ロコ・ホテル

ロコ・ホテル 4

払暁から間もなく、レーザー励起による白色光のような輝度の高い、太陽のスペクトルとは思えない朝陽が秩父長瀞のビジネス・ホテルのエクリュベージュ色の外壁全面に照りつけている。まるで白色LEDランプの工場が目の前で破裂したような異次元の真夏の朝が始まっている。二人組体制の一人としての25時間勤務終了まで、あと5時間。Ⅽフロアーの経過観察客からは運よく再検査対象者も出なかった。常に一本の根幹神経が張り詰めていた異常な精神状態からは解放されたとはいえ、終夜のスタンディング・ポジションでフロントのイグの両足には地球の重力が全てかかって、血が溜まり、その血にはもはやニュートンの法則に逆らってまで心臓に戻る気配がない。
 フロントの客側にもスタッフ側にも椅子などない。チェックイン客が立ってサインや支払いをする。だから、スタッフも当然立ったままPC入力をする。夜間もそのまま、立ったまま、前日予約客とチェックイン客の照合、夜〆作業、現金出納帳とキャッシュポジションの1円単位の有高照合、鑑賞ビデオ代など追加の請求書作成、自販機販売分や備品補充発注表への記入、稼働率や非会員数会員数の割合統計、販売した部屋タイプ、プラン別販売実績統計及び国別宿泊客分類表、営業概要等の本社報告書の作成、累々と数えれば切りのないこの入力作業を延々とやり続ける。少しでも数字が合わないと、本社の担当者以前に、何よりまず、あの圭太が嫌味たっぷりにマウントを張ってくる。タイムカードを打刻させられてから、合うまで圭太の間違い探しに付き合わされる。だから、夜間のこの入力作業中は集中していて、立っていることをあまり苦には思わない。むしろ、数字が合った瞬間からがつらくなる。丸太状態の両足が、関節の無い、重い二本の松葉杖のように固まっていて、膝が曲がらない。思い出したようにトイレに行くにも、壊れたロボットの直立歩行でカクカク向かうことになる。
「別にいいんだよ、お客さんに見られなきゃ、椅子を持ってきても。」
「そうなんですか?禁止なのかと思ってました。」
「そうさ。誰も禁止だなんて言ってない。」
「そーか!。」
「(間を置いて)まあ、誰も座ったことはないけどね。」
「・・・・。」
 そういうことになっています。ということがこの国には多い。そういうことになっているという不文律は「空気」というもので、日本人なら当然「読む」。いちいち欧米のように、明文化はしない。やっていいこと、やってはならないこと「すべて」を網羅し、雁字搦めにして法文化することなど、土台無理。だから日本人はみな「間」を大切にする。YesとNoに「すべて」割り切れる世の中か?そもそもYesとかNoとか短絡的かつ直接的な回答は、真剣に考えている相手に失礼に当たる。置かれているシチュエーションごとに「間」を設定し、その「間」を諮り、YesかNoかまたはどちらか寄りの立ち位置を定める。そのうえで失礼のないようにどちらにも相手が取れる、今日初めてペアを組んでいる女子フロントスタッフのウルフカットのウルフの嫌いな「ダイジョウブです」を言っておく。それが「空間」を生きる大人である。いいか、お前も「空気」を「読め」。  
そういえば、Go to Travelキャンペーンが鳴り物入りで解禁となる。ホテルやレストランや商店街が潰れかけ、ゴールデンウイークを棒に振らされた消費者のstay homeの鬱憤が暴発するかもしれない「空気」とその「空気」中のウイルスの量。三密は当然守り、マスクも当然装着したまま、飲食時の会話も当然控えることになっている「空気」は節度を持って「読み」、「安全・安心」な消費行動を国庫1兆6,794億円分に自分の預貯金も加えて全土で存分にお楽しみください。経済が死んだら、国民も死ぬ。国民が死んだら、コロナも死ぬ?経済を持たせたら、国民も生きて行ける。国民が生きて行けたら、コロナもまた生きて行ける?ん?
