コロナが下火となり再開された秩父夜祭は冷たい秩父下ろしの烈風が吹き荒ぶ晩となった。二種類の曳山の、文字通り移動式の大掛かりな回転舞台の役割も兼ねた「屋台」と太鼓を打ち鳴らしながら曳かれる「笠鉾」の提灯が激しく揺れている。まさに今一台の笠鉾が団子坂を上がる手前で方向転換のぎり回しに取り掛かっている。東照宮を模した本体の屋根に社中の鰐口に藍染腹掛け、豆絞りの祭巴の手拭いを頭に巻いたとび職の屋根方衆が二人立っている。山車が傾いて二人がよろめくと、周囲から悲鳴とも喚声とも取れない群衆の熱狂が沸き上がる。直角に方向転換が終わり、車方衆が石持を抱えて坂を山車が登り始めると、破風屋根の下で音頭取りの若い衆が欄縁から乗り出して明かり提灯をぐるぐると回ましながら「ホーリャイ、ホーリャイ」と甲高い掛け声をリズムよく繰り返して観客と山車の曳き手を鼓舞している。その中に、イグとおにぎり君がいた。
笠鉾の迫力の大太鼓が轟いて万灯の提灯で飾られた秩父の曳山が、見るものに迫り、場合によって見るものを圧し潰す巨大な光の塊の生き物に化身してゆく。武甲山の竜頭がこの曳山で、道の群衆がうねる龍の背の鱗のようにあとに続く。この一台は今年新調された笠鉾で、『和銅』のネット投票で話題となり、クラウドで資金が集まったことを切っ掛けに市の産業育成課や県の商工会連合会等と地元の信用金庫が中心となって秩父の職人たちに発注して組み上がったものだった。建造には釘一本使用されず、その技法を知る年配の曳山職人や宮大工や塗師、錺金具師の伝統技能が秩父市内に結集して完成した。宿泊先のホテルのイグやおにぎり君が曳山の音頭取りとして駆り出されたのも当然の成り行きだった。
祭りの復活。冷めたい陣風は却って祭り衆と群衆のコロナで鬱屈していた心のクソクラエという気概を巻き上げてゆく。皆、マスクは手に持っていたが、ある意味、お構い御免で祭りに没頭していた。夜空に白菊の大輪花火が間断なく打ち上げられている。龍勢祭りの吉田の花火師も風を押してでもどうしても秩父硝石の限りを尽くしたかったような五月雨打ちが続いている。夜祭には花火がなきゃァ。と言って、荒川から打ち上げている。いざ始まってしまうと、行政の箍は末端でしかもう機能しない。
「ホラ、来た来た!一番前で提灯回してるの、あれイグちゃんとおにぎり君よ!」
「結構様になってるじゃない。」
「イグのホーリャイ、一番よく聞こえるじゃん!」
「あいつには捻り棒と半纏の方がずっと似合ってますよ。うちのフロントのジャケットなんかよりはるかに。」
「相変わらずキツイね、圭太、イグに。」
「あれ?十ちゃん、屋台に乗っていないんじゃない?」
「よく山車の飾り前掛けで中が見えないけど、確かに誰も乗っていないですね。」
「確かに・・・」
御旅所の桟敷席でホテルから支配人陽子とリムと圭太それに本社の常務の氏家、署長の村岡と倉木院長、車椅子のタボの一団が座って、笠鉾と屋台全7台が会場に集合するクライマックスを待っている。署長は両腕を車椅子のアームに立てて中腰になって見ようとしているタボを支えている。
「タボさん、おにぎりの奴、見えるかい?」
「見える、見える。やっぱりアタシの時代は単純でさ、男ってのと女ってのしか世の中に居なくてさ、女は女で、男は男でさ、いいねェ、やっぱり。あの子はさ、立っ端もあるし、腕っぷしもいいし、男っぷりがいいよ。」
「そうよね。提灯の振り方、イグより勇ましいわね。イグ、腕が下がってない?」
リムが草食系ジェンダーニュートラルで通っている圭太の方を見て気にしている。
「タボさんも支配人もショーワ。気にしないがいいよ。」
圭太が横を向いたまま軽く笑い返している。
「十さん、乗ってませんね。宝登山神社の巫女さんに羽織る千早と緋袴借りてましたけど。丈長に結った時の半紙の巻き方教わってましたけどねェ。どうしたのかな?」
署長が双眼鏡で覗いている。
「うん。誰もまだ居ないな、中には。」
イグたちの笠鉾が最後に入場して、万燈に照らされた全7台の曳山が広場に集結し、それぞれの社中の様々な囃子太鼓が乱打され、各々の社中の曳山の曳綱を持った祭り衆が陣の張り合いをして入り乱れ、ワッショイやホーリャイの掛け合いが喧嘩寸前の迫力で交錯する。夜空で紫緑赤青金の6台の速射連発スターマイン花火の第二幕が始まっている。観衆には固唾を呑む間すらない。
