櫓の音がまた聞こえる。櫓が水を掻く音。波打ちの音。俺は櫓舟を漕いでいる。人を乗せて手漕ぎ舟を漕ぎ続けている。立ったまま櫓柄(ろづか)から右手を外し、櫓杆(ろづく)を握ったまま燃え上がる安土城の方を、同船の女と見やっている。静寂。無声映画のように城が落ちてゆく。水の音もしない。戦(いくさ)の果てに落ちたのではない。だから逃げ惑う声も断末の喊声も聞こえない。城主不在の大天守が、数日前までの絶対のシンボルが、静かに静かに壮麗なまでの火焔をあげて、燃え落ちてゆく。
俺はこの手漕ぎ小舟を一人残って護っていた父弥次郎の手下を斬って奪ってみたものの、考えてみれば死に物狂いで漕いでも追いつけはしないだろう。追い付けたとして、櫓漕ぎで疲弊した手と腕は使い物にならないだろう。刀も握れはしない。とりあえずは弥次郎一行は坂本に入城するだろうが、たった一人で切り込む意味はない。しかも坂本城ももはや安土同様主なき城塞。うまいことを秀光殿に取り入って、主だった人質や目を付けた女人集を好色な弥次郎は密かに伊賀の山中か離島の居城に幽閉しておくに決まっている。混乱の行く末がどちらに落ち着くか、どちらでも伊賀衆がいざというときの切り札を持っておくことしか弥次郎の頭にはないだろう。人を欺くことに長けている。信長公の伊賀攻めでは裏で伊賀を欺き、相克のあった伊賀衆たちの城ばかりことごとく焼き払わせ、今度はその信長公を急襲した明智方に加担した。母千早が衰弱して亡くなる直前、妙なことを言った。
「すまぬ、信三郎・・・。頼る相手を誤った・・・。」
「いまさら、なにほどのこと。いうかたなきこと、母上。」
「病み居る尩弱(おうじゃく)なわが身はつくづくさまたげと思い、立ち退いた折には・・・」
「立ち退いた?いずこをです?」
「岐阜を出た折には、すでにお前を宿しておった・・・。」
「伊賀入り前のことですか?さすれば、もしや、弥次郎は父ではないと?」
母は枕の上で首を静かに横に振った。何度も。
「ならば、わが父は誰なのです?」
母は椀盛り用の大振りのイチイを刳り抜いて作ったという椀を指差した。
「薬ですか?いま、湯を沸かします。」
「(弱々しく首を横にふる)もうよいの。くすはもうよい。からの椀を・・・。」
食事も喉を通らなくなって、今は煎じた百草湯をその椀で飲んでいた。この伊吹山の薬草で春殿がカブラル神父の処方として持ち寄ってくれたものだった。母はいつも煎じ薬を呑むたび身を起こして椀を額の上に持ち上げて礼をした。薬草がなければ、ある意味、何年も生きて来れなかったのかもしれない。起き上がれぬまま、それでも母は仰向けに寝たまま椀を額の上に両掌で掲げ、礼をした。百草湯に対してかと思っていたが、実はこのイチイの椀をこそ拝していたことをようやく知った。母は、小半時後、亡くなった。
実の父親ではないとすれば、殺されかけた数えきれない理不尽な打擲に合点が行く。俺の中にはとうの昔から憎悪しかない。母が亡くなってからは弥次郎という父は最早俺の中には存在しない。稽古などではなく、毎回が本気の果し合いだった。
信用ならぬと弥次郎を見破っていた信長公に自分の人質として幼い俺と母を正妻と長男と偽って差し出したにちがいない。しらを切り通して、堪え、いずれの日にか伊賀衆の若い衆を分け与えられ棟梁となる。そのうえで弥次郎の敵方として敢えて戦い、戦場で恩返しと言って殺す。その目論見がこの激動の十日で変容した。信長公も、信長公を討った光秀殿も生死は誰もわからず、安土も焼け、都も焼け、寺社に流れ込むおびただしい負傷した武将のそれぞれがどの主の配下か実のところ判別などつかない混乱。悪賢い弥次郎は早々に明智方も捨て、坂本から人質を連れて逃げるに決まっている。
人が立ち去った波止の先で一人放心していた俺に、暗闇の葦藪の中から油売りの女が顕われ、天秤を肩から降ろして近づいてきた。桟橋に投げ出していた加州の刀を両袖に載せ抱えて寄ってきた。伊賀衆の焚いていた篝火も薄雨に消えかかっていて、女の顔は判然としない。が、四十路のその女は唐輪髷(からわまげ)に頭巾を被ってはいるが、油売りにしては生活臭がまるでない。俺に斬り倒されて横たわっている伊賀衆の断末魔の呻声にまるでものおじする気配もない。沈香がほのかに匂う。そして俺を見上げる下三白眼の瞳には力があった。