「圭太さん。」
「?」
 イグは、カウンターに両肘をついて体を支えながら、空気椅子のポーズを取ってカウンターに座っている振りをしたまま首をそり返して圭太の方を向いている。
「何してんだ、お前?」
「いや、よくわかんないんで、これなら、ダイジョウブかと・・・。」
 新人イグとして精一杯のレジスタンスだったが、まず事務室のコクヨのアームレス・オフィス用回転椅子では5本足のローラー付きの台座の直径があり過ぎて、後ろを他のスタッフが通り抜けるに十分なスペースが確保できないこと、会議室の折り畳み椅子では、高さ調節ができず、座ると低すぎて、鼻先がやっとカウンターに届く奇天烈な格好となり、座りながらデスクワークできるのは現状ではテナガザルぐらいだろうと圭太に論破され、カウンターの改築費または狭いスペースに適合したフロントスタッフ用の椅子は予算外であることを支配人に論告され、「そういうことになっている」空気をイグも悟った。 
 6時になって仮眠に入っていたウルフがフロントに戻ってきた。B勤務のためパントリーの朝食準備、自販機の補充、ホールのトイレ掃除がこれからのウルフの作業となる。
「俺がそっちやるよ。いい?」
「いいけど。」
「ちょっと動かないと・・・。足が固まっちゃってさ。逆立ちでもしたいぐらいさ。」
「丁度いいかも。」
「なにが?」
「今日は6時半からミーティングの代わりに、確か朝トレやることになってなかったっけ?」
「あ、そうか!タボさんの息子さんだっけ?インストラクターが?」
「息子さんじゃないよ。メイクで以前バイトしてた男の子で、ボクシングやってて、ストレッチみたいの教えてくれるって。」
「どこでやるの?」
「屋上ならスペースもあって密にならないって、支配人がノリノリ。その子、今度本採用にしたみたい。」
「モロ体育会系の肉食だもんね、陽子支配人は。いいけど、今からフロント、誰残るの?」
「決まってるじゃない。」
「草食系圭太先輩?」
「でしょう、やっぱ。」
「(シフト表を覗きながら)だね。シフト、きちんとそうなってる。あ、十子さんもまた来る。」
 何か言いたそうな顔をしてウルフがイグの見つめている手元のシフト表からイグの目線を横から逆に遡ってたどり着いた目元をのぞき込んでくる。
「ニートで引きこもりだったのが生まれ変わったんだって。」
「?」
「ボクシング始めて。」
「その本採用の子のこと?朝トレの?」
「そう。何かあったみたいで・・・。タボさんが面倒みてたって。」
「何かって?」
「ほら、国道のとこのコンビニ知ってるよね?」
「うん。」
「おなかすいて、あそこでもおにぎり盗んでたんだって。防犯カメラに映ってて、警察に捕まったんだって。この辺のコンビニの常習犯だったんだって。」
「あれま・・・。よく本社が採用許したね。」
「本社じゃないみたい。支配人採用だって。タボさんが頼み込んだみたい。」
「ニートで引きこもりでボクシングで窃盗か・・・。ヤバくない?」
「タボさんがずっとその子の未成年後見人なんだって。」
「え?いくつなの?」
「本当なら高校出る頃じゃない?」
「(笑いながら)よっぽど腹減ってたんじゃねェの、そん時?」
「らしいの、本当に、片親で家が貧しかったらしくって。」
「よくあるシングル・マザー?」
「違う。シングル・ファザーだったって。」
「だった?」
「おとうさん、亡くなってからも、バイトには来てたみたい。ご遺体、おうちに寝かしたまんま・・・。」
「げ、遺体放置?」
「みたい。毎日、おにぎり一個だけ持って来てたって。」
「よっぽどおにぎりが好きなんだ。『おにぎり君』だ。」
「(首を振る)まじでおカネなかったみたい。黒谷の横瀬川に下りるあたりのバラック小屋に親子で住んでて、お父さんが働いてた農園の人が心配して時々お米届けてたって。タボさんが一度お見舞いに行ったとき、炊飯器と日清のチキンラーメンの5食パックしか家になかったって。」
「今時、マジ?」
「その時もうおとうさん、糖尿で足も眼もだめで、寝たきりだったって。で、生活保護受給者。」
「なんかオニ落ちしそうな話だね・・・。」
 いくつかのバイトはイグもした。それこそコンビニでも働いた。賞味期限切れと消費期限切れの商品を毎日仕訳して箱詰めさせられていた。その箱や21リットルのクリーム色のポリプロピレンの食品用番重に破損品や賞味期限切れや消費期限切れの商品を入れて積み重ねて回収に来た業者のトラックに搬入していた。この頃になってプラごみや食品ロスが話題になっているが、一昨年前は、誰一人疑問にも思っていなかった。健康を害したり、一度でも食中毒を起こしたら、系列店としてのフランチャイズから外される。だから、とにかく、賞味期限切れ近い商品は、買い取り先の廉価スーパーに早めに卸す。卸せないものは、消費期限切れの商品と一緒に廃棄に回す。そんな説明をオーナーにされた。イグは廃棄用の菓子パンやバナナをいくつ「盗んだ」ことだろう。深夜の時給は良いし、特にひもじかったわけでもない。ただいつまでも続けたいバイトでもなく、それが理由でクビになっても、全く頓着なかった。面白いから取った。盗んだとは思わない。ピックしただけ。どうせ捨てるんじゃないか。それに賞味期限切れ間近の転売用のカップヌードルの12個が11個だったと言って誰か管理していて騒ぐのかな?一度たりともバレなかった。
