「乗ってきたら、あ、スミマセン、お一人様限定でしたってがっかりさせようと思ってた。」
「いじりすぎ。」
「だいたいGo To割引使って口説こうとする男なんてサイテーじゃない?それになんか、もじもじ君よ?。あーでもない、こーでもないって。」
「あーでも、こーでもって薦めてたのはウルフだった・・・。」
「そーか。そうかもね。でもマスクはしてた方がいいわよ。特に今夜からは。」
大型バスがホテル前に到着した。今年は梅雨明けも早く、初鳴き直後からすでにホテル正面の自動ドアが開くたびにアブラゼミの合唱が灼けた臭いの熱気と共にフロントに流れ込んでくる。オスの大音声・短期集中型の集団求愛。発音筋の羽をBraunの電動歯ブラシの30倍の速さで振動させ、さらに空洞の腹部の空気に共鳴させて音を何倍にも増幅して全員が一斉にメスを呼ぶ大騒ぎ。愛呼の決死の大合唱。を潜るようにして一人、また一人と間隙を置いてコロナ検査陰性の帰国者がバスから降り、ホテルに入館してくる。その様子がものものしい。十子が言う国際Congressに参加するのがCフロアーの客ならば、一斉に降車してぞろぞろとフロントに向かうだろう。
支配人陽子のたっての予めの要請通り、半袖の白ワイシャツとスラックス姿をしてはいるが、今回はいつもの顔なじみになっているエージェントの添乗員ではなく、自衛隊衛生科の三等陸曹であるふたりの係官が帯同している。中に数名武漢視察から帰国した政府関係者がいて、帯同布陣からCフロアーの今回の客がいつもとはランクが異なることは明白だった。玄関ホールで夕食と朝食の入った紙包みを順次手渡している。当初厳禁とされていたコンビニでの買い出しや外食は、なし崩し的にこのところ「黙認」してよいことになっていたが、今回は関係者が混在しているためか、当初の規定を順守して厳格に外出者のoutとreturn inの時刻をフロントが厳密に捕捉するようにと通達があった。
異様を極力露呈しないため、一般客のチェックイン時間をずらす努力はしてある。直前ネット予約は先刻の若いペア以降ブロックをしてある。とはいえ、客の声のしないホールに一台、また一台とスーツケースやトランクの車輪のゴロゴロという音や軋音だけがして、フロントに用意された予約台帳にチェックをして無言でルーム・キーカードを受け取ったあと、まるで隠れるようにエレベーターに一人づつ乗り込んでゆく情景は重々しく、有罪判決を受けた東京裁判の戦犯者たちが上階の独房に上がってゆくような寂寞があった。略等間隔に自衛隊陸曹の指図に順従し、フロントで独房のキーを拝しながら受理し、監獄食二食の配給を手に、透明なストレッチフィルムでラッピングされたスーツケースを持ち上げて振り返ることもなく一言の発語なくエレベーター昇降口に吸い込まれていく人影。一組の大学生のカップルだけが二人同時のチェックインを許されたらしく、二人が入ってくると場違いに声が響いた。「スゲー。ここ絶対埼玉の長瀞だぜ。」
「へェ、そーなんだ。来た事あんの?」
「この前、ホラ、タモリが来て石畳の岩がどーのこーのってテレビでやってたとこじゃん!」
「あ、そうか。じゃあの渓流ライン下りのあること?」
「そう、そう。」
「ラッキー!コロナさまさまだね!」
「ドイツのローレライのライン下りの次は長瀞のライン下り。」
「チョーついてるね!」
「確か江戸時代からのかき氷屋がむっちゃうまいって・・・」
「まじ日本の夏ってこんなに暑かったっけ?絶対食べに行こうね!」
イグが馬鹿丁寧にボールペンを消毒用のシートで何度も拭いて二人に差しだす。
「あのさ、ボーイさん。俺たち全員、別にコロナじゃないから。検査で陰性だったんでそんなに拭かなくたって大丈夫だよ。」
「ダイジョウブ」にまたウルフがピクリと反応してイグの横から応答する。
「はい。承知しております。一応、当局からの指示ですので。」
「ところで、ダブルルームとか、ツインとかお宅にはないんですか?」
「ございますが、皆さま、シングルのお部屋と決められています。」
「(聞こえるような鼻息)当局から?」
「さようでございます。」
