ロコ・オルカーン

ロコ・オルカーン Ⅱ

 コンペティションのあるコルマールに入る前夜、守屋ジュンは画学生としてパリにいたころから一度見たいと思っていたシュトラースブールの大聖堂に近い旧市街のホテルに泊まった。予期せず、日本人のビジネスマンが10名ほど同宿で、だれもが明らかに経営陣営のメンバーであることは明らかだった。黙礼は交わしたが、ネクタイ族ではないジュンに話し掛ける気配はなかった。その小団体と夕食の時間もほぼ重なり、席はわざと離れたが、ホテル内の同じレストランで食事を取ることになった。他に徐々にドイツ人やフランス人の客が入店してきて少し気まずさは薄らいだ。
 団体の食事が終わって、デザートが配膳されてすぐ、ソムリエの認定バッジを輝かせた男が目も輝かせて日本人客のテーブルに寄ってゆき、各々の席に透明な食後酒の注がれたグラッパ・グラスを置いて回った。そのサービスの仕方は非の打ちどころがなく、ある意味フランスのワイン文化の格調と伝統の高みから、自信を持って遠い国日本からの賓客に接しているという独特のオーラが感じられた。日本のサービスのように妙に仰々しくへりくだるうるささがない。黒服のシルエットが然るべくなのである。英語で話しかけ始めた。
「皆さんは日本からだとお伺いしましたが?」
「そうだが?」
「当ホテルとレストランをご用命いただき有難うございます。アルザスのシュークルートとソーセージのメニューはご堪能いただけましたか?」
「うん。ドイツ料理に似ていたけど、なにか同じ酢キャベツのドイツのザウアークラウトよりずっと品があるよね。」
「有難うございます。さて、皆様に今お配りしたのは当レストランからのお礼のDIGESTIFです。どうぞご遠慮なくお飲みになってください。」
 皆一斉にどこかの研修で習った通りに匂いを嗅ぎ、不器用にグラッパ・グラスを振り、一口試し飲みをする。
「おう。おいしいね。有難う。」
「皆さん、それが何か当ててみてください。」
また全員がグラッパ・グラスを振り始め、今度は口の中で味を確かめるようにもぐもぐとし始める。そして飲み干す。
「うーん・・・何だろうね。」
「フランスのリキュールは詳しくはないんでね・・・」
ソムリエは少しだけ微笑んで飲み終わったグラッパ・グラスを回収し始めた。
「日本のSAKEです。」
ジュンは声は押し殺せたが爆笑寸前だった。
「やられたな。」
「無礼な奴だ!」
「いやまあ、日本人だと思っての善意じゃないですか?」
「うーむ。しかし俺も含めて君たちの味覚も大したことないってことだ。」
 日本からのビジネスマンは、不機嫌とまでではないが、落胆を隠せない様子で散会していった。この時のソムリエが、何を隠そう今一緒にブドウを摘んでいるOttoだった。窓の方に顔を背けながら笑い涙を指で拭っていたジュンをソムリエOttoは見逃さなかった。
「ソーセージのmoutardeが辛すぎましたか?」
「ん?」
「いえ、涙を拭かれているので。当店のmoutardeは自家製で辛いので有名ですから。」
「ああマスタードね。いや、お宅のさっきのジョークのほうが辛口だね。」
「あなたも日本からですか?」
「そうだけど、俺はDigestifに酒はいらないからね。」
「それは残念。日本の方には喜んでいただけるかと思いましたが・・・みなさん、何かお気に召していただけないようで・・・」
涙が浮いたままの目でジュンはOttoを見つめる。わざと瞬きはせず。おい、お前、本当はどうなんだい?Ottoもジュンの目をのぞき込む。あれ、そんなに知りたい?そう簡単に手の内は。ソムリエ・エプロンの腰ひもを結びなおす仕草をしながら、Ottoの両肩が急に小刻みに震えはじめた。重い黒服を床にバサリと脱ぎ捨ててOtto本人が身軽になって飛び出してきたように、Ottoが屈託なく笑い始めた。
 日本人に限らず、人は皆「型」に騙されやすいこと、五感の中でも味覚など全体の1%で、嗅覚と合わせても4.5%、視覚に依存することが85%をおそらく超えること、フォトグラファーや映画の仕事はだからソムリエや調香師の仕事より分がいいこと、Colmarから近いKaysersbergのDamaineに許可を得て自分で白ワイン用のブドウを育てていて、収穫の時期を迎えていること。良かったら手伝いがてら来てみないか。周り中の小高い山が全面ブドウ畑で、村全体がドイツ風のFachwerkという家の外枠や柱や太い木の梁が剥き出しで、その間を白やローザ色の漆喰が塗り込まれている建築様式の中世の民家ばかりで、村自体が美術館だと自分は思う、ヘンゼルとグレーテルが出て来ても不思議ではないぞ、廃墟もあるし、ただのワインにも恵まれるであろう、きっとあなたは歓喜するであろう。
 隣のテーブルの気難しそうなドイツ人老夫婦客がとうとう痺れを切らして、空になったワイングラスに追い注ぎをするよう人差し指を立てて催促をしてくるまで、Ottoとジュンはまるで普段着に着替えて居間にいるように妙に意気投合していた。日当は払えないが、Domaineに泊まれるように手配してくれることと極上の今年の搾りたてのVin Bourru(発酵初期の濁りワイン)を条件にジュンはコンペティション会議の翌日、Ottoのワイン畑に同行することに同意した。ジュンの席を離れる際、Ottoが小声で耳打ちをした。
「フランスではね、ミシュランの星持ちレストランぐらいなんですよ、ワインの追い注ぎをソムリエやギャルソンがするのは。あの程度のワインぐらい、自分で注いでほしいんですがね。ドイツ人は『枠構造』の型にこだわりますからね。ドイツ語の文法そのもの。」
 アルザス人はもともとドイツ領になったりフランス領になったりの歴史の中で必然的に両国語を操る。ドイツ人の悪口はフランス語で、フランス人の悪口はドイツ語と使い分ける。ただどちらも訛っていて、ドイツ人もフランス人もアルザスの人はアルザス語を話すが意思は伝わると感じている。生粋の内地のフランス人はジュンが英語で話しかけるとフランス語で正しい答えを返してくる。要するに英語の内容はわかっている。アルザス人は英語で話しかければ英語、フランス語ならフランス語、ドイツ語にはドイツ語で素直に呼応してくる。フランス人度は若干薄目な人々と言える。

 OttoのVW PorscheでKaysersbergに向かう途中、ジュンは車窓からの風景に圧倒された。車道が舗装されていないため砂利がシャシーをはじく音を気にするでもなくOttoは丘陵の谷底を鼻歌を歌いながら走らせる。真っ青な秋空の中途から全面葡萄の紅葉した葉が、朝日を浴びて金色に煌めきながら、ある山からはまっすぐ垂直に、正面の丘からは左斜めに、その向こうの山からは右斜めに何本もの規則正しく並んだ密な無数の畝の隊列をなして、谷を走るジュンたちの車に流れ込んでくる。山々に他の樹が一切なく、すべての山と丘陵が全面葡萄の畝で覆いつくされている。世界のこの一郭は中世の頃から葡萄の木の群生地として開墾され、ヒトの手でずっと護られてきたにちがいないが、アルザスではそれがもはや人工なのではなく、まるで古代からそうであったかのような、ここではヒトがくる以前から、葡萄が山に自生していたかのように当たり前の風景となっている。
 日本のブドウ狩りで身の丈の棚から吊り下がった房を取ることしか知らなかったジュンは、見渡す一帯で葡萄の畝山が折り重なるさまをただただ呆然とまるで別の惑星に突然降り立ったようにぐるぐる見回すばかりだった。まるで養豚場の子豚が突如深い森にバサッと降ろされて、そうか、俺は元来、森のイノシシだったのかと気づいたような。ワインはそういえば、葡萄から造られているのだったよな。これがワインになる葡萄なのだな。Ottoが喉から生唾を呑み込む音を立てはじめる。後ろの座席の下に無造作に投げ出さた数本の空のワインのボトルが車体が跳ねるごとに小突きあって音を立てる。
「どうだい?もう美味そうだろう?俺の喉が待ちきれないってさ。」
「いや、ボトルが成っているわけじゃあるまいし・・・」
「何の何の。もう何万本のボトルが俺には見える。だめだ、唾が止まらない。」
「判った。じゃあ、今コルクを抜いた。何の香りがする?」
「Lindenbaum(菩提樹)の基調に日本のスイカズラの花の甘い香りが僅かにする、またはコリアンダーシードの柑橘系の香りとも言える。ミネラルは若干のヨード系で、樽のシナモンの風味も香ってくる。若いニンフが身に着けた薄いヴェールが風に戦いで香ってくるこの世のものとは言い難い素晴らしい香りだ・・・」
 客人ヘルパーという多少は遠慮ある扱いなどジュンが享受できる気配は現場になかった。40名ほどのDomaine Weinflussのvendangeヘルパーの一員として、割り当てられた斜面を村の人員の二人と三人の組で担当させられたが、どの色のいかなる現状の葡萄房を刈り取っていいのか、どちらの大籠に放り込むか皆目見当がつかないでいることを察知してから、村の二人がジュンをもっぱら運搬係として投入することに決めたため、大籠を背負って平均斜度30度はある中急斜面の上り下りを夕方まで負荷されることになった。大籠は半分ぐらいの時点で勘弁してもらい、その代わり上り下りの往復はその分頻繁となり、夕刻の引けには、膝がほぼ上がらなくなった。自分が初体験の客人に過ぎない事実をジュン本人が認知できるのは、たまに遠くから手を挙げてOttoがウインクしてくる時ぐらいだった。
 刈り取りが終わって、皆Domaine本館の大食堂に用意された夕食会に集まっていたが、大柄の女主のマダム・フェラーが微笑みながら、且つ、軽く肩を労わるように触れて、ジュンを二階の客人用のアパルトマン側の寝室に引率してくれた。皆の笑い声が食堂の方から漏れてきた。「ジュン」という単語が時々歓声に混ざって聞こえてきた。奥の広い厨房から何か少し醤油が焦げるような香りが漂ってくる気がした。
「ムッシュー・ジュン、Excuse-moi!」
 ノックをして先刻までの汚れた作業着の上にソムリエの黒服のジャケットだけ羽織ってOttoがバスルームに入ってきた。ジュンはまさにバスタブに素っ裸で浸かっているところだった。
「このアパルトマンにはどうやら鍵もないらしいね。」
「これはこれは、Pardon!ご入浴中でしたか。」
左腕に細長く折った白布をサービス・ナプキンのように掛け、手にしたマグナムのワインボトルから突き刺していただけの古コルクを仰々しく引き抜いて、中身の液体をトクトクと放物線をわざと大きく描きながらジュンのバスタブに注ぎ始めた。
「あの、こちらはですね、当ハウスからの歓迎の意を込めた先月収穫したKaysersberg産マスカットのVin Bourruです。美容と筋肉痛に効能があると言われております。かのナポレオンもワイン浴は大変お好きだったようであります。」
踵を返してOttoは浴室のドアを後ろ背に閉めて出て行った。とすぐにまた薄く開けて、隙間から首を覗かせた。
「大変だったね。人手が足りない。ジュンがいて本当に助かった。ゆっくり浸かって、さっぱりしたら下に来て。長テーブルの一番前の『Table pour Juin』を特別にみんなで用意しているからね。Surprise、Surprise・・・」
 たっぱはジュンより額一つ分高いぐらいで178㎝ほど、バネはありそうだが、腹回りにかなり丸く肉付きがあって、黒服のヴェスト・ジレに収まっている時のほうが堂に入っている。穏やかなベース顔の輪郭にシェブロンの口髭。ブリュネットの髪が癖毛なことは揉み上げがカールしていることでわかるが、頭部はいつもオールバックにまっすぐ品よく固めている。
 32歳だと言っていた。ゲルマン系の険しい彫ではなく、南欧のラテン系のローマ鼻。丸アーモンド目に、少し濃い目のヘーゼルカラーの虹彩が瞳に柔和に普段は浮いている。レストランでは違った。明かりの関係か、わざと眉間を寄せているのか、散瞳して大きくなった黒目が細めになった半月目を占めていて、妙に威厳があった。Ottoは右目を見せようとする。だが、左目にいるOttoそのものをジュンは見抜いている。「本当に知りたい?」という目の会話の折、ジュンはOttoの左目だけを覗いていた。左右の目の印象の乖離をジュンはもう知っている。画家の目でジュンがOttoの瞳を凝視して値踏みを済ませていることをOttoは知らない。でなければ、ここにジュンが来ることはきっとなかった。
 余りの過酷な労務に今日で帰ろうと丁度心に決め、どう切り出すか悩んでいたところだった。会場の電話を借りて、時差を構わず日本の関係者には、ビデオでのプレゼンテーションが好評であったこと、Colmarの観光局局長がパリから来ていた日本国大使館の二等書記官にぜひOGANO Festivalを招待したいと関心を示していたこと、二等書記官からはパリの日本人ではなく、地理的に近い西ドイツの首都ボンの大使館経由で手古舞の女児を募った方がむしろ良いと提言があったこと等々の報告はすでに済ませてある。これからは予定通り私用でもう十日ほどフランスを回ることの了承も得てあった。
 Ottoが注ぎ込んだVin Bourruの葡萄の饐えた匂いが取れない。日本ならバスタブから出て体を洗い流せるが、バスタブが置かれた木の床には排水口などない。立ち上がって下りて湯を被れば、階下に湯が染みて流れ落ちてゆくに違いない。シャワーは湯船の真上の天井に取り付けてあるアンティックな真鍮のイタリアン・オーバーヘッドからドボドボと太い湯水の筋が何本か落ちてくる仕掛けで、脇の床に立っても体を濯ぎようがない。熱い湯が出ることをむしろ有難く思うべきなのかもしれない。一度バスタブの湯を抜いて、天井シャワーを全開にしてバスタブの中で躰を洗いなおすしかなかった。

先刻マダム・フェラーがナイフで大きな塊から切り分けてくれた赤いバラの花びらが片側表面に張り詰めてある固形石鹸は確かに薔薇の香りがした。おそらく客人へのもてなし用の高級なハンドメイドのsavonに違いない。香りは絶品だが、薔薇の半枯れの花弁が濡れて髪や頬や脛に張り付き、とうとうバスタブの排水口を全面塞ぎ、水を抜くのに一苦労を強いられた。割り箸などない。他人の家の排水口に指を深く突っ込むのは気持ちの良いことでない。明日発つ決心は固まった。
「やっぱり噂通り、ニッポン人はお風呂が好きなのですね。」
マダム・フェラーに奨められるまま、皆が会食している15メートルは優にある長テーブルの端の上座の二人席の右側にまるで王侯のように着席させられる。
「ここが今夜は『Table pour Juin』です。」
「すみません、お待たせして・・・」
「もう俺が入れたVin Bourruで酔っぱらって風呂で寝ちゃったかなって話してたんだ。」
 Ottoが寄ってきてジュンの項のあたりを嗅ぎ始める。
「うん、香しいKaysersbergの新鮮なブドウの香りだ、いや、待てよ、石灰質の土の匂いも少しする。ん?薔薇の園をそよぐ風も感じる・・・。」
 役者のような身振り手振りに皆が沸き上がる。ラテンの血が明らかに流れている。今年の葡萄を刈り取る同じ作業に誰もが一日中勤しみ、誰もが同じように疲れ果て、誰もが同じ食事とワインを振舞われているこの広間では隣に誰がいようが、それが仮に市長であれ、恋敵であれ、誰もがこの憩いの時間を楽しもうとしている。そういえば、水引幕と後幕がついている山車の「屋台」を取り囲む秩父夜祭の人の群れと同じだ。三味線と長唄に合わせた曳き踊りはないが、Ottoはさしずめ地芝居の狂言回しの道外方。幕が上がり、頬紅を塗りたくったねじり鉢巻きの女装したひょっとこが顕れるのを知りながら、幕が上がるまで笑いを抑えて待っている。今のは即興の言い回しで、祭りを楽しもうとしている観客のもっと笑いたいという地合いにひょっとこOttoのオフレコが油を注いだわけだ。そこは、秩父もKaysers-bergも違いがない。
「ん?待てよ?(ジュンの髪を嗅ぎながら)なんか、Soyasauceの香りもするぞ・・・」
でんでん太鼓の代わりにOttoはスプーンで空のワインボトルを何回か弾く。
「それもそのはず、このMonsieurジュンは日本からの客人ですからァ」
 奥の厨房からマダム・フェラーとアジア系の女がワゴンを牽いて広間に入ってくる。『Table pour Juin』と古いワイン樽の木っ端に白いペンキで手書きで書かれたテーブル・プレートを仰々しくOttoが卓中央の方にずらして、ワゴンからまるで中世の村の炊き出し用のように大きな黒い鉄の釜を重そうに持ち上げてジュンの前にドスンと置く。直径70㎝はある木蓋をジュンの鼻先で上げる。
「Voilà!(ほれ、どうだい)日本のSUKIYAKIだぜ‼」