 本当にひもじい少年がお握りを盗んで警察に逮捕されたのかもしれない。生きるために食べるものを買うお金がない未成年にどうしろというのかとイグは思う。ついでに身寄りの父親が横でぽっくり逝った?時々お握りをその少年が万引きする。デジタルに記録された高性能防犯カメラの映像解析で、少年は特定され、逮捕される。冷たくなっていただけか、すでに腐乱が始まっていたのかもしれない父親の元に戻すことはないだろうから、鑑別所直行で家裁の少年審判を待ったに違いない。一方イグは、熟知しているカメラの死角で、特に必要でもない消費期限切れの菓子パンや賞味期限切れのまだ売り物になるカップヌードルをたまにピックする。明るみに出ることもなく、責を問われたこともない。イグの働いている店に、バイトだけが働いている深夜の時間帯、おにぎり君が来てくれればよかっただけの話ではないか。冠婚葬祭の経験も、その資金もなく、おにぎり君は、父親の亡骸の横で途方に暮れたに違いない。場合によって、もう一銭もなくなり、ひょっとするとバイトしてせめて父親の葬儀代を作ろうとしていたのかもしれない。おにぎり代も浮かしたかったに違いない。詳しい事情など知らないまま、イグの物語の中でおにぎり君が世の無情を背負って苦しんでいる。
「なんか、世の中、おかしくねェ⁈」
「何の話?」
「だからさ、お握りぐらいさ、くれてやったらいいじゃん!」
「なに急に熱くなってんの?」
「俺さ、これ系の話、全然だめ!」
「でも取っちゃダメだよ・・・やっぱ。」
「俺さ、よくわかんないけどさ、どうしたらいいのかわからなくなって、本当に腹が減って困ってるやつにおにぎりの一個や二個、目をつぶってやればいいってマジ思うわけ・・・。チマチマしたチマイ話じゃん!」
 出勤してきた圭太がバックヤードとフロントの間の敷居に立って二人の話を聞いている。ネクタイを締めながら嘯くようにつぶやく。
「未成年でも14歳以上だと『窃盗罪』で『刑法第235条』を犯したことになる。父親の死体の件では、自己の占有する場所内または居住する共有空間に死体があることを知りながら、葬祭する責務を有する者が、葬祭の意思なく死体を放置すれば死体遺棄罪、または彼が葬祭する責務を有さない未成年と解釈される場合でも、公務員に報告する義務を有する者として、軽犯罪法1条18号に問われる。だったかな?」
「あ、圭太さん、おはようございます。トイレ清掃はイグさんと交代します。私は今からパントリーに回ります。」
 圭太はPCに向かってキーボードでパスワードを打ち込んで早速ネットワークにログインし始めている。
「あれ?おかしいな・・・。開かないな。」
「どうかされました?」
「支配人のパス、yoko52だったよね?」
「いえ。この前、一つお歳が増えてます。」
「あ、そ。53か。ああ、開いた。ウルフ、ありがとう。」 
 言い足りないまま、イグにはまだトイレ清掃に向かう気配がない。少年への無情を理解しようともしない圭太のマウンティング介入を咀嚼すべきか、圭太の方を振り向くことなく、後頭部で応答する。イグの否定感情がイグの後頭部であきらかに渦巻いている。
「圭太先輩は弁護士の勉強もされたんですか?」
「なわけないだろ?」
「随分スラスラと判例文みたいなの言えるじゃないですか。」
 圭太がPC画面に開いた文書をイグとウルフに閲覧するように促す。弁護士事務所からの支配人とタボ宛てのリーガル・オピニオンで、観護措置として少年鑑別所に送致され一定期間収容後、社会内処遇として保護観察処分が妥当で、未成年後見人の件は保護観察官とまず調整するべきという内容で、家裁に提出された情状酌量の余地があるという趣旨の調書のコピーが特別ルートで入手できた由が報告されていた。時折ホテルに立ち寄る秩父の村岡署長の名前が言及されていた。
「本社から移って来て早々、僕が担当したからね・・・。なんせ、逮捕劇、目の前だったからね。」
「ここでですか?」
「そうさ。朝食のあとの床掃除をタボさんとしてた。」
「・・・。」
「タボさんがモップを警官に振り上げて大声上げてたよ・・・。」
 リムが時々話題にする圭太の切れ長のタオファイェンが瞬きをすることなく画面を覗いている。言われてみれば確かに美形だとウルフも思う。リムの話だと、怒っている時の圭太の目はうるうるしていて、紫がかっていて、中国では最近色っぽいイケメン・スターの条件といわれる目そのものだという。桜花色のカラー・コンタクトレンズは中国ですぐに売り切れるらしい。元カレがよく連れてきたビューティー・アート・カレッジの美容師の卵たちには業界誌のモデルをしているという男子もいて、中にはLGBT・トランスジェンダーもいた。奇麗な男の子は何人も見てきている。長瀞や秩父で連れだって歩くと観光客にまざってもまず目立つ集団だった。ウルフの趣味ではない。ハーレーの似合う男子だけがウルフの本能に触れる。太い腕でなければ。あの細い腕の先の細長い繊細な指先には触ってほしくない。が、確かに圭太の今の目には不思議な凛とした主張を感じる。見つめられると断れない魔力のような目線なのかもしれない。まあグラボブはいいとして、耳掛けのマッシュはやめてほしい。耳は出してショートにしないと。前髪もうざい、とは思うが。ところで、圭太は何を怒っているのだろう。
「ゆとり教育ってさ、善悪をまず教えないからね。」
「俺、ゆとり世代じゃないっすよ?」
「僕もお前も『おにぎり君』もみんなゆとり世代だよ。」
「そうっすか?俺、全然、ゆとりなんかなかったですけど。」
「窃盗は罪。規則で罪。」
「色々、それぞれ事情もあると思いませんか?おにぎりぐらい・・・。」
「問答無用で罪は罪。」
「どうでもいいっすけどね、俺はおにぎりぐらいあげますね。」
「いいよ、あげたら。」
「?」
「ずっとあげ続けて、お父さんは腐乱していって、おにぎり君はいずれ逃げたかもしれないね。」
「・・・。」
「逃げていたら父親殺しのあらぬ疑いまでかけられたかもしれない。」
「それはあり得るわね・・・。」