全員が空を見上げている時、人を押し分けて警官が二人、署長の方に向かって上がって来た。秩父署の巡査たちだった。かなり、表情がひっ迫している。
「どうした?」
「両神のロコ村のアトリエが燃えてます!火事です!」
「何だと⁈あのアトリエには誰もおらんはずだろうが?」
「山からおろしの突風が吹き下ろして、かなりの火が見えるそうです。通報によると、花火が上がるような音が聞こえたそうで、場合によってその火が落ちたのかもしれないとかで。かなりの火柱が立っているようです。」
「で、何でお前らこっちに来てんだ⁈」
「は‼ご連絡しましたが、携帯をお取りいただけなかったものですから。」
「消防は向かっているか?」
「は‼ただ、消火活動を阻む者がおるそうです。団長から連絡が入りました。」
「消火を阻む?なんのこっちゃ、何を言っとるかわからん!施設の入居者や住民の避難がまず先決で、お前ら何でこっちに来るんだ!」
「お言葉を返すようですが、施設及び住民全員、長瀞のホテルに予め緊急避難訓練と言われて、バス3台に乗って、退避完了しております。」
「はァ?」
「そもそもロコ村のレジデンスには祭りの関係でほぼ誰も残っていなかったようで、居た住民は4家族、それに要介護4の入居者数名と医療介護職員の3名、コンビニアルバイト店員の1名だけで、バス2台は空車で帰ったようであります。」「そうか。人命は奇しくも確保してあるということで間違いないな?」「は‼」
「それはいいとして・・・。ちょっと、待てよ?その避難訓練用のバスを予約したのは誰だ?」
圭太がタブレットを開いてタッチパネルを素早くスワイプしている。開いたページをゆっくりとスクロールし始める。ホテルスタッフ全員が覗き込んでいる。
「署長。」
「お前らのとこか?」
「はい。うちの発注で、ラウンジで軽食が50名分用意されてます。」
「陽子さん、私に連絡をしてくれなくっちゃ。」
「いえ、私は何も聞いてません・・・。申し訳ありません。圭太君。担当者の番号は入力してあるわよね?」 圭太がタブレットをカバーケースにしまおうとするのを常務が手を差し込んで止める。
「これは内輪だけの問題じゃないから。圭太君。担当者番号は?」
常務の差し込んだ手を振り払って圭太はタブレットを閉じる。
「常務、会社の備品が壊れます。ホテルに帰ってからきちんと調べましょう。入力は確認できませんでした。」
「いえ、私見えた。二番。違う?けーさつに圭太さんでも嘘はだめ。」
圭太がリムを睨みつける。圭太の目が赤いのが暗い中でもリムには見えた。
「二番って、誰?」
「二番なら十子ね・・・。」
間髪を入れず、署長が巡査の一人に尋ねる。
「で、消火活動を阻止しているというのは、誰?」
「中年の男女で、男の方は目が見えないようです。女はその男を付き添っているようだと。男がアトリエは自分のものだが、もうどうせ手遅れだから全焼するまで放置して欲しいといって放水をすると二人がホースの前に立つそうです。」
署長が倉木院長の耳元に小声で囁く。
「院長先生。この前の薬品管理室で盗難届のあった薬なんていいましたっけ。」
「まァ、あれはまだ内部調査中で、業者のデリバリーの量の取り違えかもしれませんし、大事をとって届け出をした段階ですから。滅多に投与する薬ではありませんので。もう少し遡行調査をした上で・・・。」
「なんという薬ですかとお聞きしています。」
「はァ・・・。ゼプリオンと静脈内投与用のペントバルビタールです。」
「なんの薬?」
「抗精神病薬のデポ剤と短時間作用型のバルビツール酸系の鎮静催眠薬です。」
「安楽死に使える薬ですか⁈」
「ペントバルビタールは過剰摂取したら致死率は非常に高いものです。」
署長は巡査二人に警笛を吹かせ、群衆を飛び越える勢いで桟敷席を飛び出していった。自然と無防備に放置されたタボの車椅子を囲むようにホテルの皆が集まっていった。倉木院長だけが輪に加わろうとせず、離れたところで頭を抱えて沈んだように座り込んでいた。広場は名物花火の黄金の滝が点火されて歓声が怒涛の如く渦巻いて、全員がタボの車椅子に首を突っ込まなくてはお互いの声も聞き取れない。タボが呟く。
