ロコ・終章

ロコ・終章 三

 倉木病院の院長の診察室から車椅子を押して十子が出てくる。車椅子にはタボが座っている。首が曲がっていて、正面が向けない。下半身に後遺症が残ったままで、外傷性くも膜下出血が原因で二級一号の中等度の対麻痺の診断だった。仕事が居場所だったタボの日常の溌剌はタボの額から消えた。車椅子に動けなくなった、救いようのない肉体がドサリと半分斜めに荷下ろされている。あのタボはもういない。
「タボさん、私たちが建てた両神の施設に(はい)れるからね。今ね、桜が満開。そうそう、おにぎり君ね、来月から晴れて警察学校に入学ですよ?よかったでしょう!今日もね、ホテルで新入社員にモーレツなスパルタで、メイクの研修の指導してますよ。ラストスパートの滅私奉公だっていって。厳しすぎて社員が辞めちゃうんじゃないかって、支配人が心配してます(笑う)。卒業したら長瀞の交番を希望して、タボさんちにタボさんと一緒に住むんだっていってますよ!」
 タボの車椅子を長廊下の脇の窓辺に移動して、十子はストッパーを踏む。
「ちょっと、少しだけここで待って下さいね。忘れ物しちゃって。取ってきますね。」
 十子が一人で病院の奥の階段を下りてゆく。「医療関係者以外立入禁止」と「薬品管理室」「搬入口」のプレートが踊り場の脇に立っている。顔を斜めに上げて、タボが十子の後ろ姿を目で追っている。実はタボは口はきける。事件の後、暫くは話そうとしても砕けた悲鳴になってしまうので発声自体を諦めていたが、数日前、病室で小声で発語を繰り返していたら、脳の回線が繋がったことがわかった。人に聞かれないように小声で窓に向かってタボが言っている。
「みんな。ありがとう・・・。」
 しばらくたって、十子が院長と廊下に上がってくる。
「(笑いながら)あの例の、『和銅』通貨での診療代の決済は、何度お願いされても、例え十子さんでも無理ですからね!」
「(微笑み返す)そうなんですかァ、やっぱり、駄目ですか。」
「ごめんなさい。」
「すみません、あの、ウロウロしちゃって。」
「ウエルキャブはお貸しできますけど、本当は福祉車輛取扱士でないといけないんですけどね。でも、院長権限で、まァ、急場ですから。車椅子を押して載せるだけのスロープ型をお貸ししましょう。あっちの方が扱いが簡単でしょう。それに十さん准看護師の資格をお持ちだってさっきお聞きしましたし。」「え?どなたから?」
「(タボのいる方に向かって手を挙げる)ホラ、あそこの署長さんから、今さっき。」
 車椅子に手を掛けてタボに署長の村岡が話し掛けていた。妙に沈んだ雰囲気が二人の間に醸し出されていた。署長も院長と十子に気づいてコクリと首で合図を返す。タボが額に自分のマスクを持ち上げて、はっきりとした声で十子を呼んだ。
「十ちゃん、遅いじゃない!」
「あれ、すごい、話せるじゃないですか!」
「そうよ!また、うるさいわよ⁉ごめんね!」
「(笑う)よかったァ!でもね、マスクせめて顎に下ろしません?それ、ヘン!」
 署長も大笑いする。タボと署長二人の重い空気が一変する。
「話せるようになったんも、エンジェル十ちゃんのお陰さ!」
「エンジェル?」
 少し慌てた様子で署長の村岡が弁明する。
「私らがつけた十子さんのニックネームなんですがね・・・。」
「警察にニックネームをつけられるなんて、何か犯人みたいですね。」
「いや、いや。天使ですから。十子さんの秩父への貢献度は表彰もんですよ。とにかく、タボさんが元気そうで安心しました。元気すぎてうるさくなりそうだから、院長先生、それじゃ、私は撤収いたします。では、また。」
 立ち去る署長と院長の後ろ背を傾げたクビでにこやかに見遣っていたタボの笑顔が不自然に思えた。もともと、おにぎり君を逮捕した警察を良くは思っていないはずだが、その後のおにぎり君の後見役のような署長とは親しい仲で、十子は署長の村岡が何らかの伝言があってタボを訪ねてきたことを察知した。
「タボさん、何かあった?」
「別に。だけどね。アンタがね、スイスだったかな、あっちから来たんじゃないかって、アンタが入社してきたときのこと知ってることがあったら教えてとかさ、アンタが看護婦だったとか、アンタのお母さんを探しているとか、わけのわからないこと言ってたね。アタシは頭ぶん殴られて、そんなアタシに聞くなって、言ってやった。」 
 車椅子を引いて、病院の入り口に出る。春風が二人を抜けて病院のホールに前庭の桜の花びらを巻き込んで流れ込んでゆく。
「大丈夫?寒くない?」
「なにがさ?せわーねーさ。気持ちいいよ、外のほうが。」
「じゃあ、車のキーをもらってくる。」
「すまないねェ・・・。」
「せわーねーさ!」
「(笑)」
 十子が病院の中に戻り、しばらくして自動ドアが閉じると、吹き付けていた風が止まって、タボの頬に当たる陽が暖かい。鈍い動きで腕を持ち上げ、タボは右手の甲で頬を触りながら目を閉じる。寂寞とした孤独のなかにタボはまた取り残される。その孤独とこれから向き合いながら季節を過ごしてゆくことになる。人と話している間は生きている気がする。話せるようになっただけでも、よかった。ただ、まだカラ元気で声を上げると頭に響く。
 院長室の戸口に再び入って来た十子をカルテに入力していた倉木院長が驚いたように見上げる。
「どうされました?介護車両のキーは受付に預けときましたが?」
「キーは下で頂きました。ありがとうございます。」
「(困惑顔で笑いながら)診療代の決済は、ねえ・・・。『和銅』はちょっと・・・。」
「(間)その件ではありません。」
「では、何でしょう?」
「先生、ハイデルベルクの大学病院に行かれたことがありますか?」
「ええ、若い頃ですけどね。三か月ほど、大学病院を訪ねたことはあります。有名なドイツの先生を訪ねたことがあります。それが何か?。」