「規則はどうせ追いかけてくるんだし、早めの方がいいさ。」
「まさか、お父さんを?」
「絶対ないと思うよ。」
「どうしてですか?」
「おとうさんの枕元に新しいおにぎりが一個お供えされてたんだって。捕まったその日の日付のおにぎり。その日コンビニで盗まれたのはその一個。どの店でも盗んだのはいつも一個だけ。」
「?」
「?」
「捕まった時持っていたおにぎり一個は、前の日の日付のおにぎり。」
「え?じゃあ、盗んでからうちに戻って前の日のと差し替えた?」
「だろうね。」
「わざわざ、何で?」
「新しい方をお供えにしたのかな?」
「『オヤジのおにぎりはサイコーでこんなのとくらべもんにならない』ってコンビニのを食べながら文句言ってたって。タボさん、おいしいかいって聞いただけなのに。涙浮かべて怒るから変だと思ったって。」
「せめて新しい方をお供えしたんだ、まいんち・・・。」
「はっきり言って、いいやつじゃん。」
「お父さんのおにぎりを取られて学校で一度切れたらしいよ。殴られた奴の親が訴えて、高校も行かなくなった。それがしつこい親で、うちでバイトしてるって知ったら、本社にお宅は傷害犯を雇用しているってクレーム入れたり、教育委員会に責任追及したり。それもあって不処分どころか重い保護処分で自立支援施設に送られた。まァ、身寄りもないしね。それでよかったのかもしれないけどね・・・。」
 熊谷市の支援施設なら、ウルフは行ったことがある。通っていた女子高が毎年課外授業でクッキーを焼きに行ったり、寸劇の演目を見せに行ったりしている。オーストラリアの交換留学生とカンガルーの演目をやった時、カンガルー役が嵌めるボクシングのグローブを忘れていって、確か男子寮から借りて事なきを得た。あの赤いグローブはひょっとするとおにぎり君のものだったかもしれない。20名ぐらいの小さな施設だったが、年齢層に幅があって、演目選択に苦労した。パパ・カンガルーがライオンにやられたあと、ママ・カンガルーが魔法のグローブを天使に貰ってライオンをやっつけるストーリーは、女子の入寮者に意外に受けた。
 「空」というテーマの入寮者の絵画が壁に飾ってあった。明るい、彩度の高いペールトーンカラーの作品がほとんどだった。中でも、アイビスペイントXでiPhoneで爪だけで描いた16歳の女の子の「虹の中のワ・タ・シ」というイラスト作品がハンパないと評判になった。ブレイズヘアの個性的な子だったが、話すと外見と異なってフツウの明るい子だった。何かした子には思えなかった。
「でもね、刑法という規則で罪であることがYesなんであって、善悪のYesかNoじゃない。規則というマニュアルでNoだから、盗まない。じゃなくて、盗みは悪いことだから盗んじゃだめだって教わらなかった。」
「十さんが時々言ってる『ならぬものはならぬ』ですか?福島のお母さんの口真似。」「そう。だめなことはだめ。理由なしで。」
 おにぎり君はおにぎりを盗まず、あのブレイズヘアの女の子も施設に送られずに済んだのかもしれない。罪になるから云々の理由でなく、小さいときから盗みはだめ、暴力はだめとインプリンティングされていたら、軽犯罪者は確かに減るかも知れないとウルフも思う。
「むつかしいことはいいっすよ。俺はおにぎり君は間違っていたかもしんないけど、食わなきゃ親父さんの横で餓死してたかもしんないし、誰が面倒見てくれたんです?自分で生きてこれて良かったじゃんと思いますね。結果的に捕まって窃盗犯でも、俺は気にしないし。世の中がチマイだけっすよ・・・。」
 圭太がリーガル・オピニオンの書面を閉じて、カーソルを素早く動かして、切り替わった画面をまた例のタオファイェン(桃花眼)で瞬きすることなく見つめている。桜花色がさらに増したようにウルフが思う。
「あの、圭太さん、何怒ってらっしゃるんですか?」
「イグの言うチマイことで大の大人がまだ穴だらけの法律を盾に、自分が正義だと言って人をとことん追い詰めたがるのが許せないんだよ。ほら、このメール、おにぎり君が依然殴ったクラスメートの父親だと思うよ。」
 圭太がホテルのメールボックスを開いて、支配人宛のメールを開封する。CCで本社人事部にも届いている。

【各位 御ホテルのメイク・スタッフに関しては以前にも暴行と窃盗の前科のある人物が就労していた事実が判明しています。客室は宿泊客のプライベートな空間であり、個人の所有物、貴重品が一時的に付託されている空間であり、私的所有物の安全な一時滞留をホテルとして担保する義務があると考えます。仮に前科のある人員等を配置されておられるという風評に然るべき根拠が明白となった場合は、御ホテルの従業員の人事・採用に瑕疵があることとなり、全店の信頼を損なうことになりかねません。
 三年前、御ホテルのメイク・スタッフのヘッドの方が当方を訪問された折、本来看過できないレベルの事実誤認に基づく誹謗・暴言を受け、以来、長男は軽度ではありますがPTSD症状を患ったままです。今点も十分に深慮されたうえで慎重なスタッフ人事に努められますようご忠告いたします。】

「何、コイツ⁈」
「確かにこのところ、Cフロアーの清掃スタッフは素性のわからないメンツがいるよね。年齢も幅あるし。ほとんど話したことないけど、タボさんのうちに仮住まいしているひともいる。扶養控除等申告書を提出してもらわないと困るって万智さんが言ってたし。だれ、あれって。」
「そうですよね。」
「でもコイツは暗におにぎり君のことを言ってるだけだと思う。現段階では。」
「今度はタボおばさんのこと、絶対逆恨みしてる!」
「だね。」
 イグがネクタイを乱暴に外し、制服の上着のボタンを外し始めている。