「それはしょうがないわよ、でもできたらユーちゃんと隣のお部屋だったらいーなァ。」
「そうだよな、じゃ、せめて部屋は選べるんですか?」
「お隣ではありませんが、廊下を挟んで斜向かいですね。」
「隣に変えてもらっていいですか?」
「大変申し訳ございませんが、できかねます。」
「係官にお願いしてみよっか?」
「無理だと思います。」
「なんでなんだよ!」
「あの、廊下を隔てて、男性の方と女性の方とお分けするようにとの指示がございますので、隣りあわせは物理的に無理かと・・・。」
大学生ペアは諦めてリストにチェックをいれてキーを乱暴に取り上げ、エレベーターに消えていった。見えないようにカウンターの裏でイグがグーの親指を立ててウルフに「いいね」の手話のサインを送っている。小声で次の宿泊客を待つ間に、義憤やるかたないまま小声でウルフが唸る。事務室で監視している万智に聞こえないように手元のマイクロマイクを抑えながら。
「意識、低すぎ。別に無理すれば隣に出来ないこともないけどさ。」
「切れちゃだめだよ。一応お客さんだしさ。しかも政府の国庫のお客様。」
「あたしたちの税金じゃない?」
「そうかもしれないけどさ。確か二日分だけじゃないかな、このごろは。あとは実費になるんじゃないかな、確か。」
「全額エージェントから前払いで、その裏は知らないけど。コロナさまさまって、言ってたじゃん?」「きっとわかってんだよ、あいつら。わかってて、駄々こねてるんじゃないかな?」
「そうかもね。」
「やっぱ、怖いんじゃないかな。」
「ありかもね。」
「自分たちはコロナなんかじゃないって。ほっといてくれって。」
「わかった。ほっとこ。」
「でもさ、かき氷ねェ・・・。外出は確か今回は特に・・・。」
「無理!」
事務室の万智には全て聞こえている。自由の拘束。なぜ選りにもよって二週間も自由を奪われ、国民に害を及ぼすかもしれないとして隔離までされなければならないのか?何か罪を犯したわけでもない。仕事やシルバー旅行やデートで海外に行って帰国しただけ。それが空港で拘留され、有無を言わさず検体され、行動を詰問され、調書まがいを取られ、待たされ、かたや救急車、かたやバスで強制連行される。迎えに来ていた家族や恋人も追いやられ、プライバシーも人権もない。国民の命を守る措置?あなた方及びご家族の命をできうる限りお守りするため?「申し訳ないですが、ご理解をいただいて」。検査結果を待たずに空港の待合室を抜け出して消えてしまった帰国者たちもかなりいるという。相変わらず、日本的民主主義に則り、徹底はできない。このアバウトな管理体制で目に見えない、何者かもまだ判明しない、ヒポクラテスが「病気を引き起こす毒」と言ったという0.00001 mmnのタンパク質の殻と核酸からなる細胞も器官もないイガイガを持った生物か非生物かも判明しないウイルスと一体全体、線引きができると思うのだろうか?
5月25日の非常事態宣言解除以降、感染者も死亡者数も抑え込みがきき、こじゃれた耳障りのわるくないWith Coronaという新しいマスコミ受けのするスローガンで共存が提言され、停滞した経済活動も並行して活性化するといって、今週からGo to Travelが始まる。NewsDigestの「コロナ・防災」サイトに明確にコロナのクラスター発生地が明示されている。病院・介護施設・学校・レストラン・ショッピングモール・カラオケ・ホットヨガ・ジム・バー・クラブ・百貨店・観光バス・大企業出張所等々。追跡調査など意味があるのだろうか?そういえば、妙にホテルの表記がない。軽度感染者や無症状感染者を受け入れているホテルも多数ある。従業員が感染しても、公表はせず、休業させて、代わりを投入して営業を続けているに違いない。この最後の20名が二週間後要再検査者なく今までと同様このホテルを去ってくれたとして、国内を大移動してくるGo to Travelの大波は売上の回復とコロナを間違いなしにこのホテルにもたらすだろう。そしてイグにせよウルフにせよ、一人でも感染して休業することになれば、うちは即刻回らなくなる。一人の感染者で済むはずもない。この事務室だって、密の極致。「コロナ・ホテル」になる。