「患者さんを連れてですか?」
「?」
「小学生の患者さんと?これ、ご記憶にありますね?」
 十子はショルダーバックから一枚の擦り切れた古い搭乗券と茶色にくすんで破れた白い腕章を取り出して倉木院長のデスクのキーボードの上に置く。腕章のラベル・ポケットにはSatoshi Moriya  Nr.8 と名前がタイプで打たれた薄茶けた紙片が入っていて、緩んだゴム包帯の腕章自体にはUniversitätsklinikum Heidelberg  Kinder Abt. と病院の緑色のワッペンが縫い込まれている。搭乗券の印字ははっきりと判読できた。

SU582  AEROFLOT  Class Y Seat 18J Moscow/Sheremetye  MORIYA/SMR

「これ、守屋さとしさんが持ち歩いていた腕章のラベル・ポケットの裏側に入っていたんです。ひょっとしてモスクワから列車に乗り換えてドイツに行かれたんですか?さとしさんを連れて?先生の手ではないかとふと思ったんです。あの人の言う、大きな手。いつもさとしさんの手をつないで歩いていたという大きな手。」
 倉木院長は搭乗券に目を落としたまま固まっている。
「守屋利恵さんの息子さんのさとしさんのこと、院長先生はずっと不憫に思われていたのではありませんか?お父さんがスイスで亡くなって、帰ってきた直後のさとしさんを先生がよく訪ねて来られたって亡くなったおばあさんから聞きました。ひょっとして火事の夜、一番に現場に駆け付けたのが先生だったのではないかと・・・。」
 言うべきことと言わずもがなの境界線が倉木院長の気配の中で前後に揺れ始めている。言葉を整理する様子で、十子の揺れのない直視を避けるようにしてデスクの上の腕章を大きな手に取り、視線を落としている。決して話すことのなかったことを口外することで、何事もない「今」がどこに向かって飛んでしまうのか、良し悪しの算段をしている。
「大きな手って、さとしさん、言ってました。大きな手が火の中から救い出してくれたって。ずっと大きな手に引っ張られていたって。時々大きな肩に担がれたって。先生の手だったのではありませんか?これ、あの人がずっと持っていたものです。宝物のパスポートはどこかでなくしたけど、これだけはなくさなかったって。モスクワ経由でハイデルベルクの大学病院にあの人を連れて行った大きな手の人は、先生ですよね?」
 ゆっくりと倉木院長が立ち上がる。地元長瀞では「大先生」と呼ばれている。名医というニュアンスより、むしろ身長が188センチ、隆々とした大男であることの方にニックネームの比重があった。若い頃は救急搬送の力強いスタッフだったという経歴に疑念を抱く者はいない。その大先生を十子は下から例の目でひるむことなく瞬きもなく見上げている。だが、それは詰問する目ではなく、見つめる人の痛みを掬い取るような目だった。いいんですよ、私には話しても。本当のことを。問題ない。倉木院長は右掌を腕組からほぐし、上に返してその掌を見ている。
「やっぱり、気にされてたんですね・・・。さとしさんのお母さんの利恵さんが自殺ではないかと。ご自分の診断が彼女を追い詰めてしまったのではないかと。先生のせいじゃないです。Theodor Leber先天性黒内障のことを医師が患者に伝えるのは義務です。そうじゃないですか?責めているんじゃ全くありません。」
 視線を掌から戻し、十子の目を倉木院長が初めてじっと見返す。二人の間の瞬きのない直視の無言の会話が続く。おもむろに倉木院長はまた椅子に腰を下ろす。
「スイスの准看護師としてのご意見というわけですか?」
「はい。」
「やはり、さとし君だったんですね・・・。」
「そうです。守屋さとしさんです。」
「目は?」
「今は見えています。」
「そうですか。それはよかった・・・。」
 反芻するように倉木院長が繰り返す。
「そうですか。それはほんとによかった・・・。」
十子はリュックサックから「Loco Tokyo」を一箱取り出して、院長席のテーブルのPCの脇に置く。
「これは?」
「ベルギーのチョコです。」
「このチョコ、有名ですよね?」
「さとしさんが作ったチョコです。」
「そうだったんですね・・・。やっぱり・・・。」
「やっぱりとおっしゃいますと?」
「村岡所長がさっき。このところ十子さんと一緒のベルギーから来たチョコレート会社の日本人男性がさとし君じゃないかと。46年前スイスから一人送還されて、両神のおばあさんのところに戻って、その実家に放火して消息を絶った触法少年、守屋さとし君じゃないかと。火事の晩、私が現場になぜ急行しなかったのか、それも聞かれました。あの晩、私の車とすれ違った気がすると。署長も当時向かったそうで。署長には長瀞にその晩居なかったからと答えましたが・・・。」
「で、どちらにいらしたんですか、その晩?」
 倉木院長は静かに人差し指で院長室の奥の診察ベットを指す。
「そこです。診察室の間取りはあのころと変えてませんから。その辺にさとし君と・・・。錯乱していたので、安定剤を打ちました。」
 何か合点がいったように十子が頷く。
「秩父に戻ったら、自分は放火少年だって。火を点けたことははっきり覚えているって。アトリエを燃やしたんだって。だから本当は戻ってくるつもりはなかったって。でも記憶があいまいで、その辺から変なんです。焼けたのは今レジデンスが建っている母屋の方なのに、自分はアトリエに火を絶対点けたって思い込んでいて。死んだお母さんを抱き上げているお父さんに言われて火を点けたって。見えたはずのないことを見たって思い込んでいるようです。」
「あの晩、火に包まれながら言ってましたね。さとし君。お母さんが寒がっているって。」