「俺、ほんと、もうダメ!俺はおにぎり君の朝トレに行ってきます。楽しみだな!ほら、もう時間だし!」
 十子が出勤してくる。
「タボさんも万智さんももうみんな上に上がってるようよ?ウルフも行って。パントリーの準備は私がやっとくから。」
「お言葉に甘えちゃいます。ご飯は炊けてます、それから、卵はもう出してあります。スミマセン・・・。」
「了解。いってらっしゃい。」
 パントリーに向かって歩き始めていた十子を追い抜いて、イグがデシャブ奥の戸棚に向かって走ってゆく。引き出しからポリラップのボックスを出してフィルムを巻きだして切り、デシャブのテーブルの上に広げ、その上にあじ塩を乱暴に振り撒き始める。
「何してんの、イグ?」
「十さん、スミマセン、ご飯ちょっともらってもいいですか?」
業務用IHジャー3升炊飯器の蓋を開けてイグはもうしゃもじに炊きたてのご飯を盛って十子の方を向いて返答を促している。
「いいけど。でも海苔はダメ。高いから。」
「ダメっすか・・・。」
「韓国のりならいいわよ。でもしょっぱくなっちゃうよ?」
「いや、頂きます!」
イグは焚き飯をラップで包んで塩を絡めて手際よく三角に握っている。
「熱っ・・・。」
「でしょうね。ハイ、海苔。二枚でいい?」
「ありがとうさんです!」
「手慣れてるわね?」
「俺、いろんなバイトして生きてきましたから。」
「あげるの?」
「そうです。」
 圭太もパントリーに入って何か洗い物をして出てくる。いつも展示しているセーラームーンのピンクの小さなタッパーを拭いてイグに差し出す。
「これに入れて持っていきな。でもどっちかっていうと、サンドイッチの方が無難じゃないかな?」
「お握りじゃなきゃ、ダメです。」
「そうか。タッパーはでもまた返してもらってな。」
「お借りします。サンキューです。じゃ、行ってきます。ウルフ、行くよ!」
 二人を見送ったあと、沈んだ雰囲気で圭太はモップを担いでトイレに入って掃除を始め、十子は朝食の準備にパントリーの奥に入っていった。支配人陽子がバックヤードから一瞬フロントに立ち寄って、開いたままの圭太のPC画面を一瞥してから閉じる。そのまま二人には何も言わずにホールに出てエレベーターに乗り込んで行った。
 陽子の中ではすでに覚悟が決まっていることだった。自分都合で会社を辞めることは決してない。だが自分が集めて結晶のように今結合した、この生活の底辺で時給を数えて集めて必死で生きてきている自分のチームの誰かを護るためであればいつでも辞めるつもりだった。息子たちも育ったし、母親陽子の必然は自宅には特にもうない。皆自立しているし、しかもまっとうに育て上げたつもりでもある。どうぞ、荒波さん、洗ってやって下さいな、と考えている。自分の並ではない苦労を見てきているし、苦難は当たり前と刷り込まれているはずでもある。多少の困難で潰れる息子たちではない。大学生の末っ子も、バイトであれ家庭教師であれ、仮に陽子が明日死んでも、なんとでもして生きてゆくだろう。自分は、ホテルの皆から離れることが一番つらいだろうが、それがチームの誰かのために身を挺しての結果だと自負できれば体育会系の監督として名誉な勇退である。その後の職には苦労するかもしれないが、不思議と自分一人ぐらい何とでもなると思える。あのタボぐらいにならなれる気はする。
 本社がまた蒸し返されたおにぎり君やタボの件で苦言を呈してきたら、間違いなく陽子は二人を護る。それだけのこと。おにぎりが消えたのは何年も前のこと。おにぎりが消えたのはうちではない。タボがおにぎり君を弁護して何を言ったか知らないが、どこかに音声プロトコルが証拠としてあるわけではないだろう。おにぎり窃盗の前科があろうと、陽子のチームは陽子が決める。その決定が今日まで本社やホテル・チェーン全体のイメージを損ねたことが一回でもあったか?首都圏で常に稼働率は上位十位以内、同規模店ランクでの売上高、利益率、新会員獲得達成率、好アンケート件数では常時五位以内。仮におにぎり君の件で以前本社に要らぬ迷惑を掛けたとして、そうしたクレーム対応をするために本社に法務部があり、おにぎり君に支給している時給の比ではない固定給を支払って司法書士を雇用しているのではないのか?
 今新型コロナで客の流れは明白に変わった。都内の他店舗の平均稼働率は50%を切ってきている。長瀞は観光客は急減していたが、大手ホテルがなく、旅館と民宿が点在しているだけのこの地区では、陽子の店は黙っていてもある程度の宿泊客を確保できている。飯能のテーマパークや吾野の西武沿線の現場に加えて、秩父鉄道の秩父市の生涯活躍のまちづくりなどの中小プロジェクトや神社修復工事のブルーカラー宿泊客にも支えられて現時点で稼働率は70%をキープしている。その工事が自粛要請で中断されれば、状況は急変することは明らかだった。今週からのGo to Travelは渡りに船だった。一人のメイク・スタッフの事案に本社が執着している暇はないだろう。今、延期により見込んでいた東京2020の売上の陥没を可能な限り埋めることに注力するしか選択肢はない。新型コロナの感染者数が下火になったこの瞬間を最大限結実するしかない。
「お握りの一個や二個、今は私に任せておいてくださいよ。」
 そう言ってみようと思っている。まァ、まず、朝の汗を久しぶりに掻いてみよう。
「もう少し待ってあげられませんか?持続化給付金や、特別利子補給制度で無担保融資を申請したり、雇用調整助成金を従業員の休業手当に当てられたり、経産省や県の制度を活用することを話してみますから・・・。」
 本社にとってはむしろすでに四カ月家賃を滞納している最上階の囲炉裏懐石『風布』の事案の方が大きな懸念事項であるに違いない。本社からの督促状を料理長の阿左美に回すことを万智がためらっていた。