「うちらジジババが感染して皆死んでゆけば、その分、払わなあかん年金が減って助かるんとちゃうか、国は?」
スウェーデンでは集団免疫獲得と言ってマスクすら奨励されずに、東京都知事が頻りにおまじないのように唱え始めたWith Coronaをはるか以前から実践しているが、死亡者比率が他欧州諸国をはるかに上回り、その死亡者の大半が後期高齢者というニュースを見ていた時、ばあちゃんが吐き捨てるように言っていたこともあながち当たらずとも遠からずかもしれない。誰か政府や年金保険機構の関係者が裏で同じことを思っているだろう。コロナの公言NGの功罪。悪いことばかりではないと。消費税引き上げも場合によって打ち止めに出来るかもしれない。人口比30%近い高齢者たちがいなくなれば、医療や年金という社会保障費の負担が間違いなくその分浮く。
「体のいいジジババ殺しやんか、このゴーツートラベルいうんわ?」
20名の入室完了を待機中のメイク・スタッフに連絡を入れ、明日の清掃のスタート時間を携帯でタボと確認をし、イグとウルフにあとは任せて万智はシャワールームに向かった。自分はコロナにかかっても死ぬことはないだろう。既往症もこれといって重い基礎疾患もない。この前の会社の年に二回の人間ドックで初めてHba1cが6.3で糖尿病予備軍入りの警告を受けたぐらいで、アラフォー間近にしては体力には自信がある。女であることも捨てるつもりなどない。
最上階の囲炉裏懐石『風布』の料理長の阿左美に次のオフの日に東京に食事に行かないかと誘われている。その気はないが、父と祖母の面倒を見るばかりの自分が古ぼけてゆくようで、偶にはひょっとしてときめくかもしれない時間も必要かとOKしてみた。
山向こうの風布の水を汲んでボトル12本を時折段ボール詰めで阿左美は万智に持ってくる。六甲の水に似ていると祖母が喜ぶので、ついでの時にと一度頼んだら、毎週フロントに届けてくるようになった。何でも京都の有名なミシュラン三つ星の懐石小料理屋で脇板まで務めていたらしく、そこが火事になって、「焼きだされた」と本人は言っていた。噂では火をつけたと板長に疑われて、大喧嘩をして京都を出ざるをえなくなったらしい。もともと秩父の出で、ホテル最上階の牡丹鍋と蕎麦処のレストランの前の主人の児玉が亡くなる直前、京都から戻ってきて、板長に落ち着いている。何でも南北朝の頃の武蔵七党の丹治党の末裔を自称していた児玉が、阿左美という苗字を知って、店を譲りたいと申し出たと支配人から聞いたことがある。阿左美弘方という丹治党の重鎮がいたのだそうだ。だからどうしても譲りたいと。
その名物主人の児玉が、市から、店内の壁に掛けてあった武具の撤去を命じられた時のことは忘れられない。フロントまで降りて来て文字通りの「おおだち回り」をした時の現場を万智は目撃している。「展示も許認可事項ですし、それ以前に、おやじさん、そもそも、刃渡り15 cm以上の刀先の槍や刀剣類を、公安委員会や文化庁など関係諸機関の許可・登録なく所持していること自体、銃砲刀剣類所持等取締法第二条の二に抵触して本来なら現行犯逮捕事案ですよ。」
「テメェは、確か皆野の野巻下の鈴木んとこの初孫だったよな!」
「そうですよ。だから穏便に済ませるためにも、まず展示はやめて、届け出をしてみてくださいと申し上げているわけです。」
「知ったようなことを言ってるんじゃねェよ、保健衛生課のがきが口出すことじゃねェだろうが、そもそも!だいたい、壁に飾ってあるだけで、持って歩いてるわけじゃねェだろうが!」
「(児玉の手元を指して)今、そこに持ち出してるじゃないですか!」
「テメェが刃渡りがどーのこーの言うから、計りに来てんだろうが!」
「おやじさんがお店の安全衛生推進者ですよね?」
「テメェが講習受けろっつうから行ったのは俺だよ。そう言えばそうだいなァ、紙っぺらもらったけど、どっか行っちまったね。」
「通報があったんですよ、物騒な槍や脇差が飾ってあって怖いって。」