「先生がお預けになったハイデルベルクの大学病院で、ある朝少し目の端が見えるようになって、嬉しくなって病院を出て電車に乗ったら、戻れなくなったらしいです。ずいぶん色々なところを放浪したみたいです。」
「困り果てました。突然いなくなってしまって。どこかで事故に遭遇してしまったのではないかと。必死に探したんですが、行方不明のまま私一人帰国して・・・。ほんとによかった・・・。仮に私が血液遺伝子検査をしてミトコンドリアのDNA の変異をみとめなければ、若いお母さんを追いつめずに済んだのかもしれない。息子さんが居ることを知らず、ついうっかり、レーベル病が母性遺伝のことを伝えてしまいました。十分に他の症例も調べないまま。一体本当に不治なのか知っておくべきだと思いました。ハイデルベルク大学病院に当時レーベル病研究の教授がいて、さとし君をとにかくお願いしてみようと。」
「レーベル病はその後治療法は見つかったんでしょうか?」
「いえ、残念ながらまだです。」
「そうなんですね・・・。」
「え?さとしさんに再発の症状でも?」
「兆候があるって言ってます。今度診て頂けますか?」
「もちろんです。」
 リュックサックを閉じて院長室を出る寸前、十子は静かに振り返る。
「あの人はやってません。私はそう思います。おばあちゃんが仰っていたように、かまどの火の不始末だったんじゃないんですか?火事だと思って、あの人が目も見えないのに様子を見に行っただけだったかもしれないじゃないですか。」
 ドアノブに十子が手を掛けようとしたとき、倉木院長が目で制止する。首をかすかに、ただ十子に判るように横に振る。
「雪交じりの突風の荒れる夜でした。さとし君は火の中に立っていました。担ぎ上げた時、アトリエのおとうさんとおかあさんが寒がっていると泣き叫んでいました。目が良く見えないさとし君はアトリエに自分が居ると勘違いしていて、ご両親の幻を見て、ご両親を助けようとしていたようです。火を全然恐れていない様子でした。燃えていたのは母家で、さとし君も母家の土間に立っていたんですが。手に燃え上がる藁の束を持って、振り回していました。おとうさんもおかあさんも凍ってしまう。温めてあげなきゃ死んじゃうと言って泣いていました。それで・・・。」
「それで、放火を世間に疑われる前に連れ出して、ハイデルベルクの大学病院で、できるものなら治療してあげようと?」
「(間)そうです。まさかいなくなるとは・・・。」
 十子は深いため息をつく。
「さとしさんを救ってくれたわけですから。それに、さとしさんも先生のことも覚えていないと思います。そのままでもういいことです。私たち、これで生きてまた会えましたし。もう46年も前のことですし。今と違って、当時は路上の外人孤児の保護体制何てまるでなくて、さとしさん、路上で放浪していたみたいです。今のショコラテリーの若主人がお医者様の卵で、拾ってくれたのがご縁になったみたいです。」
「私にはお詫びのしようもないです。さとし君にまで余計な苦労を・・・。」
「取り返しのつかないことはもう気になさらないでください。私たちは取り返せたんですから。私は会いたい人にお陰で会えました。」
「十子さんたち?取り返せた?以前からのお知合いですか?」
「はい。」
「十子さんは秩父の方ではありませんよね?」
「違います。フランスでよく遊んでもらいました。ずっと前の子供の頃のことですけど。」
「そうだったんですか。そういえば、絵の守屋先生はよくフランスに行かれてましたっけ。その旅先で亡くなったはずでしたね。」
「全部、先生、もう、とうの昔のことです。」
 十子の視準が穏やかに倉木院長の視線を捕らえ、そこから戻ってください、現実はこちらですよ、と促している。遡行していた大過去の記憶の沼底から現在の時空の水面に引き上げられたような不思議な気が倉木院長にはした。今までの会話がなかったことのように、すべて、十子の瞳の中に時間ごと吸い取られたような。
「心配なのはさとしさんの目のことです。」
「さとしさんはおいくつになられましたか?」
「じきに58歳だと思います。」
「そうですよね・・・。再発する可能性は大きいです。とにかく早急に診察させてください。」
「お願いします。」
 福祉車両ウエルキャブの車椅子ごと半分眠っているタボを乗せて、十子はハッチバックドアを閉めて乗り込み、ハンドルを握った。あくびを大きくしてタボが起きる。
「両神村に行く前に、西武秩父駅にちょっと寄りますからね?いい、タボさん?」
「もちろんさ。色々ホントに十ちゃんにはすまないね。」
「ぜんぜん。タボさんが入ってくれるんなら、ホーム造った甲斐がありまーす!」
「こんな片輪になっちまったら、生きていく気しないよ。いっそ、亭主やせがれのとこにこのまま行きたいね・・・ホント。」
「おにぎり君が許しません。」
「あの子はもう大丈夫。ゼンゼンもう大丈夫。一人でやってけるさ。こんなばばァの面倒なんかで一生を棒に振らせるわけにゃいかないよ。」
「どんなお嫁さんもらうか見なきゃでしょ?お孫さんも。それに、イグ君とウルフちゃんも。今度、結婚式だって。タボさんが来れるバリアフリーの神社探すって。」
「そうかい、そりゃよかった。知ってたけどね、あたしゃ。でも、元カレのこと待つんじゃないのかと思ってたけどね。」
「あの元カレにもらったホンモンの金のリング、もうウクライナ相場の時、おたから屋に売って、イグとミシュラン三つ星フレンチで食べちゃったらしいの。」
「(大笑い)そうかい、食べちまったかい。」
 笑い涙をタボはハンケチで拭っている。十子は後部の窓を少し下げて風を車内に取り込む。タボはその窓の外をハンケチで片目を覆いながら見遣っている。風が強くなっていて、街道沿いの桜がその風に攫われて風の形をなぞって波のように花びらが流れてゆく。
「随分風が吹いてきたね。これじゃ全部散っちまうね。」
「じゃァ、今、車内お花見してください。そこに紙包みがあるでしょ?中に風布の阿左美料理長が作ってくれた松花堂弁当入ってるから開けてみて。大変だったの。支配人は玄米を入れなきゃダメってご飯炊き直させたり、万智さんはタボさんの好物のきのこ園の秩父シイタケを具に加えろとか、おなめは圭太君がこの前奥秩父の山小屋で貰って来た生姜入りの方に代えろとか、阿左美さん、でも嫌がらずにそのたんび作り変えてくれてましたよ?みんなの労作ですからね!」
 タボは松花堂弁当を拝みながら蓋を開ける。割り箸がうまく裂けず、歯で咥えて右手の指で摘まんで引っ張って切り離す。
「そういやァ、阿左美のおっさん、最近は金縁眼鏡も金のネックレスもしなくなったねェ。」
「(笑)そうなんですよ。万智さんのおメガネじゃないんでしょうね!」
「(長い間)十ちゃん、ロコ村のロコってさ、居場所だっけ?」
「そうです。居場所とかあるべき場所。」
「阿左美のおっさんもおん出されず、万智もあれでまんざらでもないと思うよ。イグとウルフも、おにぎりもみんなホテルがロコだろうね。」
「タボさんもですよ。ロコ村にみんな遊びに来ますよ。」
「ありがと。十ちゃん。ゼンブ、アンタのお陰だよ。」
「私は別に。ラテン語のhospesが困っている人を敵から護る宿泊施設と病院の両方の語源だってママから聞いたことがあって、だったら困っている人みんなのあるべき場所にホテルがなればいいなって。ホテルには部屋も土地も食材も地元とのつながりもあるわけだし、コロナ患者や被災者をいざとなったら本気で受け入れられるhospesのモデルを始めてみただけ。コロナ陰性の健康観察期間の帰国者をフロアーで受け入れたのがきっかけ。倉木先生も最初は気乗りしてなかったけど、やっぱり助成金が下りたのが大きかったかな。」
「でも、コロナ・ホテルにしちゃだめだよ。支配人と約束したんだ。」
「支配人が嫌がるから、最新の除菌システムをラウンジに入れたの。テストモデルで試験データを取っているから却って安心してくれたみたい。その除菌ラウンジの会員をネットで募集したらコロナ逃れて地方に移住してリモートで働ける若いカップルの長期滞在の申し込み殺到でびっくり。それで離れた両神に若いカップルを受け入れる『ロコ村』を作ることにしたの。」
「そうだったんかい。」
「あっちはカップル向けには3Dプリンター住宅とフロアーの賃貸と、リタイヤメント・フロアー、介護付きホーム・フロアーと小さいコンビニやこども園を用意できて、限界集落のご老人たちも住みやすくなったと思うの。タボさんも退屈しないと思うわ。手頃なコミュニティーができて、またお祭りとかできますよね?この前、『和銅』で7台めの秩父夜祭の笠鉾を作るプロジェクトが一等賞になったけど、おカネ足りないので、まずロコ村のこども神輿一体作れたんですよ?いいでしょ?」
「聞いた。お祭りでイグとウルフがかき氷の屋台ならやりたいって言ってたよ。」
「道路とか水道以外に、そんな人と人の輪も社会資本だって商工会の役員が動いてくれたのでロコ村ができたの。そのお陰。」
「なんでもいいけどさ、アタシたちは何が何でも、十ちゃんに感謝さ。」 タボは弁当を食べ終わって、箸を両手の親指と人差し指の間に渡して深々と弁当箱に黙礼をする。かなり長い間タボは口を開かず、そのまま車窓を横切る道野辺を目で追っていた。静かな低い声でタボが囁く。
「スイスでは、安楽死ができるの?」
「何でまたそんなことを?」
「十ちゃん。人はいつか死ぬ。そうでしょ?」
「それはそうだけど・・・。」

「あたしのロコはホテルという職場だったんさ。もうそれがなくなったらアタシの居場所はないの。ロコ・ロスだいね。時間ができちまうと、もう死んだ家族のことしか考えなくなっちまう。気がふれちまうほどね。頼むよ。スイスに連れて行ってよ。十ちゃんが署長のいうエンジェルなら、安楽死の協会にアタシを連れてって頂戴な。もうあたしは充分。良く生きてきたし、おにぎりも育てたし、もういいの。あの人のところに行きたいんだよ。署長がね、あんたの名前は井脇じゃなくて、本当は何て言ってたかな、ブランヒチ何とかだって。安楽死の勧誘をしてきたら知らせろってね。十ちゃんは安楽死をビジネスにしている協会が送り込んだエンジェルという死の密売人、エンジェルだから気をつけろって。でもね、それがホントなら、アタシはお願いしたいのさ。本気で。」
 十子は街道から脇道に逸れ、村道の大きな里桜が三本風に揺れている下に車を停める。エンジンを切る。安全ベルトを外し、運転席で腰をずらして後ろ向きになり、タボをじっと見つめる。
「私はエンジェルとか何のことかわかりません。確かにここまでの秩父再生プロジェクトの発端は、Life Exit Foundationという私のドイツのパパが立ち上げた安楽死協会の基金からの寄付金です。だから、死の密売人だなんて疑われるのかもしれない。でもね、ドイツのパパは立派な人でした。自分の命を自分の意志で絶った人たちが困っている後世の人たちにって、最後に父に信託した資産で基金を作っただけ。でもきっと本当の父親ではありません。私の母が本当に愛したのは別の人です。きっと私はその人の子。その母もパパも本当の父も死んで、私だってタボさんと同じように一人ぼっちよ?パパが託してくれたおカネで、ママがやるだろうと思ったお仕事をするのが私のロコだったの。私たちみたいに、ひょっとすると孤独死をしかねない、一人で寂しい思いの人たちのロコを私はホテルに作っただけ。一緒に居てみない?って。でもそのおカネは僅かなもので、今の規模には秩父のみんながしていったものよ?ロコ村もそう。みんなの輪ができてきている。部屋のスマートテレビのAIに『寂しい』って今度呟いてみて。画面にたくさんの人の顔が現れて、その人の輪の真ん中にきっとおにぎり君もいるはずよ?その顔を見たら、さっきみたいなバカなこと言わなくなるわ。きっと、タボさんに警部の制服姿を見せることやお嫁さんと会いに来ることを何より心の支えにしてますよ?その支えを引きちぎったら、おにぎり君が今度は死ぬほどつらい思いをしますよ?それがタボさんのホントのロコ?タボさんを必要としている人が一人でもいる限り、そこがタボさんのあるべき場所なんじゃないですか?全部、本当にゼンブやり終えたの?そう言い切れるの、タボさん?おにぎり君やホテルのみんなに二度と会えないところへ、行く気があるの?そこがタボさんの本当のロコなの⁈」
 傾げた頸を横向きに立ててタボは十子と目を合わせる。静謐な水を湛えた十子の瞳。胸の内の焼け焦げた思いや不安がその瞳の水に吸い込まれて静まってゆくのがわかる。擦ったマッチを水に落としたように。この子には不思議な力がある。人の不幸はもっとずっと先にある。あなたの事情など死に値しない。そう思いませんか?その直視を押し返せることはまずない。
「了解。ひとまず、よーく考えっか。ロコ村で先生に言われた通り、リハビリでもすっか。」
「(にこりともせず)そうですよ、やれることいっぱいでしょ。もうそんなに話せるようになったんだし。」
「言ったでしょ、またうるさくなるって。だいたいこの車さ、たまにゃ清掃するの⁈痒いったらありゃしない。ダニだね、ダニの死骸だね。」
「私の車じゃありませーん。院長に言ってくださーい。」
 西武秩父駅前にさとしが立っていた。助手席にさとしがふらふらと乗り込んだ時、車椅子の中でタボは鼾をかいて寝ていた。目くばせで十子とさとしは会話をする。ドライブにしたギアの十子の手の甲にさとしが掌を載せたまま離さない。十子は時折バックミラーで後部座席を窺う素振りをしながら、片手でハンドルを操作している。
「お仕事、どう?」
「うん、5年契約できた。これでショコラトリーにもお礼になる。最後のお礼。あとで契約書をPDFにして本社にメールするの手伝ってくれる?」
「(頷く)目が?」
「(首を激しく振る)だから、もう始まっちゃった・・・どうもダメっぽい。こうなるとあと数日かもね。あの頃と同じなら。日本にはあの黄色いイボイボの板が町にも駅にも敷いてあるから、助かった。覚悟してたけど、気が落ちこんでしょうがないよ。仕事はこれでもうできなくなるから、やめなきゃ。もうおしまいだな、俺は。せっかく会えたのに、もうきちんとミツが見えなくなる・・・。」
 十子がギアの手を解いてさとしの右頬を軽く撫でる。
「ダイジョウブ。これからは一人じゃないから。ずっと一緒だから。」
「ミツにまた会えてよかった。ミツに会えてなかったら、このまま荒川に飛び込んでるかもね。」
「冗談止して。もう一人にしないで。」
「盲目でも?」
「さとしさんはめくらじゃないの。私が見えてるでしょ、誰より?」
「まだ、今はね・・・。」
「(首を振る)そうじゃないの。目をつぶっても見える私のこと。私のゼンブ。さとしさんには何でも全部話せたし。私にも見えない私も、きっと。」
「いや、いつも部屋が暗くて、まだ見足りない。」
「そういうことじゃないの!いい年してるんだし、お互い!」
「ミツはまだ若いよ。」
「さとしさん、そんな比較できるんだ?たしか・・・?」
「いや・・・」
「(吹き出す)ほんと、今時、天然記念物。浦島太郎って感じ。」
「じゃァ、ここは竜宮城で、浦島は決して浜辺には戻りません。」
「ずっと一緒?」
「(深く頷く)」
「でももうここはいいかな・・・。ママがやろうとしていたこと取り敢えず三合目ぐらいまできたし。ママも褒めてくれると思う。ママに負けないぐらいこのところ仕事した。ホントは、さとしさんを待ってただけなのに、全然来ないから・・・。」
「Erikaママ、何してたの?」
「スイスの銀行で、資金がないけど腕のある職人や個人経営の小さなホテルや自動車修理工場みたいな、大手銀行が絶対に融資しない資本弱者ばっかりWIRという銀行発行の組合通貨で助けてた。秩父の『和銅』はそのまま真似ただけ。日本になかったから。ママの銀行にPraktikantin(見習行員)として入って、ずいぶん勉強させられた。お金は生き物だから、生かさなきゃダメだって。タンスに入れて肥やしにしたら、タンスも持ち主も腐るって。」
「カカオといっしょだ。チョコにしなきゃもったいないよね。」
「そう。ママに与かったポートフォリオを運用していたこともあるの。そのポートフォリオがね、Life Exit Foundationで管理されていた口座の一つ。実はパパが私とママに残したお金だった。そのお金をホテルに寄付したの。パパの目指した安楽死の合法化とは関係ないけど、ママの介抱のため准看護師になっていたから、パパの残した協会に登録してコソボとかにも行った。(棒読み口調で)医師の許(・・・・)可の下りた(・・・・・)安楽死希望者の最期のケアもした。何人も何人も・・・。」
 十子は声を潜めて、後部座席のタボの鼾を確かめる。タボの鼾が大きな寝息に変わっていた。声をひそめて、だがかなりな詰問口調で十子が話を続ける。
「野戦の仮設に医者なんかおあつらえ向きにいるわけないでしょ?」
 珍しく十子がいら立つ様子で、さとしは黙る。
「いるわけないの!足がない、腕がない、両足がない、耳がつぶれて、顔がぐしゃぐしゃの・・・。」
 十子の運転が荒くなっている。
「その血塗れの呻き声の中を聞いて回るの。『YesかNoか』って‼」
「どういうこと?」
「生きたいか、死にたいかよ!」
「生きたいに決まってるじゃない。」
「激痛にのたうち回っている人に、腕も足もなくした人に、一体絶望以外の何があるっていうの⁈」
「モルヒネとか鎮痛剤打って・・・・」
「そんなものとうの昔に底打ってんのよ。打ったって効かないし・・・」
「・・・。」
「彼女や子供やお母さんの話したって、痛みで聞こえやしないのよ。」
「・・・。」
「もうほとんどみんな、『頼むから、楽にしてくれ』って。」
「・・・。」
「最期はみんな、私の手を握って、ありがとうって言って死んでゆくの・・・。朝も昼も夜も・・・。何人も何人も、何十人も・・・。敵も味方も‼毎日毎日!」
 初めてさとしは十子の流涙を見た。手で涙を何度も拭い、ハンドルが濡れている。十子がため息を吐き出す。
「エンジェルか。そうかもね。でも、死の密売人だなんて・・・。」
「何、それ?」
「警察がつけてる私のニックネームらしいわ。ママが逃亡した過激派だってわかって、現場にいなかってくせに、まるで人をたくさん殺したみたいに決めつけちゃって。まるで自分でママの人生や私の人生全部見ていたみたいにね。私はともかく、ママは誰一人殺してなんかいないのよ⁉その娘の私が、まるで殺人鬼の娘で、安楽死を売ってお金にして、そのお金でロコ村を立てたみたいに疑っている・・・。逃亡過激派の娘にお金があるはずもないし、あったらブラックマネーに決まってるって感じ?もうだからここはいいの。タンスなんか持ってないから、お金を活かしただけ。ね?ドイツのパパとママは別れたけど、死んでから、こうしてここで一緒に私がしてあげたの。ここはあの二人が広げた大箪笥。ここはあの二人のロコ。私のロコじゃないみたいね・・・。これでもういいの。そんな嫌疑を受けてまで、これ以上ここにいることない。あとはご勝手にって感じ。」
「ここを出る?」
「(しばらく間をおいてから頷く)ママの遺言通りこうしてさとしさんにもう会えたし。住むとこ、やっと見つかったし。」
「どこ?」
「(さとしの胸に手を添える)ここ!わたしのおうち!さとしさんと一緒ならどこでもいいの。でも日本はもういいかな・・・。」
「また見えなくなったら、食べていけないよ。おうちになれない。」
「橋の下だって、さとしさんがいればそこが私のおうち。」
「橋の下か・・・。最悪だね。」
「ママがよく言っていたの。すべて見えてると思い込んでる今の社会に迎合して堕落するより、見たいものを最後まで希求して生きる方がまし。それで死ぬ方がまし。橋の下でも。」
「橋の下か・・・。(しばらく俯いて黙る)いいかもね、もう。メールであの二枚の絵をホテルに送るように書いてくれる?親父の里帰り。それでここは完了だ。ここは出よう・・・。PC画面もよく見えないんだ、昨日から。ああ、この目、なんなんだよ!(両目を拳を押し潰す)。でもどうしてもあの奇麗なErikaママ、元過激派って信じられないけど・・・。」
 さとしが地声になっていて、十子が鋭い目線でさとしを制止する。うしろにタボがいることをすっかり忘れていた。十子がバックミラーで後部座席を慌てて確認する。タボの寝息は規則正しく聞こえていた。さとしも押し黙る。ウエルキャブが両神村に向かう坂道に入る。
 タボを二人で降ろして車椅子を押してレジデンス3階の介護施設階に上がる。シングルルームのバルコニーから三人で桜を眺めたあと、さとしと十子は同棲している5階の1LDKに上がり、また桜に誘われてバルコニーに出る。風がさらに強まり、花吹雪が舞い上がっている。二人が立つバルコニーに桜の花びらが時折吹き込んでくる。
「親父もお袋もここがこんなになって、驚いてるだろうね。人間より猪と熊の方が多いぐらいのとこだったんだから。」
「喜んでくれるかな、ジュンパパ。」
「と思うよ。この景色、見えるうちに見届けなきゃね。ああ、気が滅入る。」
「(さとしの手を握る)そう言うときはね、もっと嫌なこと考えるの。目が見えなくなるより嫌なことある?」
「あるよ。」
「何?」
「ミツが居なくなること。」
「それはないから、大丈夫。」
「でもさ、行き場がない。これ以上ショコラテリーに甘えるつもりはないしね。チョコ業界も大変で、老舗は採算が全く取れない。盲目の昔ながらの職人なんていらない。お荷物さ。でも、どこでどうしろっていうのかな。職なんかないね。絶望するしかない。」
「いくら絶望しても、絶望じゃおなかいっぱいにならないじゃない。意味ないって。」
「分かってるけどね。」
「私がさとしさんの行き場じゃだめなの?ずっと待ってたって言ったでしょ、45年も。もう着いたの。もういいの。これからは私が行くところがさとしさんの行くとこ。私が居なくなるのが一番嫌なら、選択肢ないの。」
「(頷く)どこにゆくの?」
「どうしても見たいもの、あるの。一緒にKayersbergに帰って、さとしさんとずっとあそこの青空また見ていたいなって。あの山一面のふさふさした葡萄畑で・・・。」
「きっと、その青空、俺にはもう見れないよ・・・。」
 さとしの視線の先にアトリエがあることに十子は気づく。さとしの背中が後ろに引いている。その気配の中に、さとしの心を時折鉛のように重く負荷する幻影を十子は感じ取っている。誰の言葉でも、十子の言葉でも、その積年の間にさとしの心に錨を下ろしてしまった幻影を消去することはできないことも。さとしはトラウマを抱えている。目が見えない時に見えたはずのないものを見たと思い込んで、そのDéjà-vuの幻影に支配されてしまっている。その幻影のすべてが今さとしが見下ろしている父ジュンのアトリエに濃縮されている。
 他に二人で住むこともできたが、十子はここ、いわば十子が建てたここロコ村のレジデンス、アトリエを見下ろせる十子の部屋に当然のこと喜んでもらえると思ってさとしを迎え入れた。さとしがこの生まれ育った両神のアトリエに戻ってくるかもしれないという淡い期待で十子はレジデンスで待っていたのだから。だがさとしは気が抜けたように笑うだけで、当初は全くバルコニーに出ようともせず、アトリエを見下ろそうともしなかった。
 さとしの視力はここに住み始めてから明らかに急速に悪化した。視力低下への悲嘆は重く、温厚だったさとしが苛立ち、十子が外出中に壁を殴るのか両拳から血を流していることが続き、十子はキッチンの引き出しに刃物類は納めて施錠した。荒れているさとしの頭を掻き抱くとまた温厚なさとしに静まってゆく。果てて寝入るさとしの寝顔を十子はこのところ一晩中見つめている。この人は、死を選ぶのだろうか。この人は死を畏れてはいない。実は少年のころから、きっと。どこか見知らぬ海外の橋の下でより、今ここ日本でのほうが二人の死体の所以を憐れむ声がせめてあるかもしれない。二人のささやかな軌跡を「見えた」と憐れむのかもしれない。おそらく十子にはさとしの視力を救うことはできないし、視力を失ったさとしの心を常に支えきることもできないかもしれない。私も死を選ぶだろう。この人がいなくなって、私にロコはもうないだろう。
 子供の頃のさとしの古い事情。小6の頃、現住建造物等放火罪の嫌疑がかけられたまま、直後に国外に出たという経歴。父ジュンが行方不明となり、視覚障害のある少年さとしはスイスから帰国後、ジュンの実家の祖母に引き取られた。ある晩、実家の母屋が火事になり、全焼した。祖母は皆野の青果組合の夜の会合に出ていたので無事だったが、一人でいたはずのさとしが消えた。溶け曲がったさとしの視覚障害者用の白杖が見つかったが、危惧されたさとしの焼死体は出なかった。震えながらうずくまる祖母にそれは吉報ではあったが、捜索も虚しく、さとしはその晩から忽然と消えた。
 アトリエの軒先にランドセルが放置されていたが、祖母の話で、さとしが何より大切にして常に持ち歩いていたドイツやフランスの入国スタンプの押してある自慢のパスポートがその中にないことがわかった。さとしの最後の足跡は、開港間もない成田からのモスクワ便での出国記録で途絶えた。地元紙は、スイスで消息を絶った画家守屋ジュンの実子、少年さとしが父の死を知ったショックで失明し、失意の帰国後実家に放火して遁走したことを示唆する記事を報じた。火事が祖母のかまどか囲炉裏火の不始末の可能性もあることも併せて伝えられていた。その不可解はしばらくの間、地元の耳目を集めていた。
 市当局との土地の買収に当たって、その当時の事件を十子は初めて知った。40年近くの年月に埋もれていた事情。人知れず、ヒトから忘れられて埋もれてゆく数知れぬ人々のかつてあったそれぞれの事情。知られることにもはや大きな社会的な意味のない事情。
 太古の昔からヒトの無数の命が折り重なって消えてゆき、それぞれの小さな無限の事情がリセットされ、土となる。その上を風が吹き、また空が開く。両神の山奥のさとしの父ジュンのアトリエ前の土。そこに以前、黄水仙が咲いていた。その土の事情など知らず、十子が新たにその土を握って、そこから見上げる空の下に建てる予定のレジデンスの建物をイメージしていた。
 さとしが徐々に寝物語のように話し始めた断片的な古い事情。それらの記憶は全て封印されていたもので、今、深緑色の水苔で固まっていたさとしのリビドーの沼の底からブク、ブクと気泡となってさとしの脳から視神経を逆流して二人で見上げているレジデンスの部屋の天井に投影されてゆく。十子はその映像を横から見上げている。その映像には、十子の知る事実と異なるものも混在する。だが十子は口をはさまずに、まずさとしの語るままにさとしの記憶をそのまま一緒にたどることにする。すべてはさとしがまだ小学生で一度視力を失った時の霞掛かった映像。
 風がぼわぼわと風花を巻いて吹いている。庭でアトリエの中からもれてくる母利恵と父ジュンの楽しそうないつもの笑い声。唐突に激しい雷の音がして、風向きが変わり、氷のような雪片がさとしの頬と額を打ち始めた。みりみりと音を立てる窓ガラスを手で押さえながら戸を開けて中に入ると、アトリエの奥の寝室に母利恵の上半身を抱きあげて泣く父ジュンが見えた。スイスから強制帰国させられた時点では、さとしの両目はほとんど見えない状態で、判然と眼前の情景を知覚することはまずなかったが、その時、さとしにははっきりといないはずの二人が見えた。

「おとうさん、どうしたの?さっきまで、楽しそうだったのに?おかあさん、どうしたの?」
「さとし、何やってんだ!おかあさんが寒がってる!おとうさんも、寒いんだ!」
「どうしたらいいの?」
「馬鹿!そこにマッチがあるから、どれでもいいからキャンバスに火をつけろ!囲炉裏でどんどん燃やすんだよ‼」
 囲炉裏から焔が燃え上がり、開いた戸口から吹き込んでくる突風に煽られて寝室もやがて火に包まれた。茫然と焔に取り囲まれたまま黒煙の方を見遣っていた時、背後から大きな手がさとしを引いた。焔の中から救い出され、肩に担ぎ上げられた。髪の毛の焦げる臭いがした。鳩尾が大きな肩口に押し付けられ、12才のさとしはそのまま気を失った。車の中ですれ違うサイレンを聞いた気がする。そこから全く記憶が途絶えている。漠然と飛行機や列車を乗り継いで長い間移動していたことを覚えている。何か話していたが、何か優しい声を聴いていたが、それは父ジュンの声のような気もした。不安で泣くと、大好きなチョコを必ずもらえた。そしてずっと、その大きな手がさとしの手を握っていた。ただ、さとしは疲れていた。目の薬という錠剤とチョコをもらって食べては寝ていた。視界も、聴覚も閉ざされ、何も見えず、何を聞いたかも記憶がない。とにかく、いつも眠っていた。時折、日本語が、時折、ドイツ語が聞こえた。意識が戻った時、さとしは知らないヨーロッパの病室にいた。

「Keine Angst, Junge.(ボク、心配しないでいいからね。) Allles wird wieder OK sein.(じきになにもかも良くなる。)」

 そのいつも同じ声掛けをしてゆくのはドイツ人の男性の医者だった。OKだけはさとしにもわかった。きっとよくなる、安心しろと言っているのはわかった。その言葉通り、ある朝目覚めるとさとしの視力がかなり回復していた。正面に黒い大きな影があるが、眼球を横にずらすと、自分の手の先がはっきり見えた。ベットから立ち上がって窓に寄って外をわき目で見ると、森のむこうから朝日が昇ろうとしているのが見えた。嬉しくなって、静まりかえっていた病院を抜け出て、汽笛のような音のした丘の下の川の方へ歩いて下り続け、そこにあった駅から列車に乗った。どれかに乗れば、きっといずれあのKaysersbergにたどり着ける。あそこに戻れば、あの葡萄畑の山の上の城に行けば、またみんなに会える。Mitsouko が待っているし、Mitsouko のお母さんのママやマダムやOttoが一緒にお父さんを探してくれる。とにかく、MitsoukoたちのいるKaysersbergに戻ろう。そう思って列車に乗り込んだ。それだけを思い続けていた。
 ヨーロッパの列車には切符なしでも乗車出来て、車掌はチェックに来たがさとしの無銭乗車を咎めるでもなく、目が見えていない、言葉もしゃべれない外国の少年の余計な厄介を避けるようにしてさとしを放置して去っていった。色々乗り継いで最終的に降り立った駅はブリュッセルだったが、当時さとしにそこがどこかはまるでわからなかった。乗車した駅が何処だったかも思い出せず、帰るに帰れないまま、二カ月は街中を放浪した。路上生活をする子を憐れんでパンやソーセージを施す人が多い町だった。腹を空かせてチョコレートの甘い香りのする店のショーウインドーをずっと覗き込んでいたところ、その店の若主人に手招きされて中に入ると、少しフランス語ができると知り、雑用少年としての住み込みが始まった。それが今のショコラテリーだった。
 一人で放浪する少年さとしの姿を十子はありありと髣髴できる。当時のヨーロッパの街並みも、そしてErikaママと一度行ったことのあるHeidelbergの街並みも。Heidelberg大学の病院からさとしが抜け出して歩いたに違いないネッカー川べりの街並みも。十子の記憶の映像も同じように子供の頃の色彩で古びたセピア色にカラーウォシュされ、十子本人もMitsouko になってさとしの映像に取り込まれてゆく。懐かしく、悲しい。
 
 燃えたのは母屋。今寝ているこのレジデンスの立っている土地。そして、おかあさんの利恵はさとしが三歳の時、じゅんパパもスイスの湖で消息を絶ち、別々の時期にさとしを去っている。ただ、少年さとしのDéjà-Vu(デジャヴ)の映像の中では、泣き叫びながら母利恵の水死体を掻き上げる父ジュンの姿が真冬の湖の中で黒い氷に取り囲まれてゆく。いたはずもない両親が少年さとしにはいた。
「まだ、あそこ、アトリエに入る気にはなれない?」
「(頷く)」
「冷たくなったお母さんを抱き上げているジュンパパはトラウマ。わかってるでしょう?どうしたらさとしさんそのトラウマから解放されるのかな。だって火事で燃えたのは母家の方でアトリエはああしてまだ建ってるし。」
「でも見えるんだ。遊んでアトリエに帰ったら、親父が水死体のお袋を抱き起してこっちを見るんだ。さとし、何してんだ、寒いから早く火をつけろって。お母さんが寒がってるって。マッチを何回も何回もすって、何も見えなくて、キャンバスなんかどこかわからないし、足元にあった藁の束に火を点けて、そしたら、アトリエが燃えて、奥の寝室の黒い煙の中に、二人の白骨体が横たわっているのが見えたんだ。はっきりと。慌ててた。すごくリアルなんだ。まるでほんとうにあったことのように。だから二度とあそこには入らない。」
「わかった。」
 十子が瞬きなくさとしを見つめる。その水を静かに湛えた瞳にさとしの心象が映っている。さとしのトラウマは、さとしがレーベル病を発症した少年の時、中心暗転したさとしの網膜の裏側で出来上がったものに違いない。それは普段は封印されているもので、今またDéjà-Vuが網膜にフラッシュバックされている。さとしを45年さとしの中に押し込めてしまったのは、レーベル病再発への怖れではない。このトラウマがある限り、さとしは苦しみから解放されないのではないか。十子はそう思った。さとしからトラウマが消えなければ、さとしがこれからもレーベル病から解放されることはないだろう。暗転が視覚を覆いつくし、さとしを永年苛み続けた幻影の昏みで、普通の社会生活が自分にもはや残されていないという絶望から立ち直れないかもしれない。ずっと畏れ続けていた不幸がさとしを再度襲っている。もっと不幸なことがあるのではなく、本当に恐れていた不幸がさとしにもう訪れようとしている。あとがない。夢もない。そうさとしは観念してしまうかもしれない。苦しみから解放されれば、ひょっとすると視力が戻るかもしれない。
 死は二人ならまるで怖くはない。数々の希望する死を見止めてきた十子にとっては特に。でもできることならアルザスの青空をさとしに見せてあげたいと思う。二人で見上げることができるのならば、二人で生きてみたいと思う。さとしにも見えるのであれば。
「アトリエはない方がいいわ。」
 十子がさとしの掌を握る。さとしの頬を手繰り寄せ、涙の浮かぶさとしの両眼に交互にやさしく唇を当てて、溢れる涙を押さえている。

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