ロコ・ホテル

ロコ・ホテル 3

 コロナ陰性の経過観察のCフロアーの大学生カップルが玄関ホールに下りて来て、自動販売機コーナーに向かってゆく。非常事態宣言で中止になったものの寶登山神社の八坂祭りを見込んだ予約のうち、すぐにキャンセルできるネット世代の予約ではない年齢層の残存予約客のチェックインの対応をしながら、イグとウルフはカップルの方を横目でフォローしている。カードも携帯も持ち合わせない高齢の宿泊客で新規が多く、まず目の前のチェックイン作業自体が流れ作業というわけにゆかず、二人は必要に迫られて、本来居てはならない招かざる自販機の前のカップルを取り敢えず放置せざるをえなかった。「見えてる?」
「もちろん。」
「で?」
「今は無理。」
「だよな。」
「でも、まずいね。」
「わかってる。」
「でも、まずこっちのチェックインでしょ?」
「だよな。」
 正面の妙にイラついているチェックイン中の老夫婦に新会員加入の場合のポイント加算のメリットを説明しながら、イグはウルフと一瞬の横眼のコンタクトと、目線で自販機を追う仕草と、ちょこっと眉間を寄せるだけでこの無言の会話を交わしている。ついでに、ウルフとは今後も組んでいけるかも、と脳のどこかでふと考えている。
 ホテルマンとしての勘どころのアンテナ。接客しながら四方を把握し、すでに次の動きを決めていること。相対している宿泊客という「点」をホテルに迎え入れるという何本もの「線」引きをして、その線が混線しないようにホテルマンは三次元の立体のサービスの複合体であるホテルにしてゆく。偶然参加したスイスのローザンヌのBeau Rivageの有名な総支配人の講演で、同時通訳された内容を珍しく必死にメモを取った。圭太が恐らく得意に違いないホテル・スクールのつまらない数々の経営管理や会計の教本ではなく、イグはこの点と線をうまく繋ぐフロントが単純に面白そうだと思って就職した。教科の点数が悪く、グランホテルは書類選考の段階で相手にしてもらえず、面接試験後まずメイクの掃除が第一条件というこのホテルしか選択肢はなかった。どこであれとにかく希望のフロントに立つことができた。今イグの脳は三つのことを同時に考えている三次元脳ではないか。妙にイグは自分を誇らしく思えた。ホテルマンであることの自負。ウルフもなかなかじゃないか。アンテナが張っている。
「だから、わたしらはこの年で、動けるうちに、どうせならそんなに混まない八坂祭の時だったらって来ただけでさ、また長瀞や秩父に来ることはまずねェ・・・。どう思う、お前は?」
 亭主が老婦人の方を向いて同意を求める。細面で痩身の亭主と対照的なかなり太っていて、杖を持っているが、その杖で玄関の表の方を指しているところをみると、歩行に大きな支障はない様子がわかる。イグはチェックリストの「歩行ほう助 不要」「車いす なし」にレ点を入れる。
「あの・・・。昔は駅前に寶登山神社のお仮屋が出て賑やかだったけんど?。」
「今年の八坂祭りはコロナで縮小されてしまったんです。神輿や笠鉾が出て町内を練り歩くことはないそうです。神社の御仮屋も設置されてません。」
「そんじゃあ笠鉾も見れんし、お囃子も神楽もなんもないんかね?」
「残念ですが、そういうことになります。」
「何のため来たかわからんね・・・。」