「御身が心に懸くる春殿の行方(ゆきかた)を存じたれば、お声がけ申しました。」
「いま何と?。春殿をご存じなのですか?」
油売りの女は天秤棒から両端の蓋付桶を抜き、重そうに船底に並べている。
「いましばらく何とか大津浜の新殿(あたらしどの)末寺の泉福寺の沖近くまでい漕ぎ渡り下され。仔細はその折に。」
坂本城に渡る船も遠く見かける湖上で、手漕ぎ船に松明を掲げるわけにはいかず、女が船底の暗がりで背を向けて、大きな丸桶から何を取り出そうとしているのかは見えない。油売りにしては荏胡麻油の臭いはしない。湖沖の風に漂う城の火煙臭に打ち消されている。
「この水油は春殿の伊吹山の菜種を絞ったもの。あの山の伴天連たちにこさえさせたあら手の油ゆえ、臭いはないのです。さりとも、さきごろさながらほぼ使いつくしました・・・。」
坂本城に向かうのであれば乗せてくれというので同乗を許したが、物言いと言い、こちらの事情を知り尽くして近づいてきたに違いない。油売りの女が一緒なら、いざ湖上ですれ違う船に弁明が付く。刀を寄こしたぐらいだから殺意はまずない。だが、物言いからも、ただものでないことはすぐに察しがついた。
もう漕ぎだしてから6時間以上が経つ。弥次郎に鍛錬された身体能力と順風を頼んで漕ぎ続けたが限界は近い。両腕がパンパンに腫れ上がり、血豆を二つ掌で潰している。女はほぼ眠っていたが、櫓を止めるたびに目を開けて舟先を一瞥して位置を確認していた。もうしばらくすれば払曙が始まる。雨霧は晴れて、陸に近い湖面にけあらしの帯が沸いているだけで、夜空は無言の星で埋め尽くされている。女が頷きながら身を起こし、陸の方へ漕ぎ向かうように指で示す。坂本までは俺も持ちそうにはないし、暗いうちに陸に上がるべきでもある。舳先を陸に直角に櫓を漕ぎまわすと、女が首でこっくりと礼を返してきた。そして揶揄うような口調で和歌を吟じてみせた。
「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひ。(訳・こんなにもあなたを想っているということを、告白すらできずにいます。伊吹山のさしも草ではないですが、燃えるような想いを抱えていることをあなたは知らないでしょうね。)さしも草(よもぎ)よりこの菜種草はいと燃えやすく、ゆえ、そなた様そのものと、信三郎殿・・・?」
俺の春殿への懸想を知っていてからかっている。そして俺の名を口にした。
「なにゆえ、わが名を?」
女は一方の桶から幾重にも巻いた油紙から火打石と藁くず、布を取り出し、布に竹筒の油を注ぎ、船べりに斜めに立てかけた天秤棒の一端に巻き付け、その先に藁くずを盛り上げていた。微風に藁くずが流れ、船底に撒き落ちる。俺に船を制止するように促す。身をかがめ何度も火打石を叩く音がする。火が点く。女のうずくまった背がぼんやりと浮かび上がる。脛より上の短い丈の深緋(こきひ)の桃山小袖の二枚重ね。打掛替わりに財弁天のような紋絽織の羽衣を羽織っている。その背に薄く地紋が浮き上がっている。撚れていて見にくいが大小の波が一本の線で縫い込まれた透かし紋。斎藤道三の家紋に似てはいるが・・・。
「そなた様と春殿、それに母君の千早殿を存じ上げているというだけで足ることにて。まことを知り得たとして、この狂(たぶ)る世に、なにがまことか?そなた様の本懐をのみ、まこととなされよ。千早殿はいかにせよ戻られぬ。このお方もよ・・・。」
女は背の向こうでもう一方の油桶の蓋を開けている。かなり重そうな塊を持ち上げ、船底で硬い音が響く。俺は櫓を手放し、背後に立ち、女の手元を覗く。船底に置かれていたのは、見たこともない鉄仮面だった。その面には目の位置に矩形の二つの大きめの穴と鼻のあたりに無数の丸い空気穴が打たれた目鼻隠しのカバーが備え付けられていて面の奥は全く見定められない。
「これはな、ポルトガルの武士の鉄兜でな、このまえ伴天連に・・・」
女が下がっていた目鼻隠しを上にあげ、天秤棒の炎を差し向ける。
「このお方がもらい受けて、大変お気に召されていた・・・。」
「うわッ!!」
俺は飛び下がって腰を抜かして仰向けに倒れ込んだ。半分焼け焦げた人面が目鼻隠しの奥に現れた。「そのお方は⁈どなたです⁈」
女は返答せず、頭巾を取り唐輪髷をあらわにしてから髪を荒々しくほぐし始めた。頬に焔の影がちらちらと揺れ、羽衣を纏った摩利支弁天の現出かと俺の背筋を畏れが走った。
「もはや、どうでもよきこと・・・。なすべき、これがわが最後のつとめ。」
女は鉄兜の目隠しをさげる。
「ここからは坂本城がお望みになられるでしょう。いずれ落ちるやもしれませぬ。はかりごとで狂(たぶ)る下剋上、たれが世を取りますことやら。かくゆえは、もはやあぢきなきこと。」
女は鉄兜を持ち上げて立ち上がり、しばらく胸に抱きしめている。
「仰せの通り、庫裏の取り巻きとあなた様には存分に油を撒き、皆ことごとく焼き尽くしました。亡きわが父の短剣も遅ればせながら本懐を遂げました。油売りの娘は通りまかり、抜け出でてまいりました。長きお仕えもこれにてしまいにございます。父娘の本懐がかくとげられるとははなはだ奇怪なること。ただ、蝶もとうにかえるあてなどござりませぬ。おさらばにございます。ご一緒はいたしませぬが・・・。」
そう言うと、女は鉄兜を湖に投げた。一瞬にしてその焼けた首ごと小波間に沈んでいった。
「はてや、その方は・・・?」
「この首は、皆が捜しているものかもしれませぬ。坂本に鉄兜を届けんと思いおりましたが、どうやら負け戦で敗残のご様子。届け先を失いました。さようなことはもはやよしなしごと。今より前はすでになきことにて。」
女は懐から出した短刀で髪を切り、その束を半紙に纏めて縛る。互の目(ぐのめ)が所々突出している美濃刃文が炎を返して浮く見事な短刀を鞘に納め、短刀と髪の束を布に巻きこみ、俺に差し出す。
「これを私にいかがせよと?」
「岐阜の長良川の崇福寺に届けてくだされ。お頼みいたします。」
「承知いたしましたが、まずは、岸につけましょう・・・。」
女はため息を深く一度つく。それから、竹筒二本の栓を抜きとり、船の中に突然油をまき散らし始める。
「何をしなさる⁈」
「於隺丸 (おづるまる)殿、頼もしゅうなられ安堵いたしました。」
「おづるまる?」
「泳ぎの心得は?」
「たけております。」
「では、岸まで泳いでくだされ。」
「あなた様は、どうされ・・・。」
女が突如、天秤棒を持ち上げ、焔をあげている方を船底に向けた。撒かれた油に引火する。
「なんということを!」
「於隺丸、いな、信三郎殿、春たちは伊勢志摩の離れ小島に幽閉されることになるでしょう。先刻伊賀者たちが話すのを聞きました。坂本は無理じゃ。よいか、よく聞きなされ!そなたの父ももう坂本にはたどり着けまい。あの松明の群れが見えますか?あれは秀吉の追手に相違ない。戦が始まる。勝ち目はない。なにがまことか!このすかし合いの世に、まことなどござらぬ。無駄に死に急ぐでない。本懐はとげてこそ本懐ぞ!とげられぬ思いは、末代気がかりとして巡ります!わが本懐は今遂げ終えた次第。さあ、行きなされ!」
女は天秤棒の火をついた先を俺に向け、毅然と炎のあがる舟の中を俺ににじり寄ってきた。舟はもう使い物にならないだろう。仕方なく、命に従って湖に飛び込み、一重伸し (ひとえのし)の泳法で時折燃える舟の方を振り向きながら岸へ急いだ。女は舟尾で櫓を漕いで沖に向かっていた。岸について沖を見遣ると、赤々と燃え上がる舟の中央に、膨れ上がるような火の玉が盛り上がり、しばらくしてその火の玉がしぼんでいった。舟の炎は徐々に熾火のように細く小さくなり、波の畝に隠れて消えていった。懐に預かった短刀と髪の束を巻いた布を確かめ、布がふくんだ湖水を絞ると、そのまま岸辺で俺は意を失った。
「いや、別にいいですけどね、一晩中、うわ言だか寝言だか、まあとにかく、うるさくってかないませんな。」
「そうですよ。時々、相当ドサドサ暴れて、ベットから落ちそうになってましたよ、手足を掻いて泳いでるような仕草もしてましたね。」
「何言ってたかなんて、ねェ・・・。何語だかも。」
「ハルハルハル、とか叫ばれてましたかねェ・・・」「その人、雷に打たれたんですよね。気の毒ですが、こっちも寝られなくて迷惑なのは事実です、先生。」