「どうしたの?なんかいるの?」
男の子は相変わらず何も言わずに芝草のあたりを抜け、身の丈を越えた3メートルほどにこんもりと盛り上がった琵琶湖特有の葦の群生の中にどんどん入っていく。どうやらこの葦の茂みは廃路を囲うように伸びているようで、昨冬の枯れ葉が廃路筋に枯れ落ちて、人がそこを時には通るのか、ある程度踏み固められているようだった。もうベンチからすっかり離れ、明かりはない。半分つっかけていたスニーカーに湿った砂や枯れ葦の茎切れの破片が入ってくる。葦の細い葉が顔や腕にまといつき、皮膚の表面が浅く切られてむず痒い。体のほうぼうが少しひりつく。それでも男の子は半裸の俺にかまう素振りはなく、棒切れを握り返して止めようとしても、猛然と俺をぐんぐんと引っ張ってゆく。まるで手についた松脂が瞬間接着剤のようで棒切れから掌が離れない。背が低い分、葦の攻撃をうまくかわして進んでゆく男の子が泳ぐように手繰って避けた葦の葉の束が弓なりに俺の顔に跳ね返ってくる。足元の砂地は泥土に変わって、スニーカーがはまりそうになる。
15分ほどだろうか、芦原を抜けると湖がすっかり開けて、海を見渡すような浜辺の別景が広がった。俺の手から抜き取って、というより張り付いていた俺の掌から剥がしとって、男の子が棒切れでさらに一曲がり先の漁港の方を指している。
「お船が燃えてる!」
一基だけ石垣の上にさらに三段の地輪が組まれた大ぶりな古い石灯篭は昔その船着場の位置を夜曵舟に知らせるための常夜灯だったに違いない。今、火袋に据えてあるボール球型LED電球は低ルーメンのもので明かりが届く範囲は限られていて、やっと湖上から目視で係留場所の常夜灯の役割を担う程度で、浜辺を照らす力はない。あるだけ却って人寂しい。まだアトラクション・ホテルのゲレンデをくべなく歩く暇もなかったので、自分がどこにいるのか実際わかっていないが、あちら側は明らかにホテルの敷地外で、ホテルが醸す人いきれや活気がぷっつりと切れた浜の暗みの中でかなり激しく焚火の炎が揺れている。目を凝らすと木組みの台座の上に船が乗せられていて、真下一面に枝木が敷き詰められて燃えている。いつのまにか周囲から音が消えていて、原木が燃える独特な樹がはぜる強いパチパチという音が時折流れてくる。松の葉が焼ける匂いがする。懐石料理で祝い膳の見立て料理の盛り込みに松の葉が軽く燻して出されてくる、あの匂いだ。同じ匂いがほのかに風に乗って届いてくる。ということは。男の子はあそこの焚火から燃えている松の枝を抜いてきたのか。思い出して掌の松脂の匂いをまた嗅いでみる。風が出て、雲行きがおかしくなってきていた。打ち上げ準備をしていた花火師がアトラクション前に天気を気にしていたことを思い出す。
「舐めてるとな、あかんのですわ、この辺。急変するんでわ、特にこの時期。」
船底を焼いている船の周囲には屈強そうな人影がかなりの数見える。10人ほどだろうか。船はボートでも漁船でもない。昔の小型の小早船のような木船で、それこそアトラクションで使用する以外、まず見ることはない船影。ホテルからは離れているが、こうした船は港で保管されているのだろう。人影はみな何か黒い衣装で、頬かむりをしているものや、松明をもっている男は立物(たてもの)の刺さっていない吹き返しのついた兜鉢をずり落ちないように片手で抑えながら、船底を照らして回っている。どうみても漁師たちではない。俺がやらされるかもしれなかった忍者役の連中が明日の演目の準備をしているのかもしれない。鎧兜に槍を携えている連中も見える。馬も二頭ほどいる。
「ボク、教えてくれてありがとう!でもね、大丈夫。あれはね、えーと、なんていったっかな、なんていうか、忘れちゃったけど、木のお船の底にについたフナ虫を焼いたり、木を食べて腐らせる悪いばい菌を殺すために、たきびをしているの。松脂が出てきたら、それを隙間に塗って穴をふさいでいるの。大丈夫。お船は燃やさないから。なんていったかなぁ・・・。あれ、ケータイないから調べられないや。」