 後ろの地元のブルーカラーに違いない宿泊客たちがイラついているのがわかる。天井を仰ぎながら、腕組を絞りなおしている。ぐずついている先客が年配でなければ割り込んでくるタイプ。だが年配に対しては不思議と敬意を欠かさない風土が秩父にはある。当時の取引先のフランスのリヨンで生糸が大暴落して収入が激減したうえ、松方デフレで追い打ちを負って生活が成り立たなくなった明治初期、秩父困民党の今のじじばばの親たちの農民は鍬や槍を持って武装蜂起した。その噴気のDNAは鎌倉時代末期、南北朝の頃の武蔵七党の丹治党のころからこの秩父山脈の山合に営々脈々と血流に引き継がれていて、その血が自分より少しでも濃い世代に対しては自然と必ず一歩下がって賛仰(さんぎょう)のスタンスは欠かさない。その様子から、後列で順番待ちの数名が地元の客であることはイグは直感的に判っていた。こうした逆境を乗り切ることこそホテルマンの醍醐味と思っている。ホラ、線がこんがらかってきたぞ。解くのが仕事。俺のお仕事。かえって浮き浮きしてくる。俺にはこれが必要。この程度お任せあれ。フロントはきっと俺の適職。
「境内の藤谷淵神社で神職だけで神事が行われるそうで、見学もできないそうです。確かそうですよね?」
 イグは老夫婦の肩越しに後ろでブルーカラー集団のヘッドに違いない腕組をしている最もイライラしている先頭の男性客に声をかける。日焼けが顔面の(しわ)を刻んだ親方風情そのままの地元の50代なら、強面でも老人には弱いはず。イグは白羽の矢を放ってみる。
「すみません、お待たせして。地元の方ですか?」
「え?俺?あ、まあ、そうだけど。」
 更に後列に並んでいる同僚たちが「地元」に反応してニヤついている。
「新井さんはどう見たってぶっこぬき地元にちげーねーやいなあ。(一同笑う)」
「そんなこたァねェ。おらがんちは、代々くまげえ(熊谷)だ。都会だいな。こんな山奥たァ、一緒くたすんな。」
「くまげえは地元秩父のあがりっぱなだいなァ。顔にかいてある。」
「おめェら、てーげーにしとけよ。」
 これで順番待ちのイグの列は掌中に入れた。クレームにはならない。イグは追い打ちに更に地元事情通向けの質問をわざと投げかける。
「八月の船玉まつりも花火も今年はやっぱり中止なんでしょうか?」
「どうもそうらしいね。」
「そうですか。残念ですね・・・。でも、寶登山神社の本殿の補修工事は終わって囲っていた足場は取たって昨日聞いたんですが。」
「うん。二四(にじゅうし)(こう)の欄干の彫刻も見えるようになったよ。それから、船玉祭りの万灯船の補修を俺らは請け負ってんだけど、ゴートゥートラベルに向けて境内に船を上げて夜は提灯に照明を入れるって案もあるみたいだよ。」
「それは凄いですね。いい情報を有難うございます。」
 老婦人の方から後ろの親方風に声がかかる。
「じゃあ、とにかく何年か前塗り替えられたご本殿は拝観できるんですかね?」
「問題なく大丈夫ですよ。」
「奥宮にも上がれますかね?」
 親方風が振り向いて後ろの同僚たちの確認をとる。
「な、ロープ―ウェイのバンビとモンキーの二台、動いとるよな?」
「動いとる、動いとる。でもよ、おばあさんたちにはロープ―ウェイの山麓駅までの坂っと歩くんはちょっとよーいじゃねえかもな。」
「えれェようだったらさ、えぶ(歩く)こたァない、バスにされたら。」
「そうだいな。明日は天気もいいあんばいらしいですよ。」
「でもマスクしないとおん出されるらしいっすよ、モンキー号。」
 イグの方ではなく、並列で並んでいるウルフの列の作業着でマスクをずらして片耳に引っかけたままの男性客が有難いことに話の尾をつまんでくれた。
「世話ねえさ、コロナでロープ―ウェイも(から)留守で貸し切りかもしんねェし。マスクなんざいらねえさ。」
 ロビーの待機客の大半が薄笑いを浮かべてていた。決して広くないホテル・ロビーのメリットかもしれない。グランホテルの広いロビーで、ある意味、皆、アノニマスで個人情報保護・相互不干渉という観点で設計された広々とした絨毯張りのフロント・ロビーではあり得ない展開に助けられ、これで、隣の列のウルフの待機客の機嫌も取り込むことにイグは偶然成功した。客に見えないように腰のあたりでウルフがグー・サインを送って来た。