「あのな、いいからかんなこと言うもんじゃねえ。そもそも槍なんかじゃねえ。あれは室町の静型のまっすぐな刃長三尺、不動明の倶利伽羅が彫ってある家宝の薙刀だ。反りがないから、ド素人には槍に見えるんだろ。馬鹿が! 」
「刃長三尺って、刃が90センチ以上ってことですよね?」
「だから、だいたい持ち出そうたって、このちっちくせーエレベーターなんかじゃ、ひっかかってはいりゃしねーだろうが!」
「その脇差、持ってきてるじゃないですか!」
「だからこれは、脇差じゃねェって言ってんだろうが!鎧通しといって、(合口拵から抜きだして)敵の鎧を突き破る強烈なもんで、そこらへんのおままごとの脇差なんかと一緒にしてもらったら命かけて戦ったご先祖さんのバチが当たる。」
「(後退りしながら)そういうのが危ないって言っているんです!」
確か圭太だったろう。支配人の陽子もフロント内側に出て来ていたが、支配人は主人の児玉をよく知っていたから、大事にならないことを踏んで成行きの静まるのを待っていた。宿泊客の出入りもなかった。だが圭太はどうであれ刃物の露出するこうした理不尽を許せるはずはない。警察の非常ボタンを足で踏んだに違いない。
「どれも武蔵七党の時代からの大切な文化遺産なんだ、鈴木んちの蔵にだって奥の方で埃を被って眠ってんじゃねェかいな?それを展示しただけの話だべ!どうせ価値もわからねェ、平和ボケの東京のババアだかネーちゃんだかのお節介をテメェが取り沙汰するのが気に入らねェ。ガキの頃から知っているテメェに説教される筋合いはねェ!」
警官が3人フロアーに飛び込んでくる。一人は腰の拳銃に、一人は警棒に手をかけている。秩父警察署の村岡署長が穏やかに話し掛ける。
「どうしたの、児玉の親爺さん。」
「何なんだ、これは!鈴木、テメェ、警察まで呼んだんかい!」
「いや、私は・・・。」
若い巡査が怒鳴る。
「刃物を捨てろ‼」
署長が巡査を目で制止してから向き直って、主人の児玉を直視する。以前、児玉の親爺とは秩父夜祭の交通整備等の準備委員会で何度も顔を合わせていた。毎年旧盆の時、親戚が集まるのは児玉の親爺の店と決まっていた。武蔵七党の謂れも、本人曰く国宝級の倶利伽羅の紋の薙刀の自慢も旧知のことで、苦々しく思いながらも黙認していた。両刀とも壁に鉄のフィット鎹で打ち付けてその上を簡易ながらショーケースで覆ってあったので、飲食客や第三者の持ち出しのリスクは低い。実際、届け出のない槍や刀が井上伝蔵の秩父困民党事件の頃からこの地域の蔵に隠し持たれていることは周知の事実で、あぶり出したらかなりの量になるかもしれない。ただ自由民権運動のシンボルとして隠し持つ刀剣を家宝と思う古い農家は多く、よほどのことがない限り蔵を開示しようとはしない。秩父の土着の住人の間で今は静かに沈殿して封印されている自己保全のマグマや心のリビドーを敢えて掘り起こすことはない。他人を殺す刀剣ではなく、自己を守る刀剣だろう。民主の夜明けの時代の武器を、今の時代の殺人の目的のためにわざわざ蔵から引っ張り出して、殺傷能力を回帰させるため一生懸命研いだり磨く奴もまずいないだろう。署長は店の鍋を親戚とつつきながら酒越しにぼんやりと結論付けたことを思い出した。
「いや、別に俺は・・・。」
「だよな?」
「鈴木んとことあんたんとこの若い衆に教えてやってくれよ。これは刃物なんかじゃねェ。秩父の宝物だって!」
「わかった。よーく言って聞かせる。」
「知ってるよな?」
「(深く頷く)その肘の長さの鎧通しを合口拵えに収めてから、話は聞こうか?それに店の冠落造りの確か『静御前』って呼んでいた薙刀のことも教えとくよ。」
薙刀も鎧通しも店外に持ち出され、当日没収、武蔵七党の丹治党の末裔は交番に連行されたが、調書を取られて確かすぐに戻って支配人に謝罪に来ていた。薙刀も鎧通しも今は秩父市内の博物館に展示されている。
支配人の話では、薙刀没収から主人の児玉はすい臓を患い、死期を悟った感じがあったという。家賃は昔ながらの手渡しで、茶封筒に入れて毎月25日に陽子のところに持ってきていた。来るたびに痩せて、「お不動さんがいなくなった」「お不動さんが見限った」と嘆いていたという。不動明王の倶利伽羅紋の薙刀のことらしい。誰か後継者はいないか、体がつらいと言っていたのが、阿左美に店の改装費を出してまで暖簾渡しを済ませたころ一瞬全快したようにも見えた。それは断末魔のささやかなお不動さんの慈悲だったのかもしれない。