グーグルで検索しようにも、たびなぜ君の中にiPhoneを置いてきてしまった。男の子が無言で自分のケータイを差し出す。iPhoneSE。驚く。親が位置情報の確認用に持たせているに違いないが、すでに4歳前後の現代っこは、わからないことはケータイが知っていることを知っている。
「いいの?ありがとう・・・(検索する)そうそう。『ふなたで』っていうの。危ないことじゃないから大丈夫。昔の木のお舟はああして修理するの。ボクのもっているその棒はきっと焚火を調整する『たで棒』だね!短くなったから捨ててあったのかもね?ひろったんでしょ?」
iPhoneSEを男の子に返す。男の子が激しく首を振る。
「違うの?そう。じゃあ、あの燃えているとこから抜いてきたの?」
男の子が頷いて、棒を俺に渡し返す。たで棒の先が急に赤く燃え上がっている。風に煽られて加熱した?驚いて腕を伸ばして柄の方で受け取ってから、熾火になっている先を砂地に差し込む。
「わ!危ないよ、これ!火を消さないと・・・・」
待て待て。待てよ?そんなはずがないだろう。ありえないだろう。後ろを振り返る。そうか!やっと、合点がいった。
「馬鹿野郎、やっぱりお前か!おかしいと思ったぜ!バカにしやがって!あぶないじゃないか!また戻ってきたんか!」
男の子は変化せず、まだそのまま、きょとんとこちらを無表情に見つめている。
「だから、あぶないっていってるだろ、火傷させる気かよ!!」
男の子は上空を見上げている。俺の幼少期の姿で奴が現れるのは初めてだ。かろうじて自分の写真を覚えていたからうまい具合に乗せられたが、今度赤ん坊の俺で出てきても俺には通用しないからな。赤ん坊の時の俺の写真なんて覚えがないし、それが俺自身だとわかるはずもない。
「危なくないって叔父さんさっき言ったよ・・・」
「つべこべ言ってんじゃねェ!悪趣味だぜ、子供の真似なんてさ!早く失せろよ!」
ぽつりぽつりと雨粒が落ちて来始めた。真上ではなく、ふなたで場のはるか後方を暗藍色の雨雲が渦巻き、雷の音が聞こえてくる。雨粒はその渦から風に弾かれて飛散してきている段階だった。突き刺していたたで棒を砂から抜き、波打ち際に行って先を湖水に浸すと、ジュッと音をたてた。刀のように空に振りかざしてみる。小鼻で笑ってやる。ふん、小賢しい演出だぜ。男の子を連れて帰らねばと思っていたが、奴だとわかった以上その必要はない。振り返れば、ケタケタ笑ってすぐに消えるだろう。放っておこう。どうせ俺だけの問題だ。
上段の構えのまま、俺は遠雷の雲の中を走る稲妻の短い閃光を目守っていた。大丈夫、まだ雨は来ない。はるか彼方だが、腹に響くような雷鳴が聞こえる。方角は元安土城のあたりか。雷雲が割れて一部の漆黒の群雲が疾走して迫ってくるのが見える。
二度目の大きな界雷はかぎ裂きの長い閃電光と全く同時で、その瞬間、琵琶湖一帯が深緑一色に浮かび上がり、底深い地響きが鳴り渡った。足元の振動が伝わったその時、花火どころではなく、俺の全身に強烈な悪寒が走った。全身の産毛が逆立ち、体中が電気臭を帯びているのがわかる。首筋から怖気が両耳の裏に競り上がってきて、後頭部の方から脳天まで届いたその瞬間、バチンッと破裂音がした。棒の先に支流雷が落ちた。棒の先から煙が立ち上がり、俺は直立のまま後ろに吹っ飛ばされ、砂地に仰向けにぶっ倒れた。瞬時のことだった。