 老婦人が顎で亭主に早くチェックインを済ませるようにと促す。先刻まで(いが)み続けていた亭主は、握りしめていた老眼鏡をかけなおして、イグの差し出していた会員入会控二人分とチェックイン・シートに記入を終え、飛沫防止シートの下の受け渡し口から差し向けられたデジカメのレンズに屈みこんで一人づつ顔写真を撮り、二泊分の前払いと固辞し続けていたマスク何と六枚分のキャッシュを支払い、写真をはめ込みイグが作成した会員カードを受け下り、嘘のようににこやかにフロントを離れていった。最後列のブルーカラーの一人が通り過ぎようとした老夫婦の荷物を代わりに持ってエレベーターまで付き添いながら話を続ける。
「ったく、ここはベルボーイすらおらん。」
「いや、お気遣いありがとうございます。助かります。」
「今年は八坂も船玉祭りも中止で、すいませんね。せっかくお越しいただいたのに。」
「夜祭もやれなかったの?」
「残念でした・・・。でもね、マスクして笠鉾や屋台を引っ張れませんよ。」
「おたくも屋台引くの?」
「はい。ガキの時から毎年。」
「こいつも子供のころ、お祭りのとき、父親を訪ねて来てたみたいでね。」
「お父様が秩父にいらっしゃったんですか?」
「出稼ぎでセメントの会社にね。夏は毎年遊びに来たんです・・・。」
「ホーリャイが聞きたいってね、こいつずっと言ってて。ほら、掛け声だってやつ。」
「(大声で)ホーリャーイ!ですね⁈」
「そうそう・・・。」
「今年の祭りは全部やらないんで、余った予算で船玉の提灯も屋台の提灯も新調になりますから、来年は見ものですよ。お二人とも元気できっとまた来てください。ま、今年は静かな秩父を堪能してくださいよ。」
「そうね。そうさせてもらいましょう。有難う・・・。」
 その後のチェックインは滞留点が解けて、線となってホテル客室に次々と嘘のように繋がっていった。イグには入室した宿泊客のルームライトが次々と点灯してゆくホテルの夜の外観の立体像が見えている。ホテルの窓に灯が点り、ホテルの館が夜空に煌々と立ち上がってゆくはずだ。ホテルという立体を今俺が立ち上げている。
「お待たせしてすみませんでした。ごゆっくりお寛ぎください。一日お疲れさまでした。では、おやすみなさい。ホーリャーイ!」
 イグはチェックインを済ませた宿泊客にルーム・キー・カードを手渡す度に掛け声をかけて送り出し始めている。イグのテンポは職人受けがよく、ウルフの列と合わせて十九組の同時チェックインの渋滞はその後物凄い速さで解消した。ほぼ全部の新規客の会員獲得も達成していた。どの客ももうとにかく何でもいいから早く済ませて部屋で風呂を浴びたいという一心であることをイグは十二分に利用したにすぎない。
「なんでもいいけどさ、もうそのホーリャイやめない?」
「ごめん。止まんなくなっちゃって。で、ホーリャーイってどういう意味?」
「まあ、ワッショイといっしょだけど、屋台の上から囃し手の音頭取りが使う掛け声みたい。意味は知らない。」
「なんか、いいよ、響きが。」
 チェックイン客が居なくなったホールの見通しが立つと、その間合いを見計らったようにCフロアーの大学生カップルが自動販売機の前からフロントに向かって寄って来た。
「ようやく空いた。もの凄い客だったね。」
 基本的にCフロアー客の館内移動は禁止されている。ドリンク等の要望があればフロントに連絡することも含め、外出規制等の保健所からの「ガイダンス」が各客室に配布されている。特に体調管理に関しては細目にわたって注記の付された小冊子も用意されていた。ホテル側からも「お願い」として、洗濯物を備え付けの青いビニールの大袋に入れることや、廊下に出す時間等のラウンドリー・サービスに関することやベットメイクやルーム・クリーニングは到着翌日から三日ごとのみ行われること、ゴミ出しの仕方、室内配備のPCのZOOMの立ち上げ方、保健所とのホットライン回線の説明、やむを得ない館内移動の際のマスクの着用等々の制限を列挙したリストが用意されていた。精読する時間はあるだろうという意図がくみ取れた。が、おそらく今近づいてきている軽佻浮薄感の否めない若い大学生カップルは手に取ることもせず、禁則事項と知らず、入室時に一眠りした後フロアーで、夕食時、待ち合わせる口約束をしていたに違いない。