阿左美料理長に代わって懐石膳も出すようになって、出汁の水にもこだわるところが食通の万智の祖母にはわかるらしく、万智のオフの日にはたまに家族三人で『風布』で懐石膳を食べるようになって、阿左見と直に話もするようになっていた。アラフィフとだけ聞いている。普段着の時の金縁の眼鏡と金のネックレス以外癇に障るところはない。店内では七分袖の白い甚平と和帽子に白エプロン、無難な黒縁の眼鏡で物静かで腕のいい大将と食べログでも評価が高い。このネット情報時代、どこで検索マッチされたか、元ミシュラン三つ星の脇板という経歴も評価の書き込みにアップされていた。店内と帰宅時のオフの雰囲気の落差はホテルの女性スタッフの噂の餌食になってはいたが、万智に接近中と勘繰られたあたりから、万智には聞こえてこなくなった。支配人の陽子が一言万智に聞こえるように事務所で一度言っていた。
「まァ、50近いけど、俺にはまだ色気はあるよって言いたいんじゃない?」
離婚した一人娘の万智が大阪を出て、父と祖母の住む秩父の家に入るのは仕方のない成り行きだったが、日ごと二人に折り重なる老いが、自分の細胞に沁み込んでくる気配を感じている。このままでいい。二人は正直なところそう思っているに違いない。見合いの話を持ち込むことも一切ない。再婚が話題になることもない。夕食の献立の話。病院の先生の話・・・。
東京へのデートに着てゆく服を買いに東京にまず一人で出た。うきうきしている自分が妙に嬉しかった。まだアンタもおしゃれしたいんだ。捨てたもんじゃないのかもね。ショップを梯子して歩く高揚感。おそらく、料理長にではなく、そんな久しぶりの万智本人に。
母が亡くなり、父方の祖父が亡くなり、ずっと大阪のS電機に勤めていた父が急に脱サラを決めた。会社で何があったか知らされなかったが、近畿をどうしても離れたいと言ってきかなかった。空き家となっている祖父の生家の農家のある秩父に祖母を連れて帰ることになった。都落ちを祖母は初めはまったく受け入れなかった。しばらくは大学3年の万智と住んでいたが、一度体調を崩した父の様子を見に来て以来、大阪にはもう戻らなかった。父に農業は無理だった。小さなブドウ園やしゃくしなで生計が立つわけもなく、父は皆野の小さな税理士事務所に入り、生家は二束三文で業者に売り、畑は大半S電機の子会社とメガ・ソーラーパネルの太陽光発電設備用の借地契約をして市内の今のマンションに移った。
若いころ、顔を合わせると父とのいざこざは絶えなかったが、祖母はいつも味方だった。詰まるところ、祖母は万智と万智の父両方の味方だった。都落ちのド関東を恨みながら、文句を言いながらも実の息子の世話を焼き続け、結婚や流産や離婚のハードルに遭遇すると逃げ込んで来た万智を祖母はいつも笑顔で迎えてくれた。
「そんなん、しゃーないやないか。おかえり。あんたが帰るお家はな、うちのここや。」
祖母はいつも小さな薄い自分の胸をたたいて見せた。父とは相変わらず会話にはならない。たまに批判がましいことは言ってくる。が祖母の一撃で黙る。
「あんたは、いらんこと言わんとき!たいがいにしときや!」
このところ、足を引き摺るようになった。その祖母をコロナで殺すわけにはいかない。そんなことはできない。半地下にあるシャワールームには天井窓があるだけで、なかなか熱気が抜けない。また折からの真夏日で、万智は先日銀座で買ってきたシャンプーで髪を洗い終えてから湯を冷水に変えて浴びている。にもかかわらず、何か頬にふんわりと生暖かいものを感じた。
「ばあちゃんを殺すわけにはいかへん・・・。」
目頭が熱く、アイラインが溶けて流れていた。ノブを捻って水を止めてシャワーヘッドを握ったまま腕を下ろして、天窓から聞こえて来る川の音を聞いている。大阪から誰一人として知らない遠い遠い所に来てしまった。祖母も自分も。
「ここで二人でコロナで行倒れかいな・・・。そんなんシャレにならんわ・・・。」