意識はすぐに戻った。何が起こったのかを戻った意識で理解していたし、突然ある記憶が蘇った。俺が石造りの高い教会の尖塔の前の広場で、傘を差したまま落雷を受け、人に助け起こされて救急車に搬入されている情景。ゴシック建築の教会の前。雨に濡れた敷石に頬を打ち付けた記憶。立ち上がろうとしても体にまったく力が入らない。遠巻きの群衆の円影。俺の両目に差し込む懐中電灯の痛い直光。泡を吹く俺の口。声も出ない。が、かろうじて生きて息をしている俺。どこかそばにその俺の様子を見て、俺に俺の症状を克明に知らせている別の俺。そっちの俺。「大丈夫だ、何とかなる」。そう情報を伝えてくる。敷石の水たまりが冷たい。サイレンの音がどんどん近づいて、その音も、赤いパトライトの点滅も、うるさい。だるい・・・。確かあれはドイツのUlmの大聖堂の前の広場。確か大切な誰かを探しに行っていた。誰を?思い出せない。だが、大切な人で、その時のいたたまれない切ない思い、どうにも抑えきれない胸の高鳴りはそのまま記憶全体を支配している。例のラベンダーピンクの迂曲する記憶の路。途切れていた場所が一つ鮮明となる。俺はあの雷でそれ以前の記憶を喪失したのだ。それを思い出した。
今はだれも助けには来ない。朦朧としたまま、砂の上に一人倒れこんでいる。片足は湖水の波打ち際に浸かっているようだ。あの時と同じで、水が冷たい。雷を浴びて死なないこともあるのか・・・。ドイツ人の医者が病院で説明してくれたが、よくわからなかった。逆に九死に一生という言葉が日本にあることを教えてやった。九死に二生か。眼窩にズキンズキンと俺の意識が流れ込んでゆく。また気が遠くなってきた。死ぬのか、これで。いや、耳は聞こえている。携帯が鳴る音がしている。男の子が、いや、奴が何か話している。
どれぐらい時間がたったかはわからない。激しい雨が俺を正気に戻した。琵琶湖を打つ雨脚は激しく、湖上にはけあらしのような雨霧が立ち上って視界がほぼ閉ざされていた。仰向けに倒れていたが、両肘を立てて上体を起こすことはできた。寒い。震えがきたが、立ち上がる余力はなかった。朦朧とした意識だけは戻ってきている。俺は生きている。ちょうどふなたで場の方が正面で、舟が湖岸に降ろされていて、たで跡の焚火はまだ燃え残って雨を受けて立ち上った煙が棚引いているのが見える。目も見えているようだ。よかった。山の上の安土の上空の方だろうか、霧と黒雲が交わる闇の切れ目が夕焼けのように赤々としている。真下で何か巨大なものが燃えていて、それが上空の黒雲を照らしている。その赤がぐんぐんと夜空の中で広がっている。大火災か?向こうの街が空の下で燃えている?雷鳴は琵琶湖から遠ざかった反対側の対岸の方から微かに聞こえているが、安土の上空はすでに鎮まっている。俺を打った火雷の本流が落ちてかなり大規模な火災が安土で発生しているのかもしれない。だが、サイレンの音はしない。
自分の呼吸を確かめるように聴きながら、じっとしばらくふなたで場とその後方の燃え色の上空を見ている。どういうわけか、視界に入ったその情景に、震えながら、場合によっておそらくは死にかけている俺の胸に、懐かしい、いたたまれなく切ない、抑えのきかない思いがこみ上げてくるのがわかった。その感情はさらに熱量を増し、抑えきれない熱情のようなものになった。「何とかしてくれ」「何とかしなければ」という切迫した胸騒ぎ。一体これは何だ?目と耳の知覚が澄み渡るのがわかる。体だけが金縛りにあったように動かない。後ろで携帯で話す男の子の声がする。
「しょうがないなァ・・・。連れてってあげるよ・・・。」
雨の奥、たなびく霧の合間に目を凝らす。霧の中に幅の広い一筋の薄紅色の路が俺を起点に腰の高さで浮いて、一度湖上に出てからふなたで場を迂回して陸に戻り、奥の森の中に延び入っている。焚火の先に霧の晴れた脇道があり、その奥には菜園らしき広い棚田が開けているのが垣間見える。目を凝らしてみる。耳を澄ましてみる。意識を失わないように必死でこらえる。今目を閉じたら、俺は死ぬのだろう。男の子が砂地の俺の脇を通り抜け、すたすたとラベンダーピンクの浮き路の先に走ってゆき、菜園の中に入ってゆくのが見える。光量子がその菜園の入り口でねじれて俺の視力が混濁する。倒れている俺と男の子を追って走ってゆく向こうの俺の視座が反転してゆく。急に菜園に吸い込まれるように意識が移動する。菜園の入り口辺りで、先に踏み入った男の子と俺の意識が同化する。男の子の眼で俺は今菜園を見渡している。男の子の声は、俺の鼓膜の中でする。