「あのさ、俺たちはコロナ扱いでさ、護衛に監視までされて間隔開けさせられてチェックインしてたけど、さっきの連中こそ、『密』じゃん?」
「そうよね、『密』じゃなくて、あれは『濃密』じゃん⁈」
 イグがいつもの笑顔を頬筋で形作って応対しようとした刹那、ウルフが制止して割り込んできた。左手で制服の上から首元を抑えている。ウルフは勤務中指から外している金のリングをネックレスに通してぶら下げている。丁度その首元あたりあるリングを外側から触っている時、ウルフが引くことはまずない。譲れないものがウルフにあるときの所作。イグは一歩下がる。
「ご用件をお伺いします。」
「ま、要件というほどのことじゃないんだけどォ、ここって埼玉でしょ?」
「はい。ご存じではありませんでしたか?」
「ご存じも何も、バスに押し込められて連れてこられただけだからさ。」
「そうでしたか。ライン下りとタモリの石畳のある埼玉の長瀞です。てっきり、ご存じかと。」
「まだホテルの中しか見てないし。」
「そうでしたね。お部屋にご用意させて頂いているガイダンスには住所は書いてないかもしれませんね。ご滞在先をご両親にご連絡されるにもそれはお困りでしょう。すぐに当館のパンフをご用意します。」
「ネットで今見たんだけど、コカ・コーラの自販限定、さいたま限定のさいたまテイストのSpecial Edition Saitamaがあるって。川越の『時の鐘』と長瀞のライン下りのイラストがあるアルミの真っ赤なボトル入りらしいんだけど、ここの自販で買えないのかなって。記念になるしさ。せっかくだし。」
「ね、欲しーよね!」
イグがウルフにホテルの折パンフを渡す。
「自販機にあるだけです。」
「じゃあさ、この辺でまだ開いてる酒屋とか行って聞いてみようか?」
「そうしようか?」
「あのこの辺に酒屋さんとかありませんか?」
 ウルフがマスク二枚を飛沫防止シートの下の受け渡し口から二人に差し出す。
「申し訳ありませんが、ご気分がすぐれないとかいうことではないのですね?」
「だからさ、俺たちはコロナじゃないって!検査したんだから!マスクなんかする必要ないの!」
「次の検査までのご滞在ですよね?」
「あんたこそさ、検査したのかよ⁈」
「いえ。」
「じゃ、アンタの方が危険かもしんねーわけじゃん。」
「まずはお部屋に戻ってガイダンスをよくお読みください。」
「その前にさ、コーラ買いたいんで、この辺の酒屋さんとか、近くのコンビニ教えてくんない?」
「申し訳ありませんが、できかねます。お二人が館外にお出になる場合は、ホットラインで許可を申請していただくことになっています。それから、館内ではまず他のお客様同様マスクを着用して頂くことになっています。」
「あのさ、俺たちになんか喧嘩売ってんの⁈」
「そうだよね、何かヘン・・・コーラがないかって聞いてるだけじゃん?」
「だいたい看護婦でもないのに、よくこっちの具合がどーのこーのって聞けたもんだぜ、偉そうに!」
「もういいじゃん。捜しに出ようよ。このひとはマニュアル通りに話してるだけなんだから、埒開かないから・・・。」
「もう9時半ですからコンビニしか開いてませんし、お出かけになったら、その旨を連絡することになります。」
「ふざけんなよ!いい加減にしとけよ!俺たちの自由を奪う権利なんかねーだろーが‼看護婦でもケイサツでもねーくせによ!」
