サイレンを鳴らして村岡たちのパトカーがロコ村に到着する。あたり一面にタール臭とアルデヒドやトルエンの火災臭が充満している。村岡はその異臭の中に、微かに甘い香りを嗅ぎ取る。同じ香気を村岡は過去に二度、やはり冷たい風の吹く真冬の火災現場で感じたことがある。8年前、突風の吹き荒れる真夜中、熊谷市郊外の二百年近く続いた伝統工芸士の印章店が焼けた。地元で有名な印章彫刻の名人の焼死体の付近で一度。6年前の雪の舞う零下の夜嵐の中、吉田に一人帰省中の元大学長宅の火災現場で一度。元大学長の焦げた掌に握られていた焼け残りのタオルを引き抜いた時にも。感取したその異質な春先のハーバル調の黄水仙のような微かな甘い香りを村岡は忘れていない。一帯一面の火事場独特のタール臭の中で、村岡の嗅覚にはその香が却って際立って感じられた。もともと村岡は隠れて吸ってきた部下のタバコ臭を10メートル離れていても嗅ぎ取るので畏れられている。焼け爛れた焼死体を搬出するおぞましい現場に何度も立ち合ってきたが、全くそぐわないその優しい微かなフレグランスの違和。
その二体に共通項はあった。二人とも生前は、憔悴しきっていた。在宅医療中で、看護師の在宅患者訪問点滴を受けていたことと、配偶者や肉親がなく、同居人もなかった点だった。そして、秘密証書遺言が公証人に提出されていて、指定されたH法律事務所経由で海外の慈善団体のファンドにほぼ全財産が寄付されたこと。名人は印章が廃れ、ハンコに未来はないことを嘆いていたという。元大学長は下校中の児童の列を撥ね、弁護士の忠告を順守して事実の錯誤による無罪を本意ではないまま主張したことを取り返しがつかないと元同僚にこぼしていたという。両件とも「放火自殺」として処理されたが、村岡は警視庁公安一課の別件との関係で継続して任意内偵捜査している。
誰かが出火前に居たはず。寒風が吹き荒れ、雪が舞う秩父の町外れや山間の村に人目はない。寄付先が本当に慈善団体かどうか照査する必要がある。送金後のカネの流れを押さえる必要はある。万が一、本当に自分や世の中を憂慮した挙句の自死だとして、死への恐怖がないはずはない。誰かが幇助し、付き添い、用意周到立ち去った可能性がある。二人に接触していた医療知識のある人物がいたに違いない。場合によって、安楽死を説き、気持ちを宥めるため、あの香りのする香水を吸入麻酔薬の例えばケタミンを含ませたタオルに垂らして顔に掛けていたかもしれない。注射器の痕跡は現場にはなかったが、点滴に三方活栓の輸液ルートの側管からなんらかの薬液を混注した犯人が居た可能性はゼロではない。
村岡は十子から同じ匂いを感じたことは一度もない。フロント業務では香水等の使用がそもそも許可されてはいない。が、この両神のアトリエの現場からはまた同じ香りが風と炎に混ざって嗅ぎ取れる。
アトリエは既に真ん中の部分が焼け落ちて、建物の両袖の二か所から縦に火柱が立ち上がっている。冷たい山風が両神山頂から吹き下りていて、ロコ村を巻き込むように旋回して赤い中心の炎を吹き上げ、外焔は二本の青い筋となって夜空に吸い込まれてゆく。命が燃えて天空に消えてゆく。そんな異様な気配が漂う。身を切る寒風が署長の耳朶から完全に温度を拭い取ってゆく。両手で耳を覆うと掌の方がまだ温かい。火事の現場ではなく、神事の火渡りの儀式の場に、立ち合っているような気がした。龍が山の一郭のアトリエに火を噴いた痕。人事の火事現場にない妙な静けさが焔の周囲を支配していて、音もなく青い二本の焔が立っている。音といえば遥か頭上の両神山の奥処から無限の針葉をすり抜けて聞こえてくる山の悲鳴のような風の音だけだった。
消防団の団員たちが所在なく、焼けるアトリエの後方、かなり離れたところに建つレジデンスに引火した場合に備えるような布陣で一応ホースの先を握りながら待機していた。団長が坂を上ってくる署長に向かって駆け下りてゆく。