「今、阿左美さんを追い出しても、このご時世、他に誰も入りませんよ。収束するまでキープしておくほうが得策とちがいますか?風布の料理のご贔屓さんもそれなりにいてはりますし・・・。」
 阿左美料理長と副支配人万智がその後どうなのかはおおよそ検討はついている。浅くも無く、深くもなく。偶のオフの日のまだ余所行きのお互いの居場所。一人よりはいい、そんな合目的的な付き合い程度と見ている。万智は浮かれる年でもない。阿左美料理長を良しとするよりも、一人であることをまだ良しとしたくない程度ではないだろうか。座りたいほど疲れてはいないが、これだけ空いているなら座ろうか、といった電車の座席のような。
「何よりアンタのご贔屓だったよね?」と言おうとして、軽口は呑み込んでおく。実務としての線引きの内側から万智が発言していることに敬意を払っておくべきかと思いなおす。
「そうね。ほんとに美味しいもんね。」
 もとよりホテル本社側は自社直轄のレストランは保有しないポリシーで、スペース貸しということならということで、新規開設時、建設現場を度々訪れていたホテル・チェーンのオーナーが大変気に入って立ち寄って食事をしていた店の児玉を最上階に迎え入れた経緯があった。以来例外的に牡丹鍋と蕎麦処『風布』に家賃貸しをしてきたが、本社社長にオーナーの長女が就任して、鳴り物入りでヘッジファンドから派遣されてきた常務のマトリックス・データ経営管理手法で毎日の数値のチェックが厳しくなり、地代家賃の未収入金の列に真っ赤なwarning色が毎日点滅し、これが全国全店に公表されるようになった。コロナ陰性の帰国者に健康観察期間貸している政府からのCフロアー分の入金もまだないが、この分の店の未収入金は本社経理から補填されているので未収入金ではなく立替金科目に移されているため『風布』の穴は実数で誰の目にも付く。
「秩父で本懐石ですか・・・?」
 児玉が亡くなって今の阿左美料理長に代替わりしてから、オーナーは一度も食べに来てはいない。「わしは肩の凝るもんはいらんのでね。ま、家賃払えるならいいだろ。」
 もはや後ろ盾もなくなった囲炉裏懐石『風布』が家賃未納となると暖簾の布も風に捲れ始めている。少なくとも本社の会議室の卓上では逆風に煽られているに相違ない。時間の問題であることだけは陽子にもわかっていたが、万智が言う通り代替案が今他に具体策としてあるわけでないことが延命の唯一の根拠だった。
「カウンターでポール・ボキューズがヌーベル・クイジーンを思いついた例の京都の名店でしょう?」 阿左美料理長の前職の京都の割烹店のことを常務は知っていた。
「そうだね、ITバブルの頃、ヘリで神戸から伏見のヘリポートに飛んで食べに行ったことあるかな。河原町のミシュラン三つ星だよね。火事で焼けちゃったんじゃなかたっけ?」
 調べ上げていることを常務は言いたいのだろう。ハイエナのような連中ではないのか?このコロナ禍で困窮する旅館やホテルをノウハウでサポートすると言いながら、あらかじめ内部事情を探り、買い取るに相応しいかどうか値踏みして、買収に値すると判断したら同族の未上場株を買い取るために派遣されているに違いない。買い取る前に「膿」は出しておく。「風布」など追い出す。ついでに自分には贅沢をするカネが十分あるのだよ、と暗に陽子に知らしめたいのだろう。別にのぞみのグリーン車でもよろしかったんじゃないですか?
「陽子さんは人を管理指導するのが絶妙だと会長もよく言ってますから、安心はしてますが、風布も火気には十分気を付けてもらって下さいね。」
「そうですね。心配ですから、一つ常務にお願いがあります。」
「何でしょう?」
「信心深い会長に、今度京都に行かれたら、菅原道真公の水火天満宮のお札を貰ってきて下さいとお伝えいただけますか?以前いただいた三峯神社の狼は火事になったら一番に逃げだしちゃう気がするって?」
「・・・」
「家賃収入はなくなりますが、考えていることはあります。今度の本部会議でご相談します。」
おにぎりも懐石もいらない。自明の結論である。その上で、この状況でも客室への改装費は本社側は出すと言っている。それを有難うございますと受けたとして、客室を増やすとエレベーターも一基増やすことが増改築条件となり、そうなると抜本的な建物の改造工事が必要で、このコロナ下での売上減に加えて最低二カ月は休館せざるを得ない。他店舗と較べて打撃の少ない現況を放棄して、尚且つ来年までのGo To Travelキャンペーンを逃すことになり、支配人陽子の進退に係る事態となるだろう。常務の狙いはそこにあるかもしれない。
代替案がないわけではなかった。客室増設は将来のこととして、除菌設備完備のネットサロンを仮設し、万智が阿左美を品のいい懐石割烹のカウンターに縮小営業することで説得する。商工会に地産品の即売ブースや製品を提供し、ネットオークション等の企画本部を置く。外付の最上階直結のエレベーターの加敷設ならば工事で休館しないで済む。この前、笑い飛ばした荒唐無稽な十子の案だが、エレベーターの外付け案は常務に一泡吹かせられるかもしれない。
本社に改めて呼び出しがあることになった。会長も会いたがっていると常務が言って電話は切れた。いいでしょう、と陽子は覚悟を決めた。おにぎりと懐石を持参するのが私たちのための私の役目。