「十ちゃんたち、行かせてあげればいいのにね・・・。秩父を出て、二人でどっか行きたいって言ってたかな・・・」
支配人陽子がタボに詰め寄る口調で尋ねる。
「タボちゃん、何か知ってんの?十は大切な子よ?あの二人どっか行っちゃうの?十が火でも付けたって言いたいの?市があのアトリエも所有者不明土地として公共事業目的で実質管理しておいて、いずれ所有権取得の申請をする案まであったのに、十が絶対反対していた物件よ?何か守屋先生の息子さんはまだ生きているかもしれないって言い張ってきた。火なんかつけるはずないじゃない。」
「アタシは何も知らないよ。でもその息子さんだよ、あのベルギーのチョコレート屋の生産部長さんが。このところ、よく一緒なのは知ってるだろ?」
「まァね。なんかよくわかんない関係だねってみんなで言ってたけどね。」
「どうだっていいじゃない。本人同士の問題だいね。」
常務がひそひそ話の口調で口を割り込む。
「実はね、警察は彼女をずっと監視していたんじゃないかな。彼女の母親は例の1972年のテルアビブ空港乱射事件のテロリストの一人で、事件後消息を絶ったうちの一人じゃないかって。で、今でも国際指名手配中らしい。警察はだから彼女が母親と接触するとにらんでる。母親はひょっとするととうの昔に別人として日本に戻っているんじゃないかってね。」
「何がテロよ、ばかばかしい。200%あり得ない。」
「父親はドイツ人で、スイスの安楽死協会を設立した有名な弁護士で、彼女のことエンジェルと警察は呼んでいて、安楽死を斡旋する看護師だって疑われている。」
支配人陽子は9億円の入金のことを思い出す。あの時の会長と常務との会話。入金が本当に履行されて、本社は全額を長瀞の口座に転送金してくれた。マスコミ対策でこの入金の経緯に関して緘口令が敷かれ、9億円は本社が銀行融資を長瀞に回したことにして、M. von Branchitischが一体何者かという追及や言及すらそう言えばその後一切なかった。ロコ村で事業規模が格段に広がり、当初の9億円はホテル最上階のお一人様限定のスマート・ラウンジ階開設と両神の土地購入に投入された、全体から観ると「呼び水」のフローでしかなくなっていた。
「じゃァ、十が例のBranchitischだって仰りたいの?父親がドイツ人?やっぱりあり得ない。十はどっから見てもハーフじゃないわよ、ねェみんな⁈」
常務以外全員が安堵したように笑みを浮かべている。
「やっぱ、ばかばかしいわ。」
リムが挙手してから発言し始める。
「でも、たしかに十さん、英語もドイツ語もフランス語もできるね。で、すごくあたまいいね。仮にBranchitischでも、十さん私大好きね。ロコは十さん作ったね。ロコは十さんが作った私たちみんなの居場所。弱い人や一人ぼっちの人、助けたね。悪いエンジェルなんかじゃない。良いエンジェルね!十さん怒ってるお客さんやみんなの不安、あの奇麗な目で静かにしちゃうね!すごいいい人!みんなが喧嘩になりそうだと、いつも絶対裏でまとめちゃうね。すごい人!自分はいつもひとりぼっちなのに。いい人できて、よかったね!お母さんがテロリストでも十さんは全然違う!私たちの十さんね!」
リムのあと、もう誰一人口を開こうとしなかった。常務も黙った。ここにはある優秀な社員の仕上げた仕事が確固として出来上がっていた。スタートアップの資産の出所とか社員の出自とか疑念は晴れないが、それは当局が調査するべきことで、氏家の仕事ではないと思えた。ここには敬意を表せる中規模ホテルを中核とした地域振興事業の一モデルケースが実例としてある。社会資本としてのホテル事業が奇しくも成立しようとしている。官民と老若が一緒になって限界村落を一つ消し込めたのも事実である。ソーシャル・キャピタルの中で資金投下しても一朝一夕に賄えない難題が、いざとなれば助け合える人と人の身近な繋がりだろう。この眼前の秩父夜祭りに沸いている群衆も、またウクライナ侵攻の無残な崩落現場で、一つ一つ砕石を持ち上げて救命に努めているのも、消火に当たっているのも、結局その地元の人たちではなかったか。悲嘆を共にしながら命を賭けて救い合っている人たちにとって、今日も取り敢えず生き延びて抱き合え、言葉を交わし合えることだけでもいざとなれば偉大な支えに違いない。道も水道も電気もないが、最後に人に残るもっとも大切な社会資本。それをM. von Branchitischが氏家に伝えようとしているのかもしれない。