「おじさんは、わすれられないことがいっぱいあったけど、わすれちゃったんだね。」
何か言おうとしても声にならない。
「だめだよ。ここではおじさんのセリフはないよ。たびなぜ君はぬいぐるみだし。ぬいぐるみは話せない。シッ!」
俺は声帯でなく、脳の中で言葉を探す。
「そうそう。それでボクと話せるから。ボクは誰だって?聞いてないの?タマケシだよ。おじさんの。おじさんの魂(タマ)は聞いているより重いよ。わすれちゃったことのなかに、いっしょにおきわすれてきちゃったものがあるみたい。それがおじさんのなかに溜まって固まっちゃってるみたい。それ、取りに行かなくっちゃ。ね?おじさんにわすれたことをまず思い出してもらわないと、こっちもどれを消したらいいのかわかんないから・・・。」
俺は何とかその見たことのある情景に同化しようと集中してみる。確かにそこに以前俺は居たはずなのだ。あれは俺ではないか?俺は目の前の黄色無文の帷子に腰回りの絁(あしぎぬ)のかけ湯巻を掛けているこの愛らしい娘をずっと見守るうちに実はたまらなく心を奪われて焦がれてしまっていたのではなかったか?春殿と呼んでいなかったか?年のころは確かお仕えして5年。ならば数えで16歳のはず。雨脚は弱ったとはいえ、雨に打たれてけぶるキバナノレンリソウの中に傘もささずに春殿が立っている。肥料にしかならないこのレンリンソウの黄色が溢れるこの棚田を一番春殿は気に入っておられたはず。
「今日までの長きにわたってわれによろずのとりもちたまいしこと、決して忘れません・・・。」
「行かれるのですか・・・。」
「(頷く)」
「やはり、小田原の北条殿のもとへ?」
「あずかり知りませぬ。こと、ゆきとうもなきところにゆく次第ゆえ。明智殿方がお逃げの坂本城にまずは舟で向かうと、そちの父君が申されて・・・。」
棚田の最上段に3名、銅丸だけの軽装備の男衆が控えている。顔見知りの父の配下の伊賀衆だ。にやにやと下卑た笑いを隠そうともしないで控えている。
「春殿、もうそろそろ参りませんと!」
「若!渋らせたまいますな。父上にまた否(いや)というほど打たれますぞ!」
伊賀衆が笑いながら棚田を上ってゆく。しばらくすると見上げても姿が見えなくなる。声が響く。
「おお、天守が上から燃え落ちとるぞ!かくばかりの雨には消えまいて!」
「上からか?」
「山の上からだとほとほと見えるはずじゃ、もうちと上へ参ろう!」
「たが仕業か?」
「町火はわしらじゃろうが、さすがに天守はのう・・・。」
「秀満殿かの?」
「明智殿は二の丸にすがらおられた。天守には信長が化して出ると申されて、おそれておられたしな。」
「では?」
「見てはおらんが、おぬしらも聞いたじゃろ、ごろついておったありつるの雷(らい)さまがずっどーんと天守に落ちたのに相違なかろうて。唐人が甍に厚く金箔を貼っておったしな、金銀にいかづちは落ちると聞くしの。」
「信長は今生であるのかもな・・・?」
「否や、安土の天守がああして焼けるのを見れば、信長がみまかったは必定。そのしるしよ。」
春殿が打合せの襟元から出した数枚の折りたたんだ懐紙を受け取る。受け取った掌を春殿は両手で握ったまま離さない。細腕から懐紙に雨滴の筋が伝わり落ちる。目を合わせる。これほどまじかで見つめるのは、春殿がかぞえの13歳の髪上げの裳着の儀が済んでからは初めてだった。澄み渡った春殿の直視。信長公の娘子として市井の母を持つ春殿は、幼少のころからこの伊吹山の薬草園に出入りを許されていた。カブラルなど出入りするポルトガル人に可愛がられ、鎮痛薬草の虎の尾やショウマ、ハーブの麝香草や、信長公のトウモロコシ、土壌用のレンリンソウの植樹を手伝い、一緒に育てていた。ポルトガル語をかなり理解するようになり、信長公から時折呼び出されることもあった。
