「風が吹くと悲しくなるのです。みりみりと風の音が聞こえます。ほら、また。それに、見えませんか?私に今見えるのは青い青い炎です。大きな二本の氷の柱が燃えています。見えませんか? いいえ、この人は盲目ではありません。私のことも私より見えています。だって私に私は見えないでしょう?私にもっとも見えないものは、鏡の前に立たない限り、私です。でも、この人には私が見えています。目が見えなくなっても、見えなくなる前にやっと会いに来てくれましたから、今も私より私が見えています。そしてこれからも。
はい。この人が幸せであれば私も幸せです。この人が悲しんでばかりいると私も苦しいです。この人はずっと逆巻く世間の風を避けて避けて生きてきました。もう十分だと私は思います。
このところ風ばかり吹きます。風が吹くと目に涙が滲んできて、見えるものや聞こえるものがあるんです。ほら、氷の柱から立ち上る二本の炎が一つになってゆきます。風の吹き荒ぶ夜、わたしは生まれたって。ママ、その夜、とっても幸せだったって。あとさきなく、そこでいいって。だからわたしが生まれたって。
今いらっしゃるところがホントに皆さんが望まれている居場所でしょうか?何か諦めてそこにいらっしゃるのではありませんか?見えているものがホントか、まだ見えていないものがホントか、そう言ってこの人のお父さんは絵を描いていたって。見える盲目が大勢いるって。
この人をずっと苦しめてきた風の吹く夜にここで見たと思い込んでいるデジャブをこれで消し去ることができれば、それがどんなに嬉しいか。ほら、あの焔がお父さん。細い方はきっとこのひとのお母さん。寒かったのに今は、あったかいよね。きっと、二人とも。ホラ、もうじき氷の火柱は燃え尽きます。じきに送り火は終わります。それまで手出しはもうしないでください!
この人と一緒だった子供の頃から長い年月がたちました。もう会えないと思っていました。取り戻せた私のロコをそっとしておいてください。邪魔はしないでください。
私はその時決して許しません。風が止むころ、またお越しください。」
こう言い終えて、巫女装束の十子(みつこ)はさとしの肘を掴み、レジデンスの入口の方に向かおうとする。千早の白絹の袖が突風に舞い上がり、胸紐が吹き上げられて十子の顔のあたりを朱色の小龍のようにくねっている。さとしは肘に掛かった十子の手を軽く振りほどき、焼けている合掌造りのアトリエから立ち上がる二本の青い焔を少し首を傾げてまた横目がちに見上げている。視野の端で、夜の闇の天空に青い二本の命の焔が吸い込まれてゆく様を確かめるように。促されてさとしも後ずさりしながらレジデンスに歩み始める。追いかけようとする巡査たちを村岡署長が制止する。
「追わなくていいんですか?」
「構わない。」
「放火の疑いがあります⁈」
「そうですよ、それに明白な消火妨害罪です。」
村岡が十子に声を掛ける。
「そのママというのは、十子さん、あなたのお母さんのことかな?」
「そうです。」
「そのママは、今、どこにおられるのかな?当然、ご存知でしょう?」
「はい。」
巡査二人が顔を見合わせる。再び十子とさとしの方へ今にも向かおうという素振りをみせたが、村岡が両掌を立てて再度制止する。
「どこにおられるのかな?」
「(長い間)10年前亡くなりました。」
「え?」
「私が最期を看取りました。致死量のペントバルビタール・ナトリウムのママの点滴のバルブを回したのは私です。」
陣風がアトリエの上空から火の粉を巻いて吹き下り、地面を這い、両神山の坂道を下ってゆく。合掌造りの太い木組みの左側のそらあまが焼け落ちて、火屑が周囲に跳ね上がる。だが、誰一人その跳ね火を避けようともせず、固唾を呑み込んだまま棒立ちになっている。突風の音だけがレジデンスの前を支配している。巫女装束の十子の顔が火照りを受けて、薪能の能面のように闇の中に浮かぶ。
「スイスのSils湖畔の墓地に、この人のお父さんと並んで眠っています。私が二人のお墓も建てました。私は最期までドイツ人としてママに育ててもらいました。色々なことを教わりました。そのママのことしか知りません。
お聞きしますが、ご自分でご自分が見えますか?見えませんよね?それでも、皆さんに見えることがホントでしょうか?いえ、見えていると思い込んでいるのではありませんか?皆さんが捜してきたママなどいなかったのではありませんか?皆さんが捜している私も。」
突風がたくし上げた千早の袖が十子の顔の前ではためく。両腕を広げて風に袖を任せると、袖が後方に翻ってゆく。闇の中に巫女が宙に浮き上がるように見える。しばらく十子は火を見つめている。村岡たちも揺れる炎の方を見やっている。沈黙を十子が破る。
「火を見ているうちに、どうしてもこの人をこれから幸せにしたいという強い強い、新しい思いがこみ上げてきました。これからは私がこの人の目です。かならずこの人を護ります。行き場がわからないとこの人は悲嘆します。私は違います。やっと、一緒に居られるようになったのです。わかったのです。想い起こすと私はずっと心の底でこの人だけを待ち続けていたって。ずっと探していた私のロコです。この人が私の居場所ですから。この人のアトリエはいまさらもうどうせ救えません。もう結構ですから、どうぞ皆様お引き取りください・・・。
風が止む頃、またお越しください。」
十子が一瞬しゃがんで千早の袖の中から何かを取り出して地面に置いて、足早に二人はレジデンスの中に消えていった。巡査たちも消防団員たちも立ち位置から不動のまま署長の指示を仰いでいる。村岡は十子がしゃがんだところに行き、暗い地面から転がっていた皮下注射用のバイアル二瓶を拾い上げ、素早くボケットにしまった。後方から巡査の一人が詰問口調で声をかけてくる。
「よろしいんですか、このままで?」
「(頷く)なァ、巡査。」
「はい?」
「人を裁く前に、我々が一人の人間としてやれることがあると思わんか?」
「罪を許さず人を許す、ですか?」
「いや。罪として裁く前のことだよ。」
「?」
「見えてると思い込んでる、か。それはありかもな。」
「?」
「死ぬつもりだったかもしれん。場合によって二人でな。」
「え?」
「(ポケットの中のバイアル瓶に触れながら)もうそれはないよ。まずはまた夜祭の警備に戻るぞ。団長、あとは宜しく頼みます。」