万智はシャワーヘッドで自分の頭を軽く小突いてみる。イグやウルフにせよ、圭太のことにせよ、支配人の陽子が万智に話すとき、「若い子は」と一括りにして自分たちとの間に線引きをし始めた。
「若い子はそうそう死なないのよ、集っても。私たちはね、死ぬかもしれないのよ!万智だってこの前の人間ドックで確か『糖尿予備軍』だって言ってたじゃない。基礎疾患があるとまずいらしいわよ?」
確かに糖尿病薬を2年前から処方されて服用している陽子は、「若い子は」コロナに罹っても死ぬことはないが、基礎疾患を抱える「若くない」自分たちは死ぬ可能性が高いと聞いてからは、当初から祖母に移したら大変だと言ってデスクやノブに除菌スプレーをしていた万智と一緒になって圭太たちが咽るほどアルコールスプレーを事務所でもシュッシュシュッシュとまき散らすようになった。半分冗談、半分はマジ。支配人陽子のその時の目。万智に向かってウインクをする。万智は陽子の線引きのこちら側にいる。いつの間にか万智は「若い子」でなくなった。
「『私たち』?いっしょにせんでほしいわ・・・。」
洗い髪をこめかみから両手で掻き上げて、ハーフアップに後ろでピン止めをしてシャワーキャビンから出て、洗面台の鏡の方に向かう。「若い子」に見えるか、白髪が見えるか。鏡を覗いた瞬間、万智はギョッとする。今出てきたシャワーユニットの中に、バケツとモップを持ってタボが立っている。
「えっ⁉」
鏡のタボはまァ、まァという制止するような素振りをしながら、いつもの笑顔で後ろから万智を見ている。ゾッとして、飛び上がるように万智は振り返る。今の今まで一人でシャワーを浴びていたのだから、誰かがそこにいるはずもない。もう一度、鏡を見る。タボは消えていた。恐る恐るキャビンに戻り、ぞんざいに差したままのシャワーヘッドを丁寧に嵌めなおして、ノブをきつく締めなおす。社員用のこの狭いシャワールームもタボがいつも磨き上げてくれている。
「タボさん、あんた、住みついとるんかいな・・・。」
それでも後頭部や背中からの怖気のさざ波がいつまでも全身に広がり続け、鳥肌も動機も収まらない。掌でクリームを塗りつけているその手の甲が血の気が引いて冷たい。万智は手の甲を交互にこすり続ける。
自分が死ぬとはまず思わない。が、万智にとっていつも帰る場所のばあちゃんの「うちの、ここ」にコロナを持ち帰ったら、ばあちゃんが死んで、万智の帰る場所がなくなる。一人残った父親の面倒を見るためだけの生活。まずありえない。それだったら、自分も死んだ方がまし。言われてみれば、ばあちゃんだけではない。コロナ・ウイルスに、万智は人生初めて自分が「死ぬ」こともあるのだという、いずれ死ぬなどと漠然とすら思ったこともない万智に、「若くはない」自分がヒト科の生き物であり、死ぬこともある事実を突きつけられている。
誰もがはるか先のこと、他人事と思っていた死を、中国やイタリアやアメリカの遠い出来事と高をくくっていたのが、最近は日本でも実際コロナ死が天気予報のように報道されるようになって、やおら、死神は間近に迫ってきた。いやいや。死ぬのは仕方がないとして、今じゃないでしょ。皆が一斉に慌てて死を恐れるようになった。妙に汗をかく輩も、咳をする輩も、くしゃみをする輩も、死の粉末と噴煙をまき散らす死神の手先。身近にいたら、いびり出すにこしたことはない。その雰囲気の中、ホテルにはGo To Travelのまったくフィルターのかかっていない宿泊客が今週から押し寄せてくる。
「どないせいっちゅうんやろ。」
万智は私服に着替えてからすぐにまずタボの携帯にもう一度連絡をしてみる。応答はなかった。留守録にメッセージを残し、家のばあちゃんには帰るコールをする。
「大丈夫ですかって、なんのことだろうね?明日のシフトならさっきも言った通りきちんとスタッフ用意できてますよ。あんたにしてはしつこいよ。じゃあね、明日ね。コロナ・ホテルなんかにゃしないからさ、あたしらにまかしときな!」
タボから音声メッセージが入った。万智は携帯を力いっぱい握りしめ、胸に押し当てて従業員通用口から家路についた。