 エレベーターの階数ボタンの「C」にポケットからミニ・スプレーを出して陽子はアルコールを吹き付ける。C階を押してみる。開いたドアから顔を出して廊下を覗いてみる。寝静まって人の気配の全くしない真夏の早朝のホテルの長廊下。昨夜、それぞれの客室でそれぞれの事情が夜の暗みの底に荷下ろしされて、一日の幕を閉じ、今、宿泊客は眠ることで取り敢えずこんがらがった神経を解いている。ブラインドを下ろしていても、下向きのコの字型の隙間から夏の朝陽が部屋に漏れ入っているだろう。また廊下の朝光がドアの下の改正建築基準法に則った空気循環用のシックハウス症候群対策でアンダーカットされた隙間から室内の床を這っているに違いない。この集団静寂を知っているのは我々ホテルマンと病院の看護師たちだけだろうと陽子は思う。客室で寝息を立てている宿泊客全員の秘密を自分一人が知っている。昨夜皆さんが未解決のまま睡魔に負けて床に放り出してある秘密も、皆さんの今の無防備な寝顔も私だけは知っていますよ。その不思議な占有感。朝日の筋が浮き漂う廊下に、漏れてくるいくつかの鼾を確認して、陽子は一度軽く一人で頷いてから、押さえていた開ボタンから指を離し、屋上階を押しなおす。ずれ落ちそうになっていた三つの横長の直方形の金色の箱を脇の下で抱えなおす。差出人名S. NEUHAUSでホテル宛に昨日届いていたクール便で、都内のM百貨店から直送されてきた。今話題の「Loco Tokyo」という金の延べ棒を模した豪華なパッケージの中にフランスの著名パティシエ監修の一口チョコレートのプラリネ・コレクションが詰まっている。一箱は昨日、十子たちとワイワイ騒ぎながら開けて食べた。
「さすがおフランスのチョコは違うわね!」
「支配人、やっぱ昭和です、その言い方。」
「なに?おフランスのこと?」
「そうですよ。八十のおばあちゃんしかいいませんよ、おフランス何て。」
「でもさ、やっぱり、お品がおありだと思うわけよ、このプラリネ。」
「そうですか?味はともかく、金塊のパッケージは発想がちょっと、お品ないかなと・・・?」
「私、金の延べ棒って見たことないけど、十ちゃんは?」
「見たことあります。」
「そう。これなんかかなり凝ってて本物っぽいって話題になってたけど、ホント?」
「はい。かなり。」
「そうなんだ・・・。今年のバレンタインで速攻売り切れだったって、ネットでも。」
「確かに、薄暗い高級レストランでわざと重そうにしてテーブルに出して、ハイ、これって渡したら彼氏もびっくりするかもしれませんね。」
「そうそう。そんなCMやったらバズるわよ、それ。」
「支配人?」
「なに?」
「無理して令和しなくていいです。バズるなんて。覚えたんですか?」
「何言ってんの、バズマーケティングが先月の本社会議で議題の一つだったのよ。バズぐらい、知ってるわよ。で?」
「?」
「バズるって何語なの?」
「日本語です。」
「?」
「buzzっていう英語にるをつけた和製英語だと思います。」
「バズって?」
「お芝居のガヤのことです。脇役がたくさん舞台のバックでガヤガヤみんなで大声出して騒ぐ演出がありますけど、そんなふうにワイワイ・ガヤガヤしてゆくことらしいです。」
「そうだったわ。広報部長がそんなこと言ってた。ネットでいい意味で話題にされなきゃだめだってね。Go to Travelキャンペーンで流すYouTubeチャンネルの新動画をネットにリンクしたとか・・・。」
 プラリネの一つ一つの包みも凝っていて、同じものは一つとしてなかった。十子が巾着型のプラリネを取って開けて頬張りながら、和紙の包みを伸ばして天井からのスポットライトを逆光にして透かして見ている。右や左に回したり、半分おどけて、裏返したりしながら、包みにプリントされた文様を判読しようとしていた指がある位置ではたりと止まった。「えっ?」と十子が一度嗚咽のような声を呑み込んだように陽子には思えた。
「あの、これいつ届いたんですか?」
「さっきクール便で届いたんだけど?」
「誰からです?」
「それがね、ローマ字だけだったのよ。Neuhausっていうお客さんからのお中元。」
「どこからです?」
「東京のデパートからで、ご本人の住所は書いてなかったのよ。」
「・・・。」
 十子は和紙の包みを伸し直してまた透かしてじっと見ている。
「ね、十ちゃん、この金塊の上のUBSって何のこと?」
「スイスの銀行のUnited Bank of Switzerlandのロゴです。その銀行のロゴの刻印のあるゴールド・バーは世界で最も信頼度が高いんです、確か。」
「へェ、ホントに凝ってるけど、その銀行が怒らないのかしら、勝手に使って。」
「真逆かもしれませんね。銀行の宣伝にもなるし、おカネが銀行から出てるかも。」
「なるほど。もう一つ、どう?こっちの赤い奴、食べてみない?」
「頂きます!」
「カカオ37%、カカオ豆由来の植物油脂カカオバター35%のみ使用って。これじつは凄いのよ。末っ子が化学に行っててね、教わったんだけど、これきっと相当高いチョコだと思うよ。うわァ、濃厚でとろけるわね。可哀そうだけどタボにはあげない方がいいわね、また太っちゃうもの。」
「明日、朝トレの後だったらタボさんもいいんじゃないですか?」「そうだ、そうしよう!このNEUHAUS古典製法準拠ってかいてあるけど、ナニコレ?」
「NEUHAUSは、ベルギーの王室に呼ばれて初めてチョコを献上したスイスの薬剤師の名前を今も継いでいる名店だと思います。日本の江戸時代末期ごろのことです。」
「ベルギーって、あのGODIVA?」
「別物で、NEUHAUSはベルギーの虎屋みたいなご用達の老舗だったとおもいます。」
「スイスの薬剤師がまた何でチョコ?」
「カカオもそのころはコーヒーのようにカップで飲んでいたんです。苦いので砂糖を入れたりして。半分薬みたいな、日本の青汁みたいな強壮ドリンクだったのかもしれませんね。だって、ウイーンのカフェの隣には大抵今も薬局があるんですよ。薬屋がコーヒーやカカオドリンクを店頭で売ったんだと聞いたことがあります。その液体を粉末にする技術がスイスで開発されて、その粉からチョコを固めることができたんだそうです。」