庭まわりと異人たちの監視・春殿の介添えに信長の命を伊賀衆が任されていた。二度目の天正伊賀の乱で父弥次郎が加勢してから信長公の信認を一応は得たが、伊賀を裏切った伊賀の弥次郎に更に裏があった場合にと母と当時9歳の息子の俺がこの禁制の伊吹山に体よく幽閉された。程なく母は気を病んで死んだ。その後も息子の俺はある意味人質と同じで、この薬草園を出ることは許されず、間違っても遁走しないよう絶えず父の配下の伊賀衆に見張られていた。俺が山から消えたら、即座に伊賀河合村の耳須弥次郎一派は織田信雄軍に包囲・殲滅されることになるだろう。この間、見張り役連中から山中で日々剣術や秘技をかなり手厳しく仕込まれてきた。腕試しの手合わせに時折弥次郎が薬草園に来る。が、一度誤って春殿に寄せる思いをつい話してしまってからは様相が急変した。弥次郎の逆鱗に触れ、それからは稽古の域ではなく、殺されそうになるまで打ちのめされるようになっていた。分をわきまえろと性根を叩き直す、と骨折するまでの容赦なさだった。以来、父への憎悪は俺の中でいつしか確固としたものになり、臓腑の底で親子の縁は切れていた。そして春殿への思いは止まることはなかった。
親子の果し合いを家中のものから聞きつけると、打撲を癒す虎の尾や軟膏を持って俺が寝泊まりする伴天連小屋に決まって春殿が飛んできて教師たちと処方をしてくれる。カブラル神父がおられる時は伊賀衆も小屋に近寄らない。カブラル神父や門下のポルトガル人が春殿に傷や骨折の西洋の外科医療の手ほどきをする。生体は俺だ。戸口の外で処置の痛みに喚く俺の声を確認すると見張り役は立ち去ってゆく。夜、枕もとで看病をしてくれる春殿とポルトガル人。わからぬ言葉で会話が交わされている。
「姫様はどうやら信三郎殿を好いておられましょう。」
ある晩、カブラル神父がそういうと、春殿が
「Ficar em silêncio!」
と顔を赤らめて身もだえるそぶりをしていた。塗られた薬が肩口の開いた傷口に鬼のように浸みてうなりながらも、わからぬ言葉の意味は俺にもわかった。髪上げ後のよそよそしさに年々傷心していた反動で、俺の胸にぐんぐんと溢れかえるものを感じていた。禁じえぬ恋心。に、手をつなぐだけでは足りない、どこまでも相手に触れたい、所有したい、所有されたいという細胞の情報のアプリオリな蠢き。
「カブラル様からたまわった南蛮のくすりぐさたちの種です。あの方たちは、長崎にお逃げです。これからどなたを主とするのか、わからずと申されて・・・。ゼウス様は夜討ちを多勢でなす卑怯者をお許しにはならないと申されて。すぐに引き払われました。」
「して、この種をいかがせよと?ここに撒けと?」
「(首を静かに振る)北条様はわれをかくのごときに至りてはお受けにはならぬであろうと。これをもて、この種をもちて信三郎様と遠地(とおち)に落ち、落飾(らくしょく)せよと。民となり苦しむ民のためこのくすりぐさをほどこせとカブラル様が・・・。それこそがわれのまことの福ぞと。これより、よきことは織田にない。落ちよ、落ちて幸せに民となれ、と仰せでした。」
「落飾とは・・・。」
「みまかりし母もいと元は御膳処の家出(いえい)でと聞いております。いと構わざること。信三郎殿。今なら伊賀衆も見ず、ただいまに率(い)て参らせたまえ!いまならば、逃ぐるを得まする!」
春殿の握る手が熱く決意のまま固い。薬草の入った懐紙が二人の掌の間で濡れて撚れる。わかりました。本望です。そう心で強くつぶやき、ただ、丸腰では父の配下が追い付いてきた場合、戦いようがない。加州泉村の刀だけは持ってゆかなければ、身を守る術はない。
「まことによろこびて、お伴に参らせ給います!ただ、ほんの僅かなる間ばかり待たれよ、せめて姫の傘と刀を取ってまいります。」
「厭(いと)うことなし、今を逃さじ!刀など、要らぬ、ただ今のみあり! さあ!われをひとりとならせたまふな!申す、たのみます!」
「まことに直ちに帰りまいります!」
戦に出陣する高揚と勢いで俺は伴天連小屋に向かって疾走した。手を放そうとしたとき、弱弱しく春殿の手腕が俺の袂をつかむのがわかったが、この機を逃すわけにはいかず、振り払うしかなかった。懐紙が二つほど落ちた。