「(大声で)そうだ、そうだ!兄ちゃんたちの言うとおりだ!だいたい、何なんだ、このぶら下がっている鳩除けみたいなビニール・カーテンは⁈暑っ苦しいったらありゃしない。ずっと気にかかってたんだ。ついでにマスクの中でもぐもぐつべこべ言われたって、聞こえやしねェ・・・。」
 折悪く、株式新聞と投資本や大きな紙袋を抱えて「住んでいる人」のキトウの爺さんが「帰宅」してきた。イグがそろそろ自分の出番かと身を乗り出そうとした瞬間、背後から腕を掴まれた。振り向くと十子がうしろに立っていた。
「あれ?今日、非番ですよね?」
「ちょっとシフト表を見に来たの。」
「制服にわざわざ着替えて、ですか?」
「まあね。万智さんからさっき電話もらったし。」
「そうか。でも、助かるかも・・・二人なら何とか俺でも対応しますが、キトウの爺さんはちょっと苦手で・・・」
十子がイグに目くばせをする。
「『住んでる人』がいた方がいいのよ。」
 自分たち以外の客がフロントの前に参列したことで、おおっぴらに話しずらくなり、大学生カップルのトーンはダウンしたが、替わってキトウの爺さんの大音声が例によって途切れない。
「大体だな、マスク着用は自由意志であって、強要は鼻っから基本的人権の侵害じゃろうが!自慢じゃないが喫煙歴50年のワシの肺は当然狭くなっていて、マスクしてると熱いは、臭いわで呼吸困難になって、え?一体それでワシが死んだらお前らに責任とれるってのか⁈この前だってマスクしてた小学生が運動会で死んだだろう?生きるも死ぬも、ワシが決めることで、お前ら赤の他人に誘導される筋合いはまったくねェじゃろうが!大体だな、この(株式新聞をたたきながら)プリンセス号の乗客だって、コロナの患者と一緒くたに閉じ込められて、人権を日本の政府と政府の手先の馬鹿なマスコミに洗脳されて無理やり形成された世論に完全に蹂躙されて、あれじゃ、艦内の下水道や空調で全員がコロナに(たか)るまでどうぞ待ってますっていう秀吉の水攻めとおなじ皆殺し戦法じゃねェか。俺が首相だったら、プリンセス号ごと買い取って、赤十字の旗立てて、船ごと『病院船』認定して、アメリカからマーシー号を呼んで、乗客全員を乗り換えさせてから日本郵船と大学病院にプリンセス号を除染させて、コロナ病棟に改築させて、今後の感染爆発に死に物狂いで備えるね。日本には津波も来るから、日本海側にも一艘用意させる。こんな貧弱な鳩除けシートをフロントに張って、マスクをしろだの、出歩くなだの、ちまちまやってる暇なんかねェんだよ、実際!なあ、兄ちゃん、そーだろ?」
 カップルはすっかり固まったままで顔を見合ってその場を立ち去る隙を待っている。イグとウルフを押しのけて十子がフロントの正面に立つ。ムーンフェーズ入りの腕時計をしきりに見ている。
「お帰りなさい。お疲れ様です。そろそろお部屋に戻らないと、ニューヨーク市場が始まってしまいますよ?今日からまたお部屋変わります。615号室に、お持ちの大切なご本や相場関係の雑誌は括って全部お引越し済んでいます。新しいルーム・キー・カード、今からすぐ発行しますね?」
「あれ?明日からじゃなかったっけ?」
「いえ、今晩からなので、何かあったらいけないと思って、今、出てきたところです。また大事なマーケット・レポートがなくなっていたらとちょっと心配になって。タボさんからも連絡がありました。一番上に最新の雑誌が来るように全部いつものように紐で括って床に置いたそうです。」
「あ、そう。それは、いつもありがとう・・・」
 キトウの爺さんが手にぶら下げていた大きな紙袋をカウンターに押し込もうとする。飛沫防止シートに引っかかって大きな紙袋が下の隙間からうまく差し入れられない。
「ったく!こんな鳩除けがあったら、君の手も握れやしないじゃないか・・・。」