「そうなんだ。アンタ、詳しいね。」
「ヨーロッパは若いころそこら中回りましたから。」
「あのさ、明日、みんなに聞かれると困るからあと一つ。」
「はい?」
「この、Loco Tokyoって何て読むの?」
「そのまんまで正しいです。ロコ・東京です。」
「ロコって?」
「受け渡し場所とか居場所っていうことだと思います。」
「?」
「金取引の言葉でLoco LondonとかLoco Zürichというと、取引した金の現物がロンドンやチューリヒにあるっていうことだったと思います。でもLoco Tokyoという金の現物の取引用語は知りません。それをもじったこのチョコのネーミングだと思います。」
「そうか、東京の金の現物はチョコってことだね⁈でもさ、東京の夏は暑いから金も溶けちゃうね・・・。」
「全部また支配人の冷蔵庫に隠しときます。」
「お願い。明日の朝、みんなに朝トレの後配るわ。でもおにぎり君は食べないかもね。甘いもの確か嫌いだから・・・。」
「その分、きっとタボさんが食べますよ。」
「だめだめ!また太っちゃうって。」
 十子がLoco Tokyoの三箱をバックヤード奥の陽子の冷蔵庫に持ってゆく。開いたまま卓上に置いてあったプラリネの和紙の包みを陽子も取り上げてライトに透かして見る。茶巾結びで4㎝四方の隅はくしゃくしゃだが、よく見ると中央には精緻で細かい透かし模様が施されていた。その透かしを保護するため、透明なシートでラッピングが和紙の裏地に施されている。他のプラリネの色とりどりのキャンディー包みと明らかに異なるコストのかかった趣向。手前には大きな葡萄の一房、その上の背景にはなだらかな山が一筋の曲線で表現され、その山の上にレンガを積み上げたような城か塔が描かれていた。
 入電対応に陽子も支配人席に戻る。Loco Tokyoを脇の冷蔵庫にしまって戻る十子と入れ違いになる。電話は本社人事部からの事情聴取だった。おにぎり君の件だった。重い電話を終えて、社員の休憩室に戻ると食べたプラリネの包みもLoco Tokyoのクール便の包装紙も十子がきれいに片づけて、テーブル下のごみ箱に捨ててあった。ごみ箱の中に、もう一度見たいと思っていた和紙の透かし彫りの包みは探してもなかった。
 屋上ではすでにおにぎり君の朝トレが始まっていた。ストレッチで体が曲がらずタボが呻いている。冷房の効いているCフロアーの長廊下に浮いていた朝日の穏やかな筋とは打って変わって、屋上は白色燈の光源の真下にあるようだった。既に暑気のドームに覆われていて、川の風も届かない。にもかかわらず、イグもウルフも万智もタボも、タボのメイク・フォースも日勤スタッフも清々しい顔をしてインストラクターのおにぎり君の号令に従っている。陽子は脇に抱えていた「Loco Tokyo」を冷房の効いた屋内の手近な日の当たらない窓枠に置きに戻り、ジャケットを脱いで屋上にまた出直した。この暑さでは、チョコがブヨブヨに溶けるのに2分もかからないだろう。出入り口の館内側の廊下には、秩父のミネラルウォーターの1ケースとその上にセーラームーンの弁当ボックスが置いてあった。
 おにぎり君の声は屋上で良く通る。昔は虫の泣くような声だった。確かに大変身して、さわやかな男子に生まれ変わっていた。この年の子は、本人さえその気になれば、一、二年で音を立てて目に見えて成長してゆく。陽子の三人の息子にもそれぞれにそれぞれの反抗期があった。体育会系の陽子がはたかなかった子はいなかった。ただはたいたり、蹴ったり、茶碗を投げたり、叱ったり、宥めたりをしたからまっとうになったとは陽子自身も全く思わない。自分でも理性より感情が先走る下手な親であると自覚もしている。口論が行きどまり、手が出てしまう。炊飯器を投げつけたことまである。
「あっくんのママんちのご飯の方が柔らかい?馬鹿言ってんじゃないよ!炊飯器が違うだけでしょうが!。それからね、うちのゲンマイはからだにいいんだよ!」
 火に油を注いだだけのことが大半だったが、本人たちそれぞれが、それぞれのあるときから母親陽子に一目置くようになった。別段立派な母親然としたことを言ったこともなければ、ましてや啓蒙したことなど陽子に限って全くないと断言できる。だが、息子たちが勝手に陽子の背丈を越え、届かない戸棚の上に鍋を代わりに上げてくれるようになって、勝手に大人になっていた。
 親のないおにぎり君に至っては、前科まで背負ってしまったにもかかわらず、引きこもりの影も形もなく精悍な浅黒い18歳の若者に生まれ変わっている。タボが太鼓判を押すだけのことはある。秩父署の村岡署長もしばらく勤務状況を観察して、成人になって保管非行歴が消えれば本人が希望する警察官にもなれるよう推挙したいと言ってきている。全国高等学校ボクシング選抜大会で準々決勝までいったらしい。却って乱暴、やんちゃなのではないかと懸念を表明したところ、強くなったのかもしれない、他人より強いという方向でなく、ボクシングというスポーツを通じて自分が強くなったことを知って自分自身に自信を持ったのかもしれない。そう署長が言っていた。やつはまずダイジョウブと。
「もう暑いですから、ぐしょぐしょにならないよう、今日はストレッチ体操をメインにしていきますよ―!タボおばちゃん、張り切りすぎ!少しづつ、からだのばしましょう!急に無理すると筋違っちゃいますからねー。あれ、支配人、なに一人で後ろで腕組んでるんです?こっちにきてくださーい。遠慮しないで、一番前でどーぞ!」