「あ、かたじけなし、御赦しあれ!しかれど、なんとなれども刀は要(よう)なれば!」
大至急、戦の支度のたすき掛けに身支度をし、加州を握り、馬の鞍を抱えてキバナノレンリソウの萌える中腹の棚田に戻ると、そこに人気はなかった。思わず声が出た。まさか。そんなはずはない。もうはばかることなく、大音声で姫の名を叫んで回った。春殿は消え、三人衆も消えていた。持っていた傘を投げ捨て、雨をかぶって坂を疾走して山を下る。中腹の仮厩はすでにもぬけの殻で、繋止(つなぎどめ)の周辺に懐紙が散乱して雨に濡れていた。拾い上げるとき、滝のように涙が溢れ、嗚咽と過呼吸に苛まれながら、とにかく俺は走った。あのまま逃げていれば。何とかしなくては。取り返しをつけなければ。舟と春殿が言っていた。船着場なら常楽寺か長名寺かその先の藤ヶ崎か。安土のはずはない。燃えている。明智方の残兵一人を麓の本厩で殺し、一頭を奪ってその馬を駆った。取り巻きが何人であれ、伊賀衆は嫡子の俺を知っている。父弥次郎と差しでの戦いとなるだろう。母を無残に死に追いやり、俺を打擲しまくり、命の春殿をまた政略の囮に略奪するお前を必ず討ち果たす。その覚悟は決まっていた。手綱はなるべく左手で持ち、聞き手の右腕を温存しながらまず長命寺へ、そして藤ヶ崎へ駆り飛ばした。
船着場には4,5名が立って舟を見送っている。今まさに漕ぎだしたところで、桟橋の先50メートルほど湖水を進んだところに馬を乗せた小早船は浮かんでいた。飛び移れる距離ではなかった。刀を抜き上げ、声の限り俺は叫びあげた。
「春殿!春殿!ご容赦を!お赦し給え・・・その男を決して信じ給うな!命をかけて、必ずや御助け出しに参上つかまつります!必ずや!!わが命を賭して!!」
俺は種の入った懐紙の束を掲げて見せた。春殿は船尾に立っていたが、力なく舷(ふなべり)に両手をかけてしゃがみ込み、船着場の俺を呆然と見ていた。
「その男とはわしのことか⁈気でも違えたか!おぬしごときに何がなせるか、世をわきまえぬ坊主が!」
弥次郎の高笑いが湖上に響き、8本の櫓の規則正しい水かきの音が雨霧の闇の中へ遠ざかっていった。桟橋の果てで身崩れる俺の背。
櫓漕ぎの音はまだ聞こえる。遠ざかるでもなく、近づくでもなく。それはまるで俺の鼓動と共鳴している。脳と心臓の脈打ちが同時で、動悸は収まる気配がない。忍者装束と胴着の男たちが浜辺の焚火を足で消しているのが見える。砂を掛けている。それはひと曲がり先のふなたで場の情景。立て肘を解いて仰向けになると、数名が俺をのぞき込んでいる。
「だいじょうぶですか?」
「このひと、なんでパンツとシャツだけなんですかね?」
「ですよね?」
「うちの子が電話くれたんですけど、ひとが倒れてるって。持っている棒に雷が落ちて光ったそうです。」
「ちょっと、あんた、しっかりしな!(俺の躰をゆする)すぐ救急車くるからね。」
「こういう時は、あまり揺らさない方が・・・。」
「救急車こっちに来るかね?安土の方は大火災らしいからね・・・。」
「ひどい雷だったですもんね。」
「ところでさ、このひと、お宅のお子さんになんかしようとした変態かもよ?」
「ですよね・・・。」
「この胸ジッパーが開いたTシャツ、オカマっぽいじゃん・・・。」
「息子さんこそだいじょうぶ?きちんと聞いてあげないと・・・。」
「はい。そうします。」
俺から櫓の音も心臓の激しい鼓動も消えてゆく。そうか。そうなるか。ただいつもの「俺はそういう男なんだよ」と人垣を掻き分けてみる力も消えている。要するに俺の中から出てくる奴が明らかにいない。まあ、おそらく俺はまたクビになるのだろうが。
櫓の音。櫓が水を描く音。波打ちの音。俺は何となくいつも船に乗っていたような気がしてきた。いやもう少し大きなタービンの蒸気の音。深い大型船舶の汽笛の音。ラベンダーピンクの浮き路が霧雨の琵琶湖の上を夜空へ向かって溶け込んでゆく。サイレンの音が聞こえる。