陽子がタボの車椅子にもたれ掛け、耳の中に小声で話しかける。
「タボちゃん、あなた変なこと考えてないわよね、まさか。」
「例えば?」
「十とこの頃よく一緒だから。ま、いいわ。忘れて。何でもない。」
「安楽死?」
「・・・。」
「気にかかるお握りとかアンタとかいなくなったら考えるかもね。」
「じゃァ、まだまだ先だね。」
「そうだね。そう十ちゃんと約束したんだ。」
「十と?」
「(頷く)おにぎりが警部になるのを見てやれって。嫁や孫を自慢できる母親もいないんだからってね。」「そうね。それはいいね。楽しみだよね。」
「掃除のできない嫁だったらアタシが叩き直す。」
「そりゃ、嫁さん気の毒だわ。」
「(馬鹿笑い)だいな・・・。」
「安心した。」
「でもね、誰もいなくなって、十ちゃんの言うロコが見当たらなくなって、死ねないから生きているだけの一人ぼっちで、本当に本当にあたしを生きつくしたと思ったら、出来る事ならお願いしたいよね。痛くない安楽死。他人に嫌々職業的に面倒見てもらってまで生きるつもりはないね。今のジジババは往生際が悪いんだよ。余計なカネが国にも自分にもかかるし。そんな人間ばっかりの国になったら、どっかが攻めて来たって、この国守れやしない。電車だって、半分がシルバーシートになったらどーすんの?日本が終わる。アタシはそう思うね。これからの若い子が可哀そうだ。でもスイス行かなきゃ死ねないらしいけどね。その旅費ぐらいは取っておくさ。アンタには3人も息子がいるから喧嘩相手もとっかえひっかえで老後も忙しそうだね。」
「まァね。何とかなるもんよ。まだ私の愚痴聞いてもらえるんなら嬉しいよ。」
「いつでもロコ村に来て頂戴。」
「そうする。」
「イグとウルフの結婚式、来るでしょ?」
「当り前さ。どこで挙げるんかいね?」
「三峯神社。披露宴はうちの最上階のラウンジだってさ。どっかいいとこ行けるかと期待してたのに、フレンチとかさ。馬鹿な子たちよ。きっと支配人のジャケットで参加ってなるわよ。あの子たち抜けたら、誰がフロントやんのよ、ったく。」
「モロ、職場結婚だね。」
「アトリエ大丈夫だといいけど・・・。薬って、いったい何のことよ・・・。十がまたなんかサプライズ仕組んだんじゃない?きっと、そうよ。でも燃えてるって言ってたわよね、署長たち。まさか、ねェ・・・。」
誰一人それからは口を開かなくなった。誰一人。夜祭のクライマックスの山車の引き合いの喧騒と太鼓の五月雨打ちと上空の花火の打ち上げ音の雪崩込む中、御旅所の桟敷席のタボの車椅子の一郭だけが立ち上がろうとせず、鉛のように重く周囲から沈みこんだまま時間が過ぎて行く。車椅子を曳いて歓喜に湧き上がる法外な群衆を掻き分けることもできず、仕方なく、夜空をただ無言で皆見上げて、脱出できない祭りの終焉を待っている。花火に色はなく、空虚な空砲がタボたちの一郭に響く。声にならないが、実は圭太一人はずっと口を動かしている。
「(ホーリャイ、ホーリャイ、ホーリャイ・・・)」
リムが急に飛び跳ねて、その圭太の腕を掴んで立たせて、イグたちの笠鉾の方を指さして声を上げる。「あれ、見て!イグの屋台の後ろ。あれ、巫女さんの十さんじゃない?」
「えっ、どこどこ?やっときたのかな?」
「どこ?十が作った笠鉾だもんね!なんか、お能の舞みたいなのこの前、一人でラウンジのスマートテレビの前で練習してたし。見ちゃダメって。」
「どこ、わかんない。」
「ホラ、後ろの左。綱の近く。誰かの手を引いてる巫女さんいるでしょ!」
「どれかわかんねェよ。」
「あれ、もう見えなくなっちゃった。」
倉木院長も突然立ち上がり、周りの誰よりも背丈があるにもかかわらず、さらにベンチに攀じ登っていつまでもリムが指さしたイグの笠鉾の方を見やっている。祈るように、何か小さくこっくりと目礼をしたように見えた。
ロコ記入欄 あなたのロコを教えてください