「(短い敬礼)ご苦労様です。異例なことで、大変困惑しております。火災現場で建造物の所有者に消火の停止を求められたのは初めてで、ご連絡申し上げました。類焼の危険もあり、放水を開始した瞬間、男女が噴射先に立ちはだかりまして、どくように命じましたが、全く従う様子がなく、参りました。」「お疲れ様です。で、その所有者を名乗る男女は?」
「現場の正面で火を見ております。ずっと動きません。」
見上げると十子とさとしが燃えるアトリエを真剣な面持ちで眺めている。微動だにしない。
「他に住民とか、施設の入居者が残っていることはないわけですな?彼ら二人だけですか。」
「はい。我々が到着した20:49時点ですでにバスで全員が避難したあとでした。我々の出動ルートで、3台のバスととすれ違いました。そのうち2台は空でした。ロコ村は出火時点で、蛻の殻という奇妙な現場でした。」
「了解。花火の火が引火したという事実は検証済みですか?」
「花火大会等の届け出は一切ありません。ただ、小鹿野町の防災課に防災訓練の届け出が防災管理者から提出されております。それが本日であります。」
「なるほど。了解しました。暫く両名と話します。」
「所有者による明白な消火妨害罪の現行犯です。」
「二人に何か特段変わったことはなかったですか?」
「特には。一度、女の方が何か瓶のようなものを一度投げ込んでいたように見えたぐらいでしょうか・・・。」
「瓶?火炎瓶か?」
「いえ。そんな大きなものではありませんでした。まあ、なんというか、飲みさしの健康ドリンクを投げ込んだのかもしれません。ガラスがぶつかるような音がアトリエの火の中でしていました。」
村岡署長はさらに坂を上り、二人に接近する。まず目の合った十子と目礼を交わす。
「そちらは、守屋先生のご子息のさとしさんですか?」
さとしに村岡は見えていない。集中しているのか、火照りを顔に浴びたまま呼応しない。
「先生のアトリエ、残念なことです。」
十子が反応する。
「仕方ないです。」
「花火が落ちたのでしょうか?」
「訓練のつもりで点火した焚火が風で広がってしまいました。」
「私は守屋さんにお尋ねしてます。あなたではない。」
初めてさとしが署長の声のする方に顔を向ける。だが、視線のフォーカスが明らかにズレていることが村岡には分かった。
「守屋さん、お宅は失礼ですが目がよくお見えではないのですね?」
「私がひょっとすると火を付けたかもしれない。父母は中で焼けていませんか?父母は寒がっていましたから。」
「何のことです?ご両親が中に?」
「はい。私の夢がホントになりました。」
「まさか、誰かアトリエにいたんですか⁈」
十子が即座に首を横に振る。
「誰もいませんよ。決して。この人の目の内側に見えることです。」
「ならばいいですが。大ごとになりますから。」
「この人のデジャヴですから・・・。」
「お二人に怪我はありませんか?」
「ダイジョウブです。」
「これで、親父とお袋ともお別れです・・・。」
村岡には皆目何のことか見当がつかないが、この二人が下手な三文芝居をしているようにも思えなかった。アトリエの火の回りを静寂が支配していて、青い焔が燃え上がって風に巻かれていても、何の音もしない。三人の会話だけが異様に聞き取れる真夜中の広場に立っているようだった。焚火を中央に焚いたアテネのデュオニソス円形劇場に立つ役者三名のような錯覚。頭を振って、村岡は現実に戻る。