 今にもシートを引っぺがしそうな勢いのキトウの爺さんの横からやはり丁度帰宅しきた「住んでいる人」の一人、トミーが横からシートの裾を持ち上げてニマニマしている。
「なんだ、あんたか。」
「なんだ、はご挨拶じゃない?俺も今夜から引っ越しで。カード、俺のも作ってよ、十ちゃん。」
「はい。かしこまりました。お帰りなさい。」
「キトウさんさ・・・。」
「?」
「今の話なんだけどさ。むちゃくちゃ、いい話だよね、コロナ専用の病院船建造の話。」
「だろ?」
「政府に提言してみたらどう、本当に?」
「管轄官庁はどこかな?」
「コーロー省かな?」
「やつらは目先のことでおたおたしているだけで、手一杯じゃないかなァ・・・。全員下船してもうしばらくたっちゃってるしね。」
 紙袋の中を覗いて十子とウルフが気勢を上げている方をキトウ爺さんが横目でチラ見する。
「これ八幡屋の和銅最中じゃないですか⁈こんなにたくさん!」
「支配人たちにもあげてよ。」
「いつも、有難うございます!株、上がったんですね⁈」
「まあね、ちょこっとね。コロナ・ミニ・バブル。そうそう、富田さんにも、そこのお兄ちゃんたちにもあげてよ。」
 トミーが大学生のカップルに最中を配る。
「いや、俺らはいいっすよ。」
「まァ、そう言わずに。で、君らは長瀞観光?」
「そういうわけでもないんスけど。」
「なんで揉めてんの?」
「いや、だからさ、この二人にマスクしろだの、外出はだめだとかさ、うるせーことフロントの新人がしゃくし定規に言っているから可哀そうになってさ・・・」
「なんで外出がだめなの?」
 和銅最中をカウンターに並べる手を止めて十子が会話に割込む。
「こちらのお客様たちは政府主催のシミュレーションにご参加いただいている各世代の方々で、オリパラに向けて海外から来られる国際会議の参加者の健康観察期間の民間宿泊施設での受け入れ、対応のノウハウの集積、問題点の洗い出しにご協力いただいているんです。外出がいけないというのではなく、外出等の事例をデータとして報告させていただくことになっているというだけのことです。」
 フロント前の4名が静まる。目に疑問符を浮かべて、学生カップルがきょとんと十子を見返している。「キトウ様。こちらが615号室の新しいカードです。今回は荒川を見下ろせませんが、雲取山や両神山が見えますよ。縁起の良いとおっしゃっていた向きです。はい、どうぞ。(カードを手渡す)最中、ごちそうさまです。早くされないと、場があきますよ?日本郵船は確かADR銘柄でしたね?病院船は、お得意の株主提言されますか?民間主導でなければまず無理っぽいです。何でもMercy ShipsというNGOの病院船でも、中国のChina State Shipbuilding社に発注してからもう丸々7年かかってもまだ完成してないってきいてますから、急がないと人類がコロナに負けちゃいますよ?あ、こちらが富田様の504号室のカードです。日本精機様からヘッドアップ・ディスプレイ、届いてます。お部屋に搬入済みです。それと、こちらが、領収書と現金のお釣りです。」
 キトウの爺さんは、カウンターから二つ和銅最中を奪って、一つをトミーに渡す。二人は包み紙を無造作に剥いて頬張りながら踵を返して連れだってエレベーターの方に向かう。
「あのさ、十子(ジュウコ)銘柄って言ってんだけど、結構当たるんだ。」
「そうなんだ、へェ。」
「あの子、ドイツ語とかフランス語、ベラベラなんだってさ。」
「そうらしいね。ナニモンだろ、こんなところで。ま、普段だったら外人も多いものね。夜祭の頃なんか特に。」
「だから政府もここを選んだのかもね?」
「まあ、あの支配人もやり手だしな。」
「そういえば、あのオバハン、昔オリンピック選手だったらしいよ?」
「そうそう。バレーボールの強化選手だっけ?」
「やっぱり、八幡屋の餡子はうまいね。」
「そうさ。福島の薄皮饅頭かこれだね、俺は。」
「山向こうの白石のあずきすくいって食ったことある?」
「ああ、あの甘い小豆粥ね。」
「小豆って大昔っから食べてたらしい。縄文の頃から。」
「そうなんだ、へェ。」
「豆だから、手間かけずにすぐはびこるし、すぐに炊けて、すぐ食える。縄文時代のファーストフードかも。それに乾いたら枕に使えるのさ。土地が痩せてるところの枕の中はそば殻か小豆って決まってる。」
「そうなんだ。」
 二人がエレベーターに消える後ろ姿を大学生カップルが見送っている。十子が今度はカップルに話し掛ける。
「お二人がお探しのさいたまテイストのSpecial Edition Saitamaのコーラのことですが?」
「あ、ハイ。」
「もう一度。ググって検索してみて頂けますか?」
「(ケータイをかざして)欲しいのは、これだけど?」
「いつの書き込みかよく見てください。」
「あれ?」
「ですよね?去年の夏の限定販売です。それに、去年でも酒屋に行かれても入手はできなかったかと。メーカー直販の自販機限定ですから。」
「そうか・・・」
「空きビンだったらありますけど?」
「どこ?」
「向こうのセーラームーン・キッズ・コーナーにあります。スタッフの私有物なのでお渡しはできませんが。」
「飲んだの?味は?」
「私は飲んでません。飲んだスタッフはコカ・コーラ・ライトみたいだと言っていた気がします。」
「そうですか・・・。」
 彼女の方が早速セーラームーン・キッズ・コーナーに小走りして開いた赤いアルミの小ボトルを探し出して振っている。
「埼玉ってかいてある。かわいい!ね、二人ライン下りのお船に乗ってる!」
 彼氏はカウンターから最中二つとイグが渡そうとしていたマスク二枚を取って立ち去ろうとしていた。別の一般のチェックイン客が数名玄関から入って来た。ホール中央あたりでフロントの方に振り返り、十子に向かって軽く会釈をして、ボトルを彼女から受け取り、セーラームーン・キッズ・コーナーの棚に戻した。彼女が怪訝な顔をしている。
「いらないの?」
 エレベーターでC階にやっと戻ってゆく二人を見送って、十子はバックヤードに引っ込んだ。イグとウルフは今入って来たレイト・チェックイン客の応対を始めている。いつの間にか22時を回っていた。「住んでいる人」もコロナ経過観察の滞在客も、そしてイグとウルフも、それぞれがいるべきところ、あるべきところに収まった。
「もうだいじょうぶね?」
 イグとウルフに後ろから小声で声掛けをして、十子がロッカールームに着替えに向かおうとすると、ウルフは例のハイなリズムと回転で丁度一組のチェックイン作業を終えて、ルームカードを手渡しているところだった。
「ゆっくりとお休みくださいね!」
 イグが急にカウンターの下にしゃがみ込む。床の下から首を折り曲げて立ち去ろうとしている十子の方を満面の笑顔で見上げている。屈んだ姿勢のまま肘を曲げ、宿泊客の視界の裏側のフロントの下に潜り込み、そこで拳を応援団風に一度振ってそのまま静止する。
「(小声で)ホーリャイ!」
 そのしゃがんだイグの腰のあたりを、ウルフがローヒールの踵で蹴り上げている。この子達はもう大丈夫。フロントを辞めることはなさそうだ。良いチームになるだろう。十子はそう確信した。
In(イン) loco(ロコ)ね、もう二人とも。」
「?」
「?」
「ラテン語よ」
 チェックインの入力をしているウルフの指がキーボード上で止まる。イグもしゃがんだまま十子を見遣る。十子はそのまま事務所を裏口から立ち去って行った。
「十さん、何て言ってた?」
 ウルフが『ラテン語 イン ロコ』でGoogle検索した画面をイグも立ち上がってのぞき込む。
「スペルわかんないけど、これかも。『居場所に』、『あるべき場所に』・・・。」
「?」
「きっと、そうよ。」
ふとイグは「宿」という漢字が屋根の下に人が百人居るという造りになっていることに思い当たる。講演でBeau Rivageの総支配人は、ラテン語のhospesが、本来困っている人を敵から護る宿泊施設と病院の両方の語源だと言っていた。まさに今、コロナ患者の居場所にもなっているホテルそのもの。コロナに集るのはマッピラだが、宿命なのかも知れない。さっきの二人組にしてみれば、ここが「あるべき場所」と思ってないから難癖を付けたがる。キトウ爺たちには自宅で煙たがられて来ているから「居場所」なんだろう。そんな色々な人の命を一つ屋根で受け入れている。
 仕事が終わって帰るのは、昨日食べた空のカレーカップヌードルが乾いたまま放置されているカレー臭が漂う8畳のワンルーム。あるべき場所とは思ってない。ロコじゃない。冗談。でも、ホテルに来ればフロントでは日替わりのストーリーで客対応ができる。まじで楽しいと思うことがある。それが捨てがたい。そうか、ここがロコでも不満はない。事務は往生するが、仕方はない。圭太先輩もウルフもいるし。
「うん。俺はいいよ。ここがロコでも。俺は続ける。フロントならね。ホーリャイ!ウルフはどうする?」
 Ⅽフロアー受入状況の視察も兼ね、本社の常務が三日後来訪する。新人面接があることになっていて、三年間の勤続に同意印を押せば、初任給の固定給が5%アップすると支配人から聞いている。
「コロナの有事だから、本社のあからさまな人員確保よ。でもね、イグちゃん、仮にあたしの人事評点が低くても、クビにはしないと思うよ、あのマトリクス・コスト常務。最近はね、各店の求人費用欄が赤くチカチカしてるぐらいだからね。安心していいわ。」 陽子はそう言って似合わぬウインクをしていた。
「どうしようかな、私。」
 あるべき場所にあるべき元カレが居ない。居なければ居ないだけ、まだ思いが病的に深みに嵌ってゆく。別にあの昔ながらの床屋で十分。あそこが元カレとのロコでいい。あそこが嫌なら、彼が行きたいところでもいい。要は元カレが居るところがウルフのロコであることに気づいている。一緒に借りたアパートは空っぽ。壊れた夢が転がっているだけ。でもその夢のかけらを拾って、愛おしんでいる間、元カレと一緒ではある。まだ好きで好きでたまらない。しかしこの半年、ケータイが鳴ることも、SMSが届くこともない。待つことが今のウルフのロコ。そこが居場所。
「あのさ、俺、わかんねェけどさ、他人の本当の気持ちなんて。けどさ、俺。ウルフとフロントやっていけたらいいな、って今日マジで思ったんだ。ウルフはさ、俺みたいにかわすフロントじゃなくてさ、押せるじゃん。俺、ウルフにもずっと居て欲しいよ。」
 軽い。とにかくこの男はすべて軽い。機転がものをいっているだけで、さっき自分で言ったことを忘れているタイプ。でも、いいところはある。まっすぐで、情が濃い。馬鹿なように明るい。
「ありがと。私、どうせ他に行くとこないし。きっと、まだ居るよ。まだロコじゃないけど。」
「ウルフのロコは元カレだろ?」
「そうかもね・・・。」
「でもさ、本当のロコかわかんねェじゃん、まだ。人生長いんだしさ。」
「あんまり勝手に人に入り込まないでくれない?」
「ごめん。」
「イグの事務、代わりにやってくれる同期が居なくなっちゃうよ?」
「(笑う)ごめん!見透かされてる!」
「ホラ、図星じゃん。」 
 イグは乱雑に散らばったチェックイン済みの宿泊客のプロトコルをしびしぶ集めて纏め始める。その手をふと止める。
「(でもね、ちっちゃいロコのかけらがさ、育つこともあってもいいと思うんだ。)」
 言いかけた言葉をイグは珍しく飲み込む。マスクのゴムを引っ張ってかなり口から離してからゴムパチンコのように口元に戻す。
「ホーリャイ!」
纏めたプロトコルを持ってバックヤードに入って行った。