「守屋さん。私はあなたを保護しに来ました。その横の十子さんとのご関係は詳しくは知りませんが、彼女には致死量に相当する劇薬を病院から窃盗した嫌疑がかかっています。あなたに危害が及ぶ可能性があります。逮捕状があるわけではありませんが、医療知識のある彼女が薬物投与する可能性もあるのです。実際、こうして火災も起きていますし、あなたの身柄をこの機会に安全な場所に一時確保させて頂きます。ご同意頂けますか?あなたに視覚障害が顕著であることを今確認できました。あなたには見えていないことがあるかもしれないと心配です。是非、とりあえず、署長の私とご同行ください。また、井脇十子さん、実名はMitsouko von Branchitischさん。私はあなたの秩父へのご貢献を蔑ろにする気は毛頭ありません。ただし、窃盗の嫌疑も含めいくつかお伺いしたいこともあるので、捜査への協力も兼ね任意出頭を要請します。まず今晩は、守屋さんをお引渡し下さい。宜しいですかな?」
十子が丈長に結っていた長い黒髪を解き、すでに濡れて破れた半紙を外し取る。放水の水を浴びたその髪を下ろし、手櫛で解し始めている。両掌を擦り合わせては、また手櫛を繰り返している。水気を取るというより、掌の水を髪になすりつけるように。風に乗って甘いグリーンノートの香が漂ってくる。「十子さん。先ほどアトリエに何を投げ込まれましたか?」
「(火の方を向いたまま)大切な香水の瓶です。もういらなくなりましたから・・・。」
夜祭の団子坂のぎり回しのあと、坂を上る前に新調の笠鉾に乗りこんで、46年前、さとしの父、そして、最期まで母Erika は明かそうとはしなかったが、十子の本当の父に違いないジュンに教わった前神楽の舞を、この巫女装束で披露する予定だった。商工会の面々やホテルの同僚との別れの舞いを舞うつもりだった。
火を付けたのはさとしではない。十子だった。十子はさとしの中に棲みついた両親の幻影をこの夜祭の夜、両神山の向こうへ送り火で送り出してしまうことにした。このアトリエを燃やすのは夜祭の晩と決めていた。さとしの目が治るかも知れない。治らない時は、あのアルザスの明るい青空をさとしに見せてあげられない時は、一緒に死のう。もうさとしを一人にしない。十子も一人になりたくない。祭りで舞ってみんなとお別れをしたあとで。ママの無実も、十子の事実も見えないひとたちのもとにできぬ釈明のため居残ることに関心はもはやない。あなたたちが見えるもの、見えていると思い込んでいるところに私たちのロコはない。これはさとしの両親と、ことによると私たちの送り火。
アトリエの炎がこれほど高く燃え上がるとは思わなかった。アトリエの木組みの左右のそらあまから青い炎が思わぬ高さまで立ち、太い梁に引火して弾け、何度かけたたましい打ち上げ花火のような亀裂音が辺りに響いた。通報が行って、警察や消防が駆け付けるとは十子は予想していなかった。思わぬ邪魔が入った。
緋袴の巫女装束の十子は、さとしの父ジュンの遺作の朱の小袿の公家の娘そのものだった。胸元に垂れた髪を片手で掴み、水気を絞ったあと、十子は千早を一度脱ぎ、風に泳がせてから、裏返しにして羽織り直す。さとしの手を握り返してから向き直り、署長の目をあの水を湛えた静かな目で直視する。冷たい風の中で時間が止まっている。音もなく二本の青い火柱がまだ夜空に揺らめきながら立ち上っている。
深い夜に静かな厳かな十子の声が低く響く。
「風が吹くと悲しくなるのです。みりみりと風の音が聞こえます。聞こえませんか?今、逝くひとの命が時刻に刻まれてゆくこの最期の音が?風が吹くと私には聞こえるのです。聞こえませんか?風の中でご自分の声か聞き分けられますか?ご自分の声と思い込んでいるだけかもしれません。聞こえますか?もっと耳を澄ましてみてください。聞こえませんか?もう本当に寄す処のないひとたちの命が削られてゆく笙のような音が聞こえませんか